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風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

秋の夕やけ鎌をとげ

2017年09月08日 | 「新エッセイ集2017」

 

きょうは夕焼けがきれいだった。
よく乾燥した秋の、薄い紙のような雲に誰かが火を点けたように、空はしずかに燃えていた。
急に空が広くなり、遠くの声が聞こえてきそうだった。
お~い、鎌をとげよ~と叫ぶ、おじいさんの声が聞こえてきそうだった。
夕焼けした翌日はかならず晴れるので、農家では稲刈りをすることになるのだった。

祖父は百姓だった。
重たい木の引き戸を開けて薄暗い家の中に入ると、そのまま台所も風呂場も土間つづきになっていた。
風呂場の手前で野良着を着替えて農具をしまう。その一角には足踏みの石臼が埋まっていて、夕方になると祖母が玄米を搗いていた。土壁に片手をあてて体を支えながら、片足で太い杵棒を踏みつづける。土壁の上の方には、鎌や鍬がなん本も並んで架かっていた。

祖父に聞いた話だが、祖父のおじいさんは刀で薪を割っていたという。どんな生活をしていた人なのだか、想像もつかない。
シンザエモン(新左衛門?)という名前だったので、シンザさんと呼ばれていたようで、その呼称が屋号のようにして残り、ぼくの父が子どもの頃でもまだ、村ではシンザさんとこのシゲちゃんという風に呼ばれていたという。

そのシンザさんとこのシゲちゃんは、家の障子やふすまに落書きをするのが好きな悪ガキだった。
祖父がいくら叱りつけても止めようとはしない。よくみると、子どものくせになかなか上手に画いているので、しまいには、祖父も叱れなくなったという。
悪ガキのぼくの父は次男坊だったので、学校もろくろく行かずに船場に丁稚に出されてしまった。そこで、商人としての父の人生が決まったのだった。
子どもの頃に、いちどだけ父が絵を画いたのをみたことがある。
画用紙のまん中に大きな赤いかたまりがあった。それは何なのかと聞くと、父は石だと言った。そんな赤い石があるのかと聞くと、夕焼けのせいで石が燃えているのだ、と父は言った。
九州の田舎を行商したときに見た、どこかの道端の風景だったのだ。
父が絵を画いたのを見たのは、それがいちどだけだった。金儲けに日々追われる商人に、絵を画いたりする余裕はなかったのだ。

小学生の時から、ぼくはソロバン学校に通わされ、夜は店を閉めたあとに、父の帳簿付けの計算をさせられた。
振り返ってみれば、ぼくが父の商売を手伝ったのはそれだけだ。高校を卒業すると、ぼくはすぐに家を飛び出した。人あしらいのうまい父の才覚がぼくにはなかったし、父もそれを知っていたのだと思う。
父はひとりで商売を続け、80歳で店を閉めた。そして6年後に死んだ。

父は生前、ぼんやり店の前に立って空を眺めていることがあった。釣りが好きだったから空模様を心配していたのかもしれない。あるいは、仕入れのためのカネの工面など考えていたのだろうか。
ひとは毎日、ほとんど空の存在など忘れて生活している。誰にもふり向かれなかった空の、夕焼けは一日の終わりのしずかな叫びなのかもしれない。
百姓の祖父も死に、商人の父も死んで、シンザさんとこの夕焼けだけが残った。
お~い、鎌をとげよ~、と誰かが叫んでいる夕焼けだ。
だがもう、シンザさんとこに百姓はいない。いまでは、鎌をとぐ者もいなくなった。

 

 


犬は風景を見ない

2017年09月04日 | 「新エッセイ集2017」

 

子どもの頃は田舎で育った。
だから、周りは山や川ばかりだった。
けれども、山や川のある風景をじっくり眺めたことはなかった。
いつも山の中にいた。あるいは川の中にいた。つねに自然の風景の中にいた。風景を外側から眺めることはなかったのだ。

