風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

瀬戸の夕なぎ

2024年08月28日 | 「2024 風のファミリー」

 

夏の夕方、大阪では風がぴたりと止まって蒸し暑くなる。昼間の熱気も淀んで息苦しく感じる時間帯がある。
瀬戸の夕凪やね、と私が言うと、周りのみんなは笑う。大阪人は瀬戸という言葉にあまり馴染んでいない。多くの人は海に無関心で暮らしている。海岸線がほとんど埋め立てられて、海が遠くなったこともあるかもしれない。

瀬戸の夕凪という言葉を、私は別府で療養していた学生の頃に知った。療養所は山手の中腹にあって、眼下には別府の市街と別府湾が広がっていた。
夜の9時には病室の電気は消される。眠るには早すぎるので、夜の海を出航してゆくフェリーや漁船の灯をぼんやり追いかける。航跡の遥か前方には、四国の佐多岬の灯台の灯が点滅しているのが見える。闇の中に無数の灯を浮かべる海は、昼間よりも豊かであり、そこから瀬戸の海がひろがっているのだった。

夏の間、療養所ではどの部屋も窓とドアを開け放っていたので、風がよく通った。昼間は海の方から吹き上げてくる海風、そして夜になると、こんどは山の方から吹き下ろしてくる山風。この風向きが変わる夕方の数時間が無風になる時合いで、瀬戸の夕凪やね、とよく言い交わされていた。

別府は、別府湾という丸い海を抱いているような街で、人々の生活にも海は浸透していた。夜に湾を出て行った漁船は、早朝また湾に戻ってくる。山からの吹き下ろしの風に乗って沖へ漕ぎ出し、朝の海風に乗って帰ってくる。
帆を張って航行した舟の時代からの、そんな舟乗りたちの生活習慣が引き継がれているようだった。漁をする生活は、瀬戸を吹く風とともにあったのだ。

瀬戸内海というひとつの海を共有することで、よく似た気候と風土が存在しているように思える。九州と中国四国、それに近畿と、そこで暮らす人たちの言葉や人間性にも、よく似た部分があるような気がする。古代から海上の交流が盛んだったこともあるだろうが、穏やかな内海を相手にするせいか、人々の性格も概して穏やかで、そこから生まれてくる言葉もやわらかい。同じ風を呼吸し、瀬戸の夕凪を共有しているからだろうか。

瀬戸という地形でみると、別府は西の果てで大阪は東の果てということになる。商人の町として栄えた大阪は、海から運河を通じて交易も盛んだったが、多くの町人の暮らしは海からは離れていたようだ。
それでも海風は勝手に吹いてくる。大阪の夏はしばしば西風に乗って潮の匂いが運ばれてくる。人々はもはや海の感覚を失っているので、潮風を嫌やな匂いの風やなあ、といって嫌い、クーラーの風に浸って瀬戸の夕凪に耐えていたりする。

どんどん遠くなっていく現代の海であるが、ときには海の記憶と感覚を呼び戻すことによって、ちょっとした風の動きにも、涼風のような歓びを感じることはできるかもしれない。
はるかな記憶の彼方で、海から生まれたわれわれにとって、海は生命のコアに秘められたものであり、容易に海から遠ざかることはできないはずである。




「2024 風のファミリー」




 


トンボの空があった

2024年08月25日 | 「2024 風のファミリー」

 

夏は、空から始まる。もはや太陽の光を遮るものもない。真っ青な空だけがある。
地上では草の上を、風のはざまを、キラキラと光るものが飛び交う。トンボの飛翔だ。翅が無数の薄いガラス片のように輝いている。
少年のこころが奮いたった夏。トンボの空に舞い上がろうとし、トンボを撃ち落とすことに歓喜した。そんなことに、何故あんなに熱中できたのかわからない。

回想の夏空がひろがる。
細い竹の鞭が空(くう)を切る。その一閃に全神経をそそぐ。中空でかすかな手ごたえがある。つぎつぎにトンボが川面に落下する。トンボは四枚の翅を開いたまま瀬にのって流れていく。残酷な夏の儀式だった。虫の命を奪いながら、少年は背中を太陽に焼かれ、腕や脚を傷だらけにして、いくつもの夏を乗り越えた。

置き去りにしてきた幾つもの夏。
もはや少年の日には戻れない。けれども、どこかに置き忘れたままになっている、古い虫取り網を探しに帰る。
久しぶりの夏を郷里で過ごす。懐かしい駅に降り立ったときの戸惑い。壁の薄汚れた時刻表はいつのものかわからない。行先を見出せないでいると、わずかな乗客を乗せた気動車がしずかに通過していく。置き去りになっているのは、無人改札口の駅か、あるいは少年の私かもしれなかった。

