風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

雀の涙

2018年04月06日 | 「新エッセイ集2018」

 

スズメは、ごくありふれた小鳥だ。
年中どこにでもいるが、誰もあまり気にとめない。カラスのようにゴミを散らかしたりする被害もこうむらないから、ふだんは無視できるし関心をもつこともない。
スズメはとくにきれいな鳥でもないし、格好が良いというわけでもない。どんなにたくさんいても目立たない。居るのか居ないのかわからない。そういった鳥だ。

そんなスズメが、わが家のベランダの、植木鉢のかげに巣を作った。せっせと枯れ草を運んでいる。いつも、つがいで居るので、体の大きいほうをチュンタロウ、小さいほうをチュンコと勝手に名づけた。もしかしたら逆かもしれない。鳥類は一般的にオスの方が色が鮮やかでスマートなものだが、スズメの場合は見分けるのが難しい。
スズメがどんなにいっぱい居ようとも、名前の付いたスズメは特別で、いつのまにか家族になったみたいだ。きゅうにスズメとの距離が近くなった。

今朝はさかんに交尾していた。羽を小刻みにふるわせて、生き物の春を愉しんでいるようにみえる。交尾のあとは柔毛が乱れて、それを嘴でつくろったりしている。
そんなスズメの世界に、思わず共感してしまう。体中が柔毛になって力が抜けていく。そのあとにまた、体が整ってじわじわと力がみなぎってくるみたいで、再びさかんに鳴きはじめている。いまはスズメの青春期なのかもしれない。

子どもの頃、子スズメを飼って死なしてしまったことがある。可愛さだけでは育てられない。生き物にはそれぞれの、独自の生き方があるのだった。
友達からもらった子スズメを、ご飯粒をやったりして育てていた。あるとき2階の窓辺に置いていたら、どこからかスズメがやってきて子スズメにエサをやっている。スズメはいくどもいくどもエサを運んできた。そのスズメは子スズメの親ではなかったと思う。それでもエサやりは続いたので、ぼくはその親スズメに子育てを任せることにした。だが一日中、雨が降り続いた日に親スズメは来なかった。それで子スズメは死んでしまったのだった。

そのようにスズメには過去の負い目があるので、できるだけ知らんぷりをしている。おどかさないように、無事に巣立っていくのを見守っている。
スズメの涙ほどの、などと言ったりするが、たとえちょっぴりの涙でも、もうスズメの涙は見たくないのだ。

 


この記事についてブログを書く
« 桜よ、わが真実を感ぜよ | トップ | 満開の桜は悩ましい »
最新の画像もっと見る

「新エッセイ集2018」」カテゴリの最新記事