ことしの桜の花は、季節をすこし早く来て、早くに去った。
あの豊穣な咲き方はなんだったのだろう。すべての枝の先の先まで花を付けて、空を覆いつくそうとした。
その勢いを、黙って見過ごすことができなかった。桜は生きて呼吸して叫んでいるようだった。
その発している言葉を、聞いてやらなければいけないような気持にさせられた。だが、ぼくには花の言葉がわからなかった。
吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき (西行)
花と出会った西行は、心と体とがばらばらになってしまったようだ。
花を恋したひとは、すっかり心身のバランスを崩してしまった。「花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞくるしかりける」と、わけもなく苦しみの感情が湧き出してきたのだった。それは本当に苦しみだったのだろうか。歓びだったのかもしれない。西行は、そこまで花と交感しあうことができたのだから。
桜の花に魂があるとしても、ぼくにはただ見つめることしかできなかった。百花繚乱あるいは狂乱、ともに狂えそうで狂えなかった。残念に思う。
花を啄む鳥を真似て、桜の花の蜜を吸ってみた。かすかに甘みがあるようだが、やはり鳥のような細い嘴と舌でなければ、その繊細な味には届かなかった。
香りも嗅いでみた。懐かしいがなかなか思い出せない、遠くて淡いものだった。ぼくらは異質の魂を持っているのか、近づけない苛立ちばかりが募ってしまった。
詩人の谷川俊太郎なら、西行のように花と一体になれたかもしれない。
彼は詩の中で、植物の羊歯とも交合できてしまう(『コカコーラ・レッスン』)。
わずかな風に首を振っている羊歯との出会い、「私は言語を持たぬ生物にも或る種の自己表現とも言うべきもののあるのに気づいた」という。
「私はその葉に手を触れずにはいられなかった」。その「指先から安らぎというしかない平明な感覚が伝わってきた。その感覚を失いたくないと思った」という。そうして、
「私の身体の中の私でない生きもの」が羊歯(しだ)との交合を始める。
満開の桜は悩ましい。
その光りかがやく魂に触れたいと思った。だが、ぼくの中のぼくでない生きものが、ぼくには見つけられない。身に添いすぎた心を引き離すことができない。
ことしも桜の花に再会し、その豊穣な季節の輝きを浴びた。けれども、またしても桜をモノにすることはできなかった。そんな、もやもやとした気分で花を眺めるばかりだった。そして、あっという間に、緑葉の萌える世界に代わってしまう。
ことしの春も、桜の花との距離は縮まらないままだった。