風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

妄想のゴミ

2018年04月15日 | 「新エッセイ集2018」

 

朝日を浴びながら公園で瞑想をする。
ぼくの場合は、迷想あるいは妄想といった方がいいだろう。晴れた日は妄想も明るい。明るすぎて眩すぎて雑念ばかりがみえすぎる。

「きょうもお日さんが昇りよったな」と、いきなり声をかけられた。
ゴミを拾って歩くおじさんだ。小さな買い物車に箒などの清掃具を積んで、炭バサミでゴミを拾って歩く。
「生きとるかぎりは元気で居なあかん」
ひとりごとのようでも、ぼくに話しかけてるようでもある、そんな話し方をして笑っていた。

おじさんはいつも、軍歌を歌いながら作業をしている。そういう世代なんだろう。演歌もフォークも素通りして、軍歌のリズムしか受け付けない。そのリズムが体に浸透している。そのリズムの時代と感覚が、いまも、おじさんの背中を押し続けているのかもしれない。
その頃は、食べ物もなかったがゴミもなかったのではないだろうか。いまは食べ物も余っているがゴミも溢れている。公園に散らかっているゴミのひとつひとつが、おじさんには、信じられない落し物にみえるかもしれない。

撃ちてしやまん。そんな古い言葉が浮かんできた。
ぼくの朝の妄想の中で、おじさんは静かに戦っている。生きとるかぎりは、と言う。それはある時代に生き残った人の、強い決意の言葉のように聞こえる。
陽は昇り、陽は沈む。公園のゴミは、拾っても拾っても際限なく捨てられていく。それを、おじさんは黙々と拾いつづける。生きてるかぎり、戦いつづける。
だが戦うおじさんも、ぼくがまき散らした妄想のゴミは拾えない。

 


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