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風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

夏は生きもの感覚で生きる

2025年08月25日 | 「2025 風のファミリー」



暑い、とにかく暑い。
なにか書いたり考えたりしようとしても、暑い…という言葉しか浮かんでこない。こんなときの思考は、もうその先へは進みそうにない。
私の部屋にはクーラーがない。涼しいものは扇風機と団扇と水しかない。それと、ぴょんぴょん跳ねる小さな蜘蛛が1匹いる。日中は風がよく通る。天然クーラーがフル稼働してくれる。それで酷暑でもなんとか生きられる。設定温度は風まかせの30℃から33℃くらい、それ以下に下がることは滅多にない。なので暑さには努力して慣れていかなければならない。体と脳内の設定温度を少しずつ上げていく。それにつれて、当然のように思考力は低下していく。これで心身のバランスはとれているのか、とれていないのか、それすらも考えられなくなる。暑さの夏は修行のようなものだ。

寝ころがって本でも読んでおれる状態は、まだ生きているという感覚がわずかでもある。それでも長いものを読む根気と集中力はなくなっていく。なるべく短くて易しいコラムや詩を、気まぐれに拾い読みする。詩すら長いと感じるようになると短歌になり、ついには俳句や川柳になる。17文字で完結するのがいい。深くは追求せずにさっと切り替えることができるのがいい。
「蚤(のみ)どもがさぞ夜永だろ淋しかろ」
「十ばかり屁を棄(すて)に出る夜永哉」
この句は一茶が50歳くらいのとき、故郷の信州柏原での生活を始めた頃の句らしい。蚤の淋しさって何だろうと考えると難しいが、いっそ蚤になってしまえば何だか楽しい。
2018年に百歳で死去した俳人・金子兜太は、「生きもの感覚」という言葉で一茶の句を称揚した。

その「生きもの感覚」とはどういうものなんだろうか。暑さで沸騰寸前の脳みそで考えてみた。ひとが世間で生きていくためには、一方で欲の世界というものがあり、もう一方で「非常に生(なま)で、もっとナイーヴで感覚的な世界」というものがあるという。
金子兜太は、この後者の部分を「生きもの感覚」という言葉でとらえた。ひとの本能にはこのような両面があり、つねに葛藤をしている。それが人間の生(なま)な姿であろうというと、『荒凡夫一茶』の中で述べている。
一茶は、「本能のこの両面の働きをたえず統一しないまま、流動的に振る舞っていて」、「すべてが同じ生きもの世界のこととして、感じられる」、そのような人間だっただろうという。そういう感覚があって「生きもの感覚」は生まれてくるという。


「男根は落ち鮎のごと垂れにけり」
これは一茶ではなく、金子兜太の句。これも「生臭くてぎらぎらした「生きもの感覚をもった句」だという。
秩父の土で育った兜太少年は、大人たちが男根を4種類に呼び分けていたことを覚えていた。子どもから少年期には「珍子(ちんこ)」。いかにも少年です。少年から青年期になると「珍坊(ちんぼう)」。少し大きくなってきている。この言葉には仏教からの影響も。成年期になると「魔羅(まら)」。
そして老年期になると「ぎゅうない」。「ぎゅうっと握ったら、なくなっちゃった、ということらしい。これだけはひらがなで書く。
先の句の、落ち鮎のような男根とは、「ぎゅうない」への抵抗らしい。ぎゅうっと握っても落ち鮎のように、「まだ実態はあるぞ」という気概を込めたという。これぞまさに「生きもの感覚」の句だと、金子兜太は言った。




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仏たちの季節

2025年08月11日 | 「2025 風のファミリー」



いまは、ただただ暑さに耐えている。
子どもの頃の夏は、午後はずっと川にいた。真っ黒に日焼けしていたから、暑いことは暑かったのだろうが、暑いことよりも楽しいことの方が勝っていた。だから、あまり暑いと思ったことがない。

高い山から流れ下ってくる水と、近くの湧水が混じっていたから、川の水はかなり冷たかった。体がすっかり冷えきってしまうと、岸に上がって砂地に腹ばいになって体を温める。ときには、お湯のようになった近くの水田に飛び込む。泥臭いが天然の温泉だといってはしゃいだ。
泳いだり砂だらけになったりを繰り返して、やがて太陽が西の山に隠れてしまうと、やっと諦めて水からあがる。半日は河童になったみたいだった。

