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2000.8 中国西北シルクロード14 高昌国時代から火焔山山中に掘られたベゼクリク千仏洞

2020年12月31日 | 旅行

世界の旅・中国を行く>  2000.8 中国西北少数民族を訪ねる=シルクロードを行く 14 高昌国時代に始まるベゼクリク千仏洞

 11:30ごろ、高昌故城をあとにして車で15分ほど北のアスターナ古墓群に寄った。
 道路に車を止め、ガイドのKさんが指さす。茶褐色のゴビタンが広がるなかに無数のボコボコした起伏が見え、ところどころに穴が開いている(写真)。指を指されなければ見過ごしてしまうほどゴビタンと変わらない風景である。
 穴は墓室に下る入り口である。ボコッと盛り上がっているのは、地下墓室を掘るときに掘り出した土に風で吹かれた土が吹き寄せたのであろう。
 高昌国時代から唐の時代にかけて掘られた400余の墓室群だそうだ。壁画が残された墓室、ミイラの見つかった墓室もあり、絹織物や陶器などの副葬品も見つかっているが副葬品の類は博物館に保管、展示されている。一部の墓室が公開されていて、壁画やミイラを見学できるようだ。
 極度の乾燥が墓室の保存を可能にしたのだろうが、ミイラとの対面は気が進まない。遠望するだけにとどめ、ベゼクリク千仏洞に向かう。

 行く手に山並みが見える。山肌のヒダヒダが猛々しいから火焔山に違いない(写真)。
 道路沿いに煉瓦積みの四角い民家が現れ、小さなモスク、ポプラの並木、地に張りついた緑を通り過ぎる。どこかに水源があるようだが、車からは見えない。
 じきに民家も緑も消えた。火焔山のヒダヒダに沿って走ると、堅い茶褐色の土が途切れ赤みを帯びた砂山が現れた(写真)。堅そうに見える山肌も元は土であり、強い風で飛ばされた砂が大きな吹きだまりになるのであろうか。砂山を見つけた地元民?が駱駝乗りを商いにしているようで、観光客の一団が駱駝に乗っている。

 その砂地が終わった先がベゼクリク千仏洞で12:20ごろに着いた。ベゼクリク千仏洞は高昌故城の北22km、トルファン市街から北東50kmの火焔山山中の石窟群である。ムルトウク河が火焔山に谷を削り出し、その崖に6世紀ごろから石窟が掘られ、唐、五大十国、宋を経て元時代まで掘られたそうだ。
 敦煌の莫高窟=千仏洞は、4世紀、楽尊が掘り始め、大勢の仏僧が共感して元時代まで掘り続けられた。勝手な推測だが、莫高窟=千仏洞の話が高昌国に伝わり、地形、地質のよく似たベゼクリクで石窟が掘られ始めたのではないだろうか。

 高昌国は玄奘三蔵を招くほど仏教への信仰心が強く、続く唐も、吐蕃=チベット族も、天山ウイグル王国=ウイグル族も仏教を信仰していたから盛んに石窟が掘られたようだ。
 しかし、モンゴル帝国解体=元滅亡以後の14世紀にイスラム教が浸透した。イスラム教では偶像崇拝は認められていない。ベゼクリク千仏洞に描かれた釈迦像、菩薩像、王族や貴人たちの顔が削られ、泥を塗られ、多くの仏教美術が損壊された。

 清末には、イギリス、ドイツ、ロシア・・、日本も含む外国人探検家が千仏洞の壁画をはぎ取り、持ち出してしまった。ベゼクリク千仏洞の壁画一部分が残っているに過ぎないそうだ。
 持ち出された壁画は、ロンドン・大英博物館、サンクトペテルブルク・エルミタージュ美術館、東京国立博物館、インドの国立博物館などに展示されているそうだ。仏教美術愛好家として、あるいは仏教美術史研究者として壁画を鑑賞するのであれば博物館を訪ねた方が良さそうである。しかし、ゴビタンの強い日射しを浴びながら現地に石窟を訪ね、イスラム教による損壊や外国人探検家による持ち出しの歴史を含め、ベゼクリクの風景のなかで石窟に残された壁画を見れば、800~900年に及ぶ人々の仏教によせる思いに迫れる気がする。それが異文化の旅の醍醐味でもある。

 訪れる人が多いのか、千仏洞の入り口近くに遊牧民が利用するテント住宅が置かれ、土産物などが売られていた(写真)。のぞくとモンゴル族のゲル=パオと構造が少し違う。並んでいる品々も漢民族の色合い、模様とは違う。
 千仏洞の通りで音楽を奏でていた楽器も音色も漢民族とは異なる。音楽にあわせて踊る女性の衣装も顔立ちも、もちろん踊りも漢民族を感じさせない。
 高昌国は漢民族が興したが、西域との交流が盛んだったうえ、その後の吐蕃=チベット族、天山ウイグル王国=ウイグル族、モンゴル帝国=モンゴル族、さらにイスラム教=アラビア?トルコ?ペルシャ?が侵攻し、さまざまな民族が混住したためであろう。

 ムルトウク河の谷は深い(写真、右手が千仏洞)。これほど深い谷を削りだしたのだから、ムルトウク河を流れる雪解け水はかなりの勢いがあったようだ。燃えるような火焔山に深い谷を削り出す豊かな雪解け水の取り合わせは絶景といえよう。
 のぞき込むと樹林が続いている。水があれば緑が育つ。水と緑があれば暮らしも成り立ちそうだが、交通の便が悪いためか、交易には向かなかったようだ。となれば、観光客相手の商いになる。テント住宅のほかにも千仏洞の通りには土産物屋が並び、楽器を奏で踊りを披露する大道芸が披露されている。石窟前の通りは観光客と土産物店、大道芸で人通りは多い。

 2000年当時、83の石窟が発掘され、40の石窟に壁画が残っていると説明を受けた・・70余の説もある。石窟内に掘られた小石窟などの数え方によるのだろうか?・・。石窟内の写真撮影は禁止の注意を受けたあと、17、20、27、31、33、39窟を見学した(千仏洞全景は前掲写真)。

 清末期、ドイツ探検隊が20窟から壁ごと切り出して持ち出した「誓願図」は、ベルリン・民族博物館?に展示されたが、第2次大戦下の空爆で焼失してしまった(写真、web転載)。記録写真からも釈迦たちの生き生きとした表情が豊かな色彩で表現されていることが分かる。貴重な遺構が焼失してしまったのは実に残念である。惜しむらくはドイツ政府は現代技術で複製をつくり、20窟に寄贈してほしいと願う。
 ドイツ探検隊の資料のなかに回廊型の石窟+小石窟の図が描かれているそうだ(写真は9窟、web転載)。莫高窟に影響を受けながらも、回廊型という新たな試みがなされたのであろうか。

 見学した石窟の基本は、天井に千仏図、壁の両側に説法図が描かれている。顔は削られた跡、泥を塗られた跡が残っていたが、構図はしっかりし、表現も細やかで、色彩の鮮やかさもうかがえた。
 修復を期待し、表に出る。13:00を過ぎていて、太陽はほぼ真上にあり、温度計はたちまち50℃になった。ホテルにいったん戻りランチ+休息を取ることにした。  (2020.12)

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