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風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

瀬戸の夕なぎ

2017年08月17日 | 「新エッセイ集2017」

夏の夕方、大阪では風がぴたりと止まって蒸し暑くなる。昼間の熱気が淀んで息ぐるしく感じる時間帯がある。
瀬戸の夕凪やね、とぼくが言うと、みんなは笑う。
大阪人は海の近くで生活しているが、ほとんどの人は海に無関心で暮らしている。海岸線が全部埋め立てられて、海が遠くなったこともあるかもしれない。

瀬戸の夕凪という言葉を、ぼくは別府で療養していた学生の頃に知った。
療養所は山手の中腹にあり、眼下に別府の市街と別府湾が広がっていた。夜の9時には病室の電気は消える。眠るには早すぎるので、夜の海を出航してゆくフェリーや漁船の灯をぼんやり追いかける。その遥かさきには、四国の佐多岬の灯台の灯が点滅している。闇の中に無数の灯を浮かべる海は、昼間よりも豊かであり、そこから瀬戸の海がひろがっていた。
夏の間、療養所ではどの部屋も窓とドアを開け放っていたので、風がよく通った。昼間は海の方から吹き上げてくる。そして夜になると、こんどは山の方から吹き下ろしてきた。
この風向きが変わる夕方の2~3時間が、風のなくなる時合いで、瀬戸の夕凪やね、とよく言い交わしたものだ。

別府は、別府湾という丸い海を抱いているような街で、人々の生活にも海は浸透していた。
夜に湾を出て行った漁船は、早朝また湾に戻ってくる。
山からの吹き下ろしの風に乗って沖へ漕ぎ出し、朝の海風に乗って帰ってくる。帆を張って航行した舟の時代からの、そんな船乗りたちの生活習慣が引き継がれているようだった。
漁をする生活は、瀬戸を吹く風とともにあったのだ。

瀬戸内海というひとつの海を共有することで、よく似た気候と風土が存在している。九州と中国四国、それに近畿と、そこで暮らす人たちの言葉や人間性にも、よく似た部分があるような気がする。
古代から海上の交流が盛んだったこともあるだろうが、穏やかな内海を相手にするせいか、人間の性格も概して穏やかで、そこから生まれてくる言葉もやわらかい。同じ風を呼吸し、瀬戸の夕凪を共有しているのだ。

瀬戸という地形でみると、別府は西の果てで大阪は東の果てということになる。だが、商人の町として栄えた大阪は、海から運河を通って交易も盛んだったが、多くの町人の暮らしは海からは離れていたようだ。
だが大阪の夏は、しばしば湿っぽい潮風に覆われる。西風に乗って潮の匂いが運ばれてくる。けれども、人々はもはや海の感覚は失っている。潮風を嫌な匂いの風やなあ、といって嫌い、クーラーの風に浸って瀬戸の夕凪に耐えている。

どんどん遠くなっていく現代の海であるが、ときには海の記憶と感覚を呼び戻すことによって、ちょっとした風の動きにも、涼風のような歓びを感じることはできるかもしれない。
はるかな記憶の彼方で、海から生まれたわれわれにとって、海は生命のコアに秘められたものであり、容易に海を遠ざけることはできないはずだ。


遠くの花火、近くの花火

2017年08月10日 | 「新エッセイ集2017」

幼稚園のお泊り保育の勢いで、その翌日は、孫のいよちゃんがひとりでわが家にお泊りすることになった。
すっかり自信のついた顔つきになっている。

夕方、いよちゃんのお気に入りの近所の駄菓子屋へ連れていったが、あいにく店は閉まっていた。バス通りのコンビニまで歩けるかと聞くと大丈夫と答えたので、手をつないで坂道をのぼってコンビニまで行く。
以前は買物かごの中に、次々とお菓子を入れていくので戸惑ったものだが、いつの間にかすっかり遠慮深くなって、かごの中には好物のグミを1袋入れただけ。なんでも欲しいものを選んだらいいよと言うと、そこでラムネ菓子を1個入れただけで、もういいと言う。
さらに促すと、ヤキソバ風と表示されたスナック菓子を手に取った。
場所を変えて、いよちゃんの好きなアイスクリームのボックスへ誘導する。小さな手が箱入りのチョコアイスを選んだので、そこへ、ぼくがカキ氷を3個ほうり込んだ。
レジに行ったら、目の前にきれいな花火セットが並んでいる。今夜は花火だということになって、いよちゃんが選んだのは、たまごっちのキャラクターで包装された花火の詰め合わせ。その袋を眺めながらの帰り道、たまごっちのファミリーを教えてもらったが、多すぎて、ぼくはどれも覚えることができなかった。