お盆の3日間だけは、川に行くことを禁じられていた。川にも仏さまがいっぱい戻っているということだった。
川は楽しいところだけど、恐ろしいところでもあった。普段は、河童が足を引っ張りに来るといわれて、神棚に供えたご飯を口にしてから川に行く。お盆の間は、河童に代わって仏さまが足を引っ張りにきたのだろうか。仏さまには、神さまのご飯では効き目がないらしかった。だから誰も川には行かなかった。

お墓は山の上にあった。山の尾根に沿って、先祖の墓や親族の墓が点在してあり、山全体が墓地のようだった。それぞれの墓地をつなぐ細い山道があり、その道のはずれの墓地で道は途切れていた。
母が子どもだった頃は、お墓を掃除したあと、墓地から自宅まで仏さまを背負って山を下りたという。各人が背中に先祖の誰かを負ぶった格好をして家まで帰る。そうしてお盆の3日間を仏さまと一緒に過ごしたあと、ふたたび送り火を焚いてから、仏さまを山上の墓地まで背負っていったという。

あの世に逝った人たちも、この世に生きている人たちのそば近くにいて、それほど生者と死者の区分ははっきりしていなかったのかもしれない。そんな時代だったのだろう。
お盆が終わると、盆風というのが吹きはじめる。頭より少し高いところを、黄褐色のトンボが無数に飛び交うようになる。ショウロウ(精霊)トンボだった。トンボは軽やかに飛んでいたが、このトンボの背中にも、それぞれに仏さまが乗っていると言われていた。




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星空のつづき

2025年08月09日 | 「2025 風のファミリー」



しんどい夢をみていた。どんな夢だったかは思い出せない。暑くて寝苦しかっただけなのかもしれない。時間は夜中の3時をすこし過ぎていた。夢の疲れが残って寝付けなくなったので、体を冷やそうとベランダに出てみた。
夜空の真ん中あたりに、わずかだが星の集団が輝いているのが見えた。まともに星が見えたのは久しぶりだった。最近は明るい夜空しか知らない。街灯や家の明かりに遮られて、いつもは星をほとんど見ることができない。みんなが寝静まった夜更け、ここにも星が出ていたのだ。忘れられた時間に、すっかり忘れていたことを思い出したかのように感動した。
いくつかの星は、記号のように繋がっている。それぞれの塊まりには、なんらかの星座の名前がついているのだろう。静まりかえった夜空では、星の輝きはまるで音を発しているようにみえる。そこには宇宙の音があり、耳をすませば星の呟きが聞こえてきそうだった。私はまだ、夢の続きを見ているのかもしれなかった。

夜はほとんど闇だった頃があった。
空には無数の星が輝いていた。あるとき星空を見上げていて、「壁のようだ」と言った親友の言葉が意外だった。彼とのあいだに少しだけ心の乖離を感じた。私の方が単純でロマンチストだったのかもしれない。星には美しいイメージしかもっていなかった。
そのことを書いた文章が、高校の文芸誌に載った。タイトルは『星空』だった。心を見つめることと、そのことを文章にすること、そんなことが楽しいことだと知り始めた頃でもあった。また楽しいことは苦しいことでもあるという、長い道のりの始まりでもあった。

その頃、足元も見えないほどの暗闇で、こぼれんばかりの満天の星空に遭遇したことがある。そのとき私は、九州でいちばん高い山の頂上に立っていた。
冷たい風が強く吹いていた。たぶん草の葉っぱに付いた霧氷だろう、触れあって鈴のような音をたてていた。広い視界にあるものはすべて星ばかりだったから、その響きは星と星が触れあう音のように思われた。はじめて聴く天然の音楽のようでもあった。
あのとき、私が聞いたものは何だったのだろうか。天空からこぼれんばかりに輝いていたものは、何だったのだろうか。いまも記憶の空で鮮明に輝きつづけている。
あの山頂で遭遇した星空にくらべて、この夜の星空はとり残されたように、深夜にひっそりと光を放っている。まるで夢の続きのようにはかない。




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火山は噴火するものだ

2025年07月28日 | 「2025 風のファミリー」



だいぶ前に、久しぶりに阿蘇山に登った時は噴火警戒が出ていた。
草原の道路をカーブするたび、白い噴煙がしだいに近くなった。草千里の売店のおじさんが、きょうは風向きが悪くてガスが出ているので、火口までは行けないだろうと言う。残念だが引き返すわけにはいかない。こちらは積年の思いが噴火寸前になっているのだった。
火口間近の阿蘇山公園道路の料金所でも、きょうは火口は覗けないと念を押される。さらに、心臓病や喘息の持病はないかとまで確認された。なんだかとても危険な場所に入ろうとしている気分だった。あとはもう行けるところまで行くだけだ。すこしでも火口に近づきたい。そんな思いでアクセルを踏み、火山岩の荒涼たる道を進んだ。