すばらしいとか、美しいとか、感嘆の思いで風景を眺めた初めての経験は、いつだっただろうか。
たぶん、青年期が始まろうとしたときではなかっただろうか。田舎を抜け出して都会で生活を始めて、自然というものから遠ざかっていた時期のあとに、ふたたび山や川のある風景に接した、そのときはじめて、自然の風景というものを意識したと思う。
自然から抜け出したあとに、自然というものを客観的に眺めることができたのだった。そのときから、山や川や木々を風景として意識しはじめたともいえる。

犬は風景を見ない――と述べられているのは、赤瀬川原平の『四角形の歴史』という本で、とても興味深く読んだ。
「風景は犬の目に入っていても、犬の意識には届いていない。つまり犬の頭は風景を見ていない」という。そして、人間も昔は風景を見ていなかったという。
ちょうど、ぼくらの子ども時代と同じだろうか。必要なもの、すなわち人物や建物や動物などの、物しか見ていなかったのだ。

このことは、絵の歴史を振り返ればよく解るという。
古い時代の絵は、動物や弓などが壁や土器に描かれていた。その頃は、人間の目は犬の目と変わらなかったのだ。
風景画というものが登場するのは、モネやゴッホといった印象派の画家以後らしい。
キャンバスに絵を描くようになり、四角い画面を持つようになって、人間はそこに描かれた物のほかに、余白というものがあるのを知り、その余白というものを通して、初めて風景の存在を知り、それを絵の中に取り入れたのではないかという。

もっと古くは、「人間がおずおずと住居を建てて、その住居の壁におずおずと四角い窓が開けられたとき」(同書)ではないかと。
住居の窓も四角いフレームだったのだ。そして、この窓から見たものが、人間がはじめて見た風景ではないかという。おそらくは雨の日に、ぼーっと窓の外を見ていた。仕方なく、目的もなく見たものだった。風景はそんなところに在ったのだ。

よく見ると、自然界のあらゆるものは曲線でできている。いっぽう、今の人間社会はほとんど四角形でできている。この四角形の発見こそ、人類の考えの特許だという。
では、四角形というものはどうやって発見されたのだろうか。
物を蓄えることを覚えた古代の人間が、狭い小屋の中に貯蔵物を1列目2列目と並べていくうちに、スペースというものができ、そこから四角形の概念が生まれたという。物を整理するという行為から四角形と余白が生まれ、合理という考え方が生まれた。
「四角形は文明の基本となっていった」のだった。

「余白は無意味である。合理から生まれた四角形が、世の中から無意味を取り出したのは不思議なことだ」と、同書には書かれている。
さまざまな風景の中で、ぼくたちは意味がいっぱいの世の中に暮らしている。その反動として、ときどき四角形の外に、無意味の余白を求めたくなったりする。それが現代人にとっては、息抜きのようなものなのかもしれない。
それでは、風景を見ない犬には息抜きは必要ないのだろうか。
「(犬は)無意味を見て眠っている。犬はこの世にいる味だけを、味わっているらしい」という。
そういえば犬は、いつも穏やかな顔をして眠っているかな。

 

 


あんたがたどこさ

2017年08月30日 | 「新エッセイ集2017」

ぼくが子どもの頃は、子どもたちはみんな、家の前の道路で遊んでいた。
ゴム跳びや瓦けりは、男の子も女の子もいっしょになって遊んだが、球技はもっぱら男の子の遊び、鞠つきは女の子の遊びと決まっていた。ぼくも鞠つきには何回か挑戦したが、どうやっても女の子にはかなわない。女の子が手まり唄を歌いながら鞠をついているときは、側でぼんやり眺めているしかなかった。

    あんたがたどこさ 肥後さ
    肥後どこさ 熊本さ

鞠つきがめだって上手な、エミコという女の子がいた。
手まり唄の最後で、「それを木の葉でちょいとかぶせ」というところで、スカートでひょいと鞠を包み込む。このときに鞠を落としてしまうと駄目なのだが、エミコの動作はすばやかったし、決して鞠を落とすこともなかった。
ただ、エミコはパンツを穿いていなかったので、鞠にスカートをかぶせるとき、スカートの中が丸見えになってしまうのだった。けれどもそのことで、誰もエミコをからかう者はいない。彼女の報復が怖かったからだ。

