風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

ときには時を動かしてみる

2019年04月24日 | 「新エッセイ集2019」

時が静かに過ぎてゆく。
時間に追われていた頃もあった。時間を追いかけた頃もあった。
いまは、つれなく時間に追い越されている。時の足音すら聞こえないことも多い。
締切がなくても、約束がなくても、それでも時は動いている。
いたるところに時を表示する時計はあり、時の針(現代では数字かな)も動いている。けれども、ときには時をじっと待ち、じっと見つめてみたくなったりする。

古い腕時計を持っている。
ぼくは旅行をする時ぐらいしか腕時計をしないので、普段は机の引出しにしまったままになっている。
学生の時に父からもらったものだ。電池やネジで動くものではないので、いまでも動かせば動く。使わない時は止まったままだが、動かしたい時に腕にはめて腕を振る。それだけで動き始める。そんな旧式の時計だ。
スイス製だぞと言って、父は自慢げだった。いまでは、日本製のほうが自慢できるかもしれない。
まだ、スイス製の時計がまぶしかった頃のことだ。

父がいうスイス製は、あまり信用できないこともあった。
九州の片田舎で、父は商売をしていた。店では、大阪の問屋から送られてくる質流れ品を扱っていた。
衣類からミシンまで種々雑多な商品があり、その中に時計もあった。父はローマ字が読めないので、送られてきたばかりの腕時計のブランド名を、高校生のぼくに一点一点確認させる。
ぼくの読解力もいい加減で、セイコーやシチズン以外の舶来品はよく判らない。すると、そんなものはすべて、父のひと言でスイス製になってしまうのだった。
だから、ぼくがもらった腕時計も怪しいものだ。それでも父よりも長生きして、時々はぼくの腕で役割を果たしているのだから、たとえニセ物であっても、もはや商人の父に恥をかかすこともないだろう。

父の葬儀のあとに、形見のつもりか母がぼくにくれた腕時計もある。それまでずっと父が使っていた腕時計だった。
その腕時計は正真正銘のスイス製だったが、電池式だったので1年ももたずに止まってしまった。電池を交換すれば動くのかもしれないが、面倒なのでそのまま引出しの奥で眠らしている。
考えてみれば、すでに父の十三回忌もとうに過ぎたので、その時計もほぼ永眠状態だといえるかもしれない。

古い腕時計の方が旧式なゆえに単純で、振るだけで動いてくれるというのもなんだか皮肉めいている。古さは、ときには新しさでもあるのだ。
先日、光のトンネルを見に行ったとき、途中で1時間遅れていることに気がついた。とうとうこの腕時計もガタがきたかと心配したが、その日は夜まで、正確に1時間くるったままで動いていた。
どうやら朝の時間合わせのときに、ぼくの方が1時間まちがって針を合わせたようだった。ゼンマイがゆるんでいたのは、ぼくの方だったのだ。

いまや、ぼくに忠実に従ってくれるのは、この腕時計だけかもしれない。
野山も鮮やかな新緑に燃えている。ぼちぼち引き出しの眠りから目覚めさせて、どこかに連れ出してやろうかと思っている。
いつも、突然起こされたようにして動きだすのろまな腕時計だが、ぼくには合っているように思えてきた。腕を気にしながら大きく振って歩く。すると時が動きだす。停滞ぎみのぼくの心の秒針も、つられて一緒に動きはじめるような気になる。

 

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2 コメント

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Unknown (hiro_kuma3)
2019-04-28 17:35:28
アクセスありがとうございます
今後とも頑張って書きますので
よろしくお願いします
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Unknown (yo88yo)
2019-04-28 21:19:58
くまさんは
お料理が好きなようですね。
こちらこそよろしくお願いします。
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