そのときは幸運にも、30分だけ火口を覗くことができた。たまたま風向きが変わって、噴煙やガスが吹き払われたのだった。
深い火口の底を覗くと、噴煙が薄くなったところに、赤く燃えているマグマらしいものがかいま見えた。いまに噴火してやるぞといった、怒りの目をしているような火の色だった。体が熱くなって震えた。ときどき、ぼくの背中をドーンドーンと叩いていたのはお前だったのか。

火山は噴火するから火山なのだ。
いつのまにか阿蘇山は遠くの山になってしまったけれど、かつては近くの山だった。小学生の時に初めて登った山も阿蘇山だった。
真夜中にドーンドーンと噴火する音を、夢の合間にいくども聞いた。朝起きてみると、あたり一面が灰色の火山灰で覆われている。夕方は下校の途中、遠くに阿蘇の白い噴煙を眺めながら、その山の方角に向かって自転車をこいだ。

ずっと以前に、親しくさせてもらっていた言語学者の先生がいた。そのときは90歳を過ぎた老人だったが、京都から大阪までいつも電車と徒歩で出てきていた。大きな声でよく喋り体中に力がみなぎっていた。
先生は長崎の雲仙の近くで育ったので、ときどき自分は噴火するのだと言っていた。そして実際に、いくども噴火をして大きな業績も残した。きみも阿蘇のそばで育ったんなら噴火しろ、と言って励まされたものだった。
そのことを思い出した。ドーンドーンという阿蘇の地鳴りが、再び私の体に響いてくる。




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言葉は生きているか

2025年07月22日 | 「2025 風のファミリー」



ブログに文章を載せるようになって、ずいぶん長い年月が経った。
私は2つのブログを持っている。FC2ブログとGooブログだが、FC2ブログは長く続けているが、今ではほとんど自分だけの記録用みたいになっている。Gooブログの方は秋には閉鎖されるということで、代替としてはてなブログを始めているが、あらためてブログを書く意味を考えさせられている。

最初の頃はなぜか、ですます調の丁寧な言葉で書いている。たぶん、不特定多数の人に読んでもらうことを意識していたのだと思う。だが、さして訪問者もいないことに気づいてから、いつのまにか文章も日記調になってしまった。
私のブログは自分自身を納得させるために、日常のもやもやとしたものを言葉にして、反省したり奮起したりしているようなものだから、やはり日記の範疇でじたばたしてしまうのだろう。独りよがりに近いものであれば、書いたことに責任はとれないし、書いたことは書きっぱなしになってしまうこともある。だが自分で書いたことなので、まったく無視することはできない。

自分が発した言葉には、そのときどきの心の澱のようなものが残っていて、過去に自分が発した言葉に、のちの自分が縛られてしまうこともある。過去に書いたものを整理して、文集としてまとめたときに、そのようなことを痛感した。
また、ある一定の期間をおいてみると、過去に書いた自分と、いま読み返している自分とは同じではないこともあった。書いた時の呼気や情感のようなものが、いまの自分には素直に伝わってこない時がある。そんな時は元の文章をできるだけいじらないように心がけた。それを書いたときには持ち合わせていたものを、いまは無くしてしまっている、ということもありえるからだ。

それでもなお書き直したくなって、まったく別の文章になってしまったものもある。それはそれで、前に書いたものはそのまま残し、新しく書いたものは新しいものとして受容することにした。
過去と現在の、ふたりの自分が書いたふたつの文章を前にして、私はふたりのままで、ふたたび時がたつのを待つよりほかないのだった。そうすることはまた、変容する自分を発見する楽しみともなった。

自分で書いたものでありながら、自分でどうすることもできないときもある。いや、自分で書いたものだから、自分の自由にならないのかもしれない。そのときどきの言葉がもっていたものを、振り返ってそのまま受け入れる難しさもあるだろう。
完全に自分の手をはなれ、自分が書いたものを冷静に読めるときがあるとしたら、その時は僅かながらも自分の中で変わらないものがあり、同感できるものが残っていたからだと思うことにした。それまでは、せめて自分の中だけででも、自分が発した言葉は生きつづけていてほしい、そう思いながらブログを続けている。




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