    せんば山には
    たぬきが おってさ

この唄の「せんば山」のところを、ぼくは最近まで「てんば山」だとばかり思い込んでいた。てんば山のてんばは、お転婆の転婆で、パンツを穿かないエミコにぴったりの唄だったのだ。

エミコは父親のことを「おとさま」と呼んでいた。
ほかの子どもたちは「おとうちゃん」とか「とうちゃん」が普通だったから、エミコの「おとさま」は特異だった。お転婆娘にしては、言葉だけが丁寧すぎた。
エミコのおとさまはだった。その頃は、亡くなった人を焼く仕事がまだ残っていたのだ。ぼくの祖母も伯母も、おとさまの大八車で山奥の焼き場まで運ばれ、夜中に薪で焼かれた。そして翌日になって、おとさまが大きなかまどからごそっとかき出した灰の中から、身内のものが骨を探し出して拾い集めるのだった。焼き場の片隅には、残って捨てられた骨や灰が、山積みになって放置されていた。

エミコには兄貴がひとりいて、この兄貴も父親のことを「おとさま」と呼んでいた。母親は早くに死んだらしく、父親と3人で小さな汚い家で暮らしていた。
エミコの兄貴と父親は、よく喧嘩をしていた。兄貴が竹の棒を持って父親を追いかけると、その兄貴をエミコが追いかける。3人で大騒ぎしながらの道を駆け回る。まわりでは、また始まったという感じで、誰も止めるものはいなかった。

ずっとのちに、ぼくが東京で学生生活をしていた頃、エミコに頼まれ事をしたことがある。彼女は中学を卒業すると東京で女中をしていたのだが、そこを辞めたときに、最後の給料を貰っていないので、ぼくに受取ってきてほしいというものだった。
最後の給料をもらっていないということは、なにか訳ありな辞め方をしたような気がして、ぼくは気が進まなかったのだが、なにせ、お転婆はいつまでもお転婆だから、気の弱いぼくは断りきれなかった。
エミコからもらった住所のメモを頼りに、成城という街を半日歩きまわったが、ついに目的の家を見つけられず、そのことをハガキで彼女に連絡すると、あれは住所が間違っていたということで、ぼくは無駄足をしてしまったのだが、そのとき彼女からきたハガキは誤字だらけで、それでいて言葉づかいだけがばかに丁寧だったのを覚えている。

エミコのおとさまは、それからまもなく死んだということだったが、が死んだら誰がのおとさまを焼いたのか、その頃にはもう、立派な火葬施設ができていたのかもしれない。
それ以後、エミコにも彼女の兄貴にも会っていない。
手まり唄のてんば山がせんば山だったということを知ったとき、ぼくは可笑しかったと同時に、すこしがっかりした。パンツを穿かない少女が鞠つきをしているのは、やはり、せんば山よりもてんば山の方がふさわしかったからだ。
でも今では、『あんたがたどこさ』などという手まり唄を知っている人も、少なくなったのではないだろうか。
もしも肥後という国に、てんば山という山があったら、そこでは、パンツを穿いたタヌキが鞠をついているかもしれない。




つくづく一生

2017年08月26日 | 「新エッセイ集2017」

あちこちで、ツクツクボーシが盛んに鳴きはじめた。
ツクヅクイッショウ(つくづく一生)、ツクヅクオシイ(つくづく惜しい)と鳴いているらしい。
夏の終わりに鳴くセミにふさわしい鳴き方だ。季節に急かされているような、せわしない鳴き方でもある。

    この旅、果てもない旅のつくつくぼうし

これは種田山頭火の句であるが、山頭火の放浪の旅にも終わりはあった。
昭和14年(1939年)10月、四国遍路を果たした彼は、松山で教鞭をとっていた俳人の、高橋一洵の世話で松山に落ち着くことになる。