私は突然トンボの記憶に遭遇した。
大きなオニヤンマが、私の頭上をかすめたのだった。細い山の道をなぞるように、かれは空中を行ったり戻ったりしていた。かれのテリトリーに入ってしまった私を、かれは威嚇していたのかもしれない。
少年のこころが動いた。そばに落ちていた竹の棒をひろって、かれの行く手に振り下ろした。戯れのつもりだった。けれども命中してしまった。私の体が覚えていた少年の記憶と感覚は、あまりにも正確すぎたのだ。トンボは落下した。

オニヤンマは、トンボの中では最大級ではなかろうか。その大きな図体が道の上に落ちていた。翅を広げたまま、まるでそこで休んでいるようだった。黄色と黒の縞模様もくっきりとして、美しい緑色の大きな目も、あたりを睥睨するように輝いている。
とつぜんの衝撃に驚いて、そこに落ちているようだった。そうあってほしいと私も願った。だが手にとっても動こうとしなかった。
いつでも飛び立てる格好で、トンボを生垣の上においた。

それまでオニヤンマが飛翔していた空に、ぽっかりと大きな穴があいていた。そこだけ夏の空が失われたようだった。
少年の日に、赤トンボが無数に飛び交っていた空を思い出した。その空から、どれだけのトンボの翅を、そしてトンボの空を奪い取ったことだろう。今になって私は、その広い空間がトンボの空だったことを初めて知った。
 
   蜻蛉の夢や幾度、杭の先 (漱石)




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雲の日記

2024年08月19日 | 「2024 風のファミリー」

 

小学生の頃の夏休みに、雲の日記というものを始めたことがある。絵日記を書く課題があったのだが、その頃は絵も文章も苦手だったので、雲を写生するのがいちばん簡単だと考えたのだった。青と白と灰色のクレヨンがあればよかった。日本ばれの日は雲がなく青一面。何も描かなくていい、やったあ、だった。それでも一週間も続かなかった。やはり簡単で単純なものは面白くないのだった。

午後は、日が暮れるまで川で泳いだ。湧き水が混じっているので冷たかった。体が冷えきってくると岸に上がり、熱した砂に腹ばいになって温まる。雷雨が来ても、そのまま背中に雨のシャワーを浴びている。
一瞬の雨をやり過ごすと再び強い日差しに背中を焼かれ、熱くなると再び川に飛び込む。夏休みは毎日そんな生活の繰り返しだった。

砂地に寝転がってぼんやり空を眺めていると、頭の中が果てのない空のようにからっぽになった。雲が流れている。ああ、雲が流れているなあと思う。それ以外に思考は広がらなかった。
空腹になると、川辺のクルミの木の、高い茂みに石を投げて実を落とす。かたい種を河原の石で砕き、白い実を取り出して食べる。実と殻と砂が口の中でじゃりじゃりするので、舌先で固いものだけを吐き出しながら食べた。

お盆の頃になると、川原には無数のトンボが飛び交いはじめる。トンボには仏さんが乗っているから、殺生してはいけないと大人に言われた。でも、禁じられたことはすぐに忘れてしまう。というより、やってみたくなる。
細い竹の棒をふりまわして、飛んでくるトンボをつぎつぎに叩き落とす。空中でバシッという手ごたえを残して、トンボは翅を広げたまま川面に落ち、笹舟のように瀬に揺れながら流れていく。生贄となったトンボの翅が、次々に川面を埋めつくしてゆくのを面白がった。

いくどかの夏をやり過ごした。
簡単で単純なことにも挫折はあった。その挫折感とともに雲の日記を思い出す。空には雲が、川面にはトンボの翅が、悔恨の影を落として漂っている。
今の私には、雲はたいそう複雑な表情をしているようにみえる。だが今でもときどきは、記憶の雲の切れ目から、灰色と白の雲をつかもうとしてみたり、トンボの翅を追いかけたりする、無知な少年の姿がみえることがある。セピア色をした雲の日記帳である。




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そこには誰もいなかった

2024年08月15日 | 「2024 風のファミリー」

 

騒がしさの中に、静けさがある。見えそうな声と、見えそうでない声がある。出かける人たちや帰ってくる人たちで、夏のひと日が慌ただしく過ぎていく。生きている人たちが遠くへ行き、死んでしまった人たちが近くに帰ってくる。生きている人と死んでしまった人が、見えないどこかで交錯する透明な夏がある。
近くにいた人たちが半分になった。いつかどこかを、行ったり来たりしているうちに、人生の半分を失ってしまったみたいな夏。

