暑い、とにかく暑い。
なにか書いたり考えたりしようとしても、暑い…という言葉しか浮かんでこない。こんなときの思考は、もうその先へは進みそうにない。
私の部屋にはクーラーがない。涼しいものは扇風機と団扇と水しかない。それと、ぴょんぴょん跳ねる小さな蜘蛛が1匹いる。日中は風がよく通る。天然クーラーがフル稼働してくれる。それで酷暑でもなんとか生きられる。設定温度は風まかせの30℃から33℃くらい、それ以下に下がることは滅多にない。なので暑さには努力して慣れていかなければならない。体と脳内の設定温度を少しずつ上げていく。それにつれて、当然のように思考力は低下していく。これで心身のバランスはとれているのか、とれていないのか、それすらも考えられなくなる。暑さの夏は修行のようなものだ。
寝ころがって本でも読んでおれる状態は、まだ生きているという感覚がわずかでもある。それでも長いものを読む根気と集中力はなくなっていく。なるべく短くて易しいコラムや詩を、気まぐれに拾い読みする。詩すら長いと感じるようになると短歌になり、ついには俳句や川柳になる。17文字で完結するのがいい。深くは追求せずにさっと切り替えることができるのがいい。
「蚤(のみ)どもがさぞ夜永だろ淋しかろ」
「十ばかり屁を棄(すて)に出る夜永哉」
この句は一茶が50歳くらいのとき、故郷の信州柏原での生活を始めた頃の句らしい。蚤の淋しさって何だろうと考えると難しいが、いっそ蚤になってしまえば何だか楽しい。
2018年に百歳で死去した俳人・金子兜太は、「生きもの感覚」という言葉で一茶の句を称揚した。
その「生きもの感覚」とはどういうものなんだろうか。暑さで沸騰寸前の脳みそで考えてみた。ひとが世間で生きていくためには、一方で欲の世界というものがあり、もう一方で「非常に生(なま)で、もっとナイーヴで感覚的な世界」というものがあるという。
金子兜太は、この後者の部分を「生きもの感覚」という言葉でとらえた。ひとの本能にはこのような両面があり、つねに葛藤をしている。それが人間の生(なま)な姿であろうというと、『荒凡夫一茶』の中で述べている。
一茶は、「本能のこの両面の働きをたえず統一しないまま、流動的に振る舞っていて」、「すべてが同じ生きもの世界のこととして、感じられる」、そのような人間だっただろうという。そういう感覚があって「生きもの感覚」は生まれてくるという。
「男根は落ち鮎のごと垂れにけり」
これは一茶ではなく、金子兜太の句。これも「生臭くてぎらぎらした「生きもの感覚をもった句」だという。
秩父の土で育った兜太少年は、大人たちが男根を4種類に呼び分けていたことを覚えていた。子どもから少年期には「珍子(ちんこ)」。いかにも少年です。少年から青年期になると「珍坊(ちんぼう)」。少し大きくなってきている。この言葉には仏教からの影響も。成年期になると「魔羅(まら)」。
そして老年期になると「ぎゅうない」。「ぎゅうっと握ったら、なくなっちゃった、ということらしい。これだけはひらがなで書く。
先の句の、落ち鮎のような男根とは、「ぎゅうない」への抵抗らしい。ぎゅうっと握っても落ち鮎のように、「まだ実態はあるぞ」という気概を込めたという。これぞまさに「生きもの感覚」の句だと、金子兜太は言った。
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しばらくは試行中ですが、引き続きよろしくお願いします。