    おちついて死ねそうな草枯れる

「昭和14年12月15日 一洵君に連れられて新居へ移って来た。御幸寺山麓御幸寺境内の隠宅である。高台で閑静で、家屋も土地も清らかである。」
寺の納屋を改造した庵を、彼は終の棲み家と決め「一草庵」と名づけた。
「わが庵は御幸寺山裾にうづくまり、お宮とお寺とにいだかれている。老いてはとかく物に倦みやすく、一人一草の簡素で事足る。所詮私の道は私の愚をつらぬくより外にはありえない。」(句集『草木塔』より)。

    濁れる水のなかれつゝ澄む

翌15年10月、山頭火は59歳の生涯を閉じる。
一草庵での生活は1年足らずであったが、ここでも、山頭火の酒好きは治まらず、一洵やその仲間の句友たちに、さんざん迷惑をかけたらしい。それでも温かく見守られ、幸せな最期だったようだ。
長建寺という寺の境内には、山頭火と一洵の句碑が向かい合って建っている。

    もりもりもりあがる雲へあゆむ  (山頭火)
    母と行くこの細径のたんぽぽの花 (一洵)

いま頃は、ツクツクボーシの夏を惜しむ声が、まわりの木々を騒がせていることだろう。残暑はなお厳しい。

    へうへうとして水を味ふ

ツクヅクオシイ
ツクヅクイッショウ
この夏、ぼくは水ばかり飲みながら、山頭火の「へうへう」を想っている。


ペテンダックを食べたい

2017年08月22日 | 「新エッセイ集2017」

連日35℃の猛暑。もう、この夏の暑さにもうんざりだ。すでに頭のヤカンも煮えたぎっている。
こうなると思考力と集中力が真っ先にダウン。注意力も弱っているから、言動にもあまり自信が持てない。
とりあえず、タイトルは「ペテンダック」で正しい。あの中華料理の「ペキン(北京)ダック」ではない。

沸騰寸前の頭では、本を読む気力もない。読みかけの漱石も、夏の初めから栞を挟んだままで、明暗の淵をさ迷いつづけている。
長いものや重たいものを読む忍耐力がない。新聞のコラムや書評なんかを軽く読みとばす。とりあえずシャワーを浴びるようなものだろうか。 短い記事は、ときには暑さを忘れて清涼剤にもなる。

平野レミが歌手だとは知らなかった。料理研究家だとばかり思っていた。彼女の歌など聞いたことがない。あの喋り方で、どんな歌を歌うのか聞いてみたい気もする。
ぼくは彼女が好きだ。つっかえるような、危なっかしいせっかちな喋り方がたまらない。言葉を覚え始めの幼児が、何かを喋りたいのだが言葉が出てこない、あのどもるような喋り方。つい引き込まれてしまう。

だから彼女が、テレビの料理番組に出ているとみてしまう。
彼女は不精なので手抜き料理を考えるのだという。完璧ではない、完全ではない、間に合わせのいい加減さと手早さ。そんな料理なら、ぼくにでも出来るのではないかと思ってしまう。
彼女の料理はオリジナル家庭料理であり、奔放なイマジネーションの産物なのだ。おまけに家庭料理だから温かさと親しみがある。料理の原点かもしれない。

彼女の料理はネーミングもすばらしい。自分で創り出した料理に名前を付けるのを楽しんでいる。アイデアとユーモアがある。
そこで、タイトルのペテンダックが出てくることになる。
その料理法は、熱したフライパンで鶏の皮を、油をふき取りながらカリカリに。このカリカリと、千切りにした葱と胡瓜を、手早く蒸した春巻の皮で包み、テンメンジャンをふって食べる。
味は「北京ダック」だという。でも本物ではないから「ペテンダック」。
騙されたつもりで食べてみたい。夏バテにいいかもしれない。


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