風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

雲の日記

2024年08月19日 | 「2024 風のファミリー」

 

小学生の頃の夏休みに、雲の日記というものを始めたことがある。絵日記を書く課題があったのだが、その頃は絵も文章も苦手だったので、雲を写生するのがいちばん簡単だと考えたのだった。青と白と灰色のクレヨンがあればよかった。日本ばれの日は雲がなく青一面。何も描かなくていい、やったあ、だった。それでも一週間も続かなかった。やはり簡単で単純なものは面白くないのだった。

午後は、日が暮れるまで川で泳いだ。湧き水が混じっているので冷たかった。体が冷えきってくると岸に上がり、熱した砂に腹ばいになって温まる。雷雨が来ても、そのまま背中に雨のシャワーを浴びている。
一瞬の雨をやり過ごすと再び強い日差しに背中を焼かれ、熱くなると再び川に飛び込む。夏休みは毎日そんな生活の繰り返しだった。

砂地に寝転がってぼんやり空を眺めていると、頭の中が果てのない空のようにからっぽになった。雲が流れている。ああ、雲が流れているなあと思う。それ以外に思考は広がらなかった。
空腹になると、川辺のクルミの木の、高い茂みに石を投げて実を落とす。かたい種を河原の石で砕き、白い実を取り出して食べる。実と殻と砂が口の中でじゃりじゃりするので、舌先で固いものだけを吐き出しながら食べた。

お盆の頃になると、川原には無数のトンボが飛び交いはじめる。トンボには仏さんが乗っているから、殺生してはいけないと大人に言われた。でも、禁じられたことはすぐに忘れてしまう。というより、やってみたくなる。
細い竹の棒をふりまわして、飛んでくるトンボをつぎつぎに叩き落とす。空中でバシッという手ごたえを残して、トンボは翅を広げたまま川面に落ち、笹舟のように瀬に揺れながら流れていく。生贄となったトンボの翅が、次々に川面を埋めつくしてゆくのを面白がった。

いくどかの夏をやり過ごした。
簡単で単純なことにも挫折はあった。その挫折感とともに雲の日記を思い出す。空には雲が、川面にはトンボの翅が、悔恨の影を落として漂っている。
今の私には、雲はたいそう複雑な表情をしているようにみえる。だが今でもときどきは、記憶の雲の切れ目から、灰色と白の雲をつかもうとしてみたり、トンボの翅を追いかけたりする、無知な少年の姿がみえることがある。セピア色をした雲の日記帳である。




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