風の記憶

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散文を行分けすれば詩になるか

2018年03月18日 | 「新エッセイ集2018」

 

ネットなどで最近、若い人たちの書いたものを読んでいると、センテンスが短くて改行が多く、さらには行間の空きなども多くとった文章が目立つ。一見すると詩のような形をしているのだが、読んでみると普通の文章なのだ。
文章の内容を別にして、読みやすい文章であることは確かだ。パソコンや携帯などでメールするときの文章の影響だろうか、話し言葉に近い。文学史上でのかつての言文一致体の動きに似たものが、いままた新しい形で始まっているのだろうか。
文章の形も詩に似ているが、もしかしたら内容的にも、詩に近いものを伝えているのかもしれない。彼らの文章は情報を伝えることよりも、気持や呼吸を伝えることに優れているようにもみえる。その面からみても、情感を重んじる詩という文学形式に近いともいえる。

現代では、一般的に詩は敬遠される。
詩であるというだけで、なにか難解なものを読まされるような気がしてしまう。書かれた言葉の裏まで読まないといけないような、ある種の緊張感を強いられるのだ。
そんなしんどいものに、普通は誰も近づきたくはない。ぼくの場合は、詩と触れ合う機会が多い方だと思うが、それでも詩を読むよりも、小説やエッセーを読むことの方がリラックスできる。
しかし、多くの人にそっぽを向かれながらも、詩と分類される文学ジャンルは存在し続けているし、ぼくはしばしば詩や詩のようなものを書きたくなる。
もちろん普通の文章も書く。詩を書いたり散文を書いたりしていると、詩と散文とどう違うのだろうかという疑問に突き当たる。実のところ、詩と散文に明確な区別はあるのだろうか。

ぼくたちは日常、散文あるいは散文系の言語形式に慣れている。詩のかたちには慣れていないのだ。だが、
「散文がどんな場合にも人間の心理に直接するものなのかどうか。そのことにも注意しなくてはならない」と、現代詩作家の荒川洋治氏も書いている。「詩を思うことは、散文を思うことである。散文を思うときには、詩が思われなくてはならない」(『詩とことば』)と。
いかなるものであっても、読む人の心に通じる真理を含むものであれば、それは素晴らしい散文であり詩であると言えるのだろう。それでぼくも、すこしだけ散文のことを思いながら詩のことを思ってみることにした。

 

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2 コメント

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初めまして。 (トロ)
2018-03-18 13:32:21
トロと申します。
あなたの文章を読んで、思うところがあったので、コメントさせていただきます。
私は詩あるいは詩みたいなものを書き始めて1年ほどになります。まったくの我流ですが、ただ何かを伝えたり論じたりするのではなく、読む人が何かを「感じ取る」ものを書こうと心がけております。
しかし、私の書いたものを読み直してみると、散文をそれらしく改行して詩のように変えただけのもののように見えてしまうこともあります。
詩を思いながら散文を思う、という境地には私はまだまだ遠いのですが、いつか本当に、形にとらわれることなく人の胸を打つものを書きたいと思います。
あなたの文章を読んで、そんなことをふと考えました。
長文失礼いたしました。
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人の胸を打つもの (yo-yo)
2018-03-18 18:41:09
トロさん
コメント、ありがとうございます。

詩と散文の線引きはとても難しいですね。
トロさんのコメントに、
「人の胸を打つもの」とありますが、
書かれたものが詩であっても散文であっても、
そのことは同じですよね。
ぼくも詩を書いたり散文を書いたりしますけど、
そのたびに同様のことで葛藤があります。
詩というものを意識すると言葉に拘りすぎて、
かえって言葉が遊離してしまうことがあります。
逆に散文の方が感覚や感情が素直に表現できたりします。
どのように書いたら「人の胸を打つ」ことができるか、
ずっと迷いつづけています。

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