失った日々を振り返る。かつては父が生まれ育った家でお盆を迎えた。ご詠歌と鉦のしずかな響きが仏を迎える。知っていたり知らなかったりの、縁者がごっちゃに集まるお盆の夜だった。
祖父の声は父の声にそっくりで、父の声と伯父の声も見分けがつかなかった。よく似た声と声が唱和して、時を越えて寡黙な仏へと繋がっていくのだった。いまはもう3人とも黄泉の国へ行ってしまい、残された者たちも次第に縁遠くなりつつあるけれど。

大阪生まれの父は、その生涯の大半を母方の九州で暮らしたので、墓は九州にある。
父は死ぬまで大阪弁をしゃべっていたが、幼少期を九州で育った私は、思春期を東京で過ごし、その後はずっと大阪で暮らしているが、いまだに大阪弁をうまく喋れない。
土地の言葉が使えない私には、思いをそのまま出せる言葉がないような、もどかしい気分になることがある。いつまでたっても身に沿わない言葉を使い、他所の人みたいだ。

私は未だに何をどうすればいいのか分からない。お墓参りの念仏も、南無阿彌陀仏か南無妙法蓮華経かでややこしい。どうでもいいことだが、大阪の里は古い宗派の融通念仏宗で、九州の里は法華宗だ。念珠の形までうるさかった人たちは、すでにもう墓の中で眠っている。そのせいかどうか、お盆はすっかり静かになって、いまでは思い出の中の声だけが騒がしい。古い人たちはみんな声が大きかったのだろうか。
蝉しぐれの道を歩いていて、ふと聞き覚えのある声に振り返ることがある。だが、そこには誰もいない。




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釘をぬく夏

2024年08月13日 | 「2024 風のファミリー」

 

学生の頃の夏休み、九州までの帰省の旅費を稼ぐために、解体木材のクギ抜きのアルバイトをしたことがある。炎天下で一日中、バールやペンチを使ってひたすらクギを抜いていく作業だ。いま考えると、よくもあんなしんどい仕事がやれたと思う。
毎日、早稲田から荒川行きの都電に乗って、下町の小さな土建屋に通った。場所も忘れてしまったが、近くを運河が流れていた。朝行くと、廃材置き場にクギだらけの木材が山積みされている。作業をするのは、私ひとりきりだ。

土建屋といっても、夫婦でやっているような零細なところで、夫は早朝から現場に出ているので会ったこともない。若い奥さんもほとんど顔を出さないので、まったくの孤独な作業だった。毎朝積み上げられた廃材を前に、ただ黙々とクギを抜くことに没頭するしかなかった。
始めのうちは、とても続けられる作業ではないと思った。ひたすらクギを抜く、ただそれだけの単純な作業だった。毎日が無駄な作業をしているような気がした。クギを打たれた木材の、クギを抜くことによって、その木材は再利用されるのかもしれなかった。だが自分がやってる仕事がよくみえなかった。それに炎天下の暑さにも耐えなければならなかった。とにかく、アルバイトの仕事とはこんなものだと割り切ってやるしかなかった。

クギを抜く、ただそれだけの作業だったが、やっているうちにクギにはそれぞれの個性があることがわかった。木の個性とクギの個性が、ときにはむりやり合体させられていることがあった。そんなクギを抜くときは、こちらも無理やりな力が要求された。そして、そんなクギを抜くと、なぜかほっとして気分が良かった。抜かれたクギと木も、本来の姿に戻って安堵しているようにみえた。それは単純な作業をするなかでの気休めだったかもしれない。でも、そんな気休めに励まされて熱中できたからか、なんとか続けることができた。

週に1日だけ、臨時の作業員が5〜6人招集された。近所のおばちゃん達のようだった。彼女らはおしゃべりばかりしていて、作業はあまり進まなかった。私はクギ抜きの要領もつかんでいたので、私の作業はおばちゃんたちの集団には負けていなかった。クギが抜かれて積み上げられた廃材を見れば、その成果は歴然だった。
そんなことがあったからか、その週の報酬は少しだけ増えていた。誰にも見られていないような仕事だったけど、土建屋の奥さんは見てくれていたのだろう。

ただクギを抜く。それは、ただ雑草を抜く、ただ塵を拾うといった、それだけの単純で無駄なような作業にも思われた。けれども苦役の合間には、ほんの少しだけの喜びもあった。苦しみと喜びは容易に天秤にかけられるものではなかった。そんな作業が1か月ほど続いたと思う。最後には、水ばかり飲んでいるうちに夏バテになってしまったけれど。
一日の作業を終えて、淀んだ大気の中を停留所まで歩いて帰る。小さな運河の橋を渡るとき、強い潮の匂いに包まれた。地理もよくわからなかったが、だだっ広い東京にもどこかに海があることが嬉しかった。そのほっとする思いは、クギを抜いた瞬間の小さな快感にも似ていた。




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