風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

カビの宇宙を漂っている

2022年11月06日 | 「詩エッセイ2022」



陽が落ちるのが早くなった 夜空の月も輝きを増して クールに澄みきっている 久しぶりに風を 寒いと感じて窓を閉めた 夏のあいだ開放していたものが 閉じ込められてしまい どこからともなく カビの匂いが這い出してくる おまえはまだ 居座っていたのか 古い友だちの匂いがする 思い出と馴染みがある カビの匂いは嫌いではない カビ臭い部屋にいると 特別な空気があり 湿った温かい布団に 包まれているような 懐かしさと安堵感もある 古い民家や寺院などの しっかり淀んだなにか 見えないものに包み込まれて ずっと其処に居たような 落ちついた気分になってしまう 生まれた川の匂いを覚えていて その川へ帰っていく 魚族の感覚に近いものだろうか 僕が帰っていく川は 古くて小さな家だ 家族7人が住んでいて 狭い部屋にごっちゃだった ごちゃごちゃは嫌だった だからときどきは ひとりきりになりたい 静かな部屋が欲しかった いつ頃だったか 押入れの一隅を 自分の隠れ家にした 閉めきると暗闇 何かが出来るわけではない ただじっとして 自分の空間を確かめている それは何かを避けて 隠れていることでもあった かくれんぼよりも淋しい遊び 自分で隠れて自分で見つける だれも探してくれない 単なるひとり遊び 触れ合えるのはカビばかり とにかく押入れの 其処はカビ臭かった 暗闇なので 聴覚と嗅覚だけの世界 外の気配に耳をすましながらも 家族の干渉から逃れて ただ閉じこもる 楽しいわけではない 耐えているのかもしれない はじめはカビの匂いが嫌だったが ひとりの空間をカビに守られている カビの匂いは僕を包み込み 守ってくれるものになっていく カビの匂いは秘密の匂い 酸っぱいが甘くさえあり いつしか心地のいい匂いに そこは暗くて小さな宇宙だった そして一瞬で記憶の星となって いま 僕の狭い部屋の隅に 小さな物入れがある 扉を開くと カビの匂いがとび出してくる カビの住処はそこにもあった とりあえず必要ないものとか 大切なものかもしれないものとか とりあえず捨てられないものとか いつかまた使うかもしれないものとか 種々雑多なものを放り込んである どんなものがあるのかも よくわかからない 物がだんだん増えていくので 確かめるのも億劫になっていく それでますますごっちゃになる そこにはたぶん ランダムに書きなぐったノートや 古い日記帳がある 読み返すこともない 変色した手紙がある 雑多な写真やフイルムがある 録音テープや8ミリフイルムがある 若い父が使っていた ドイツ製の蛇腹カメラがある 僕が使っていた一眼レフや 交換レンズの数々 シングル8や映写機 それらはデジカメの時代になって 出番はなくなった 重いバッグもあるだろう ラジカセもあるだろう フロッピーディスクやMOディスクも それらのすべてが、カビに包まれて眠っている いまや カビの部屋にこもっているのは 僕の抜け殻ばかりだ 彼らは僕の干渉を離れて 自由に余生を楽しんでいる と思いたい そのうちチーズのように 熟成されるかもしれない そうなれば愉しい 久しぶりにカビの匂いと出会って 妄想がカビのように増殖していく



自作詩『魚になる季節』



 


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