まだ、いよちゃんが生まれる前、マンションの9階に住んでいた頃は、居ながらにして大阪中の花火が見られたものだった。
7月の25日は天神祭りの花火。祭りのテレビ中継を観ながら、花火が上がるとベランダにとび出す。遠く市街地の灯りの海の一角に、小さな花が開くように光の玉がはじける。いくつか花火が上がったあとに、だいぶ遅れて音だけが雷鳴のように届くのだった。
8月1日は、日本一といわれるPLの花火。近くの丘陵の上に10万発の花火が炸裂する。仕掛花火は丘陵の黒い影に遮られて見えなかったが、真昼のように燃え上がる空と、地鳴りとなって届く音のどよめきで、仕掛けの豪華さが想像できた。
さらには大阪湾をはさんで、海の向こうの神戸や淡路島の花火、淀川沿いのあちこちで上がる遠くの花火、近くの暗い森のかげから突然噴きあがる大輪の花火など、毎日のようにどこかで花火が上がっているものだった。

9階の観覧席は、阪神大震災では大揺れに揺れて、生きた心地もしなかったけれど、1日の半分は空を漂っているようで、どこかで花火のあがる夜は、蒸し暑くて長い真夏の夜を忘れることができた。
いまは地べたの近くに住んでいるので、もう遠い花火を見ることはできない。
今夜は、いよちゃんと妻と3人で、近くの砂場で久しぶりのささやかな花火をした。
いよちゃんが恐がるので、音の出る花火や、空へ飛んでゆくロケット花火、地面を走り回るねずみ花火はない。1本ずつマッチで火をつけて、さまざまな色を噴き出す花火を静かに楽しんだ。
はじめは半分だけのつもりが、興に乗ったいよちゃんが次々に花火を取り出すので、ぼくもせっせとマッチを擦りつづけた。考えてみれば、マッチの火遊びも久しぶりで、花火の明りでよく見ると、忘れるほど昔に入った喫茶店の古いマッチだった。

夜中、お泊りさんは半分寝ぼけて暑い暑いと騒ぐ。パジャマをはだけてお腹を出す。さかんに転げまわって襖を蹴る。賑やかで大変な夜だった。眠ってしまえば、まだ幼い子どものままだ。
花火のあとは、真夏の夜の夢までも焦がす、大阪の長い熱帯夜なのだった。



夏の手紙

2017年08月05日 | 「新エッセイ集2017」

きょうも早朝からセミが鳴いている。
セミは、ある気温以上になると鳴き始めるという。セミが鳴いているということは、気温がぐんぐん上昇していることでもある。夏の太陽も顔を出して、きょうの近畿地方は35度をこえる予報が出ている。

セミのことを手紙に書いた。
セミのことばかりを書いた。好きだということを書けなかったので、その想いの量だけ、とにかくセミのことをいっぱい書いた。
ぼくは若かった。
はじめにマツゼミのことを書いた。
梅雨の晴れ間などに松の木で鳴いている。一般的にはハルゼミと呼ばれ、いちばん最初に現れるセミだ。姿は見たことがない。鳴き声だけはよく聞いた。
次に現れるのはニイニイゼミだった。
ジージーと鳴いている。体は小さくて翅に縞模様があった。地味な存在だった。
そうして夏は広がっていく。

アブラゼミやミンミンゼミのことはいろいろと書いた。
どんなことを書いたかは忘れてしまったけれど、書くことがいっぱいあった。翅が茶色なのがアブラゼミで、透明なのがミンミンゼミ。どちらかというと、アブラゼミの方が身近かにいて、すばしっこいミンミンゼミは遠い存在だった。
好きです、と書きたかった。でも、どうしても書けなかった。
セミが好きです、と書いた。「セミ」が「キミ」にみえてどきどきした。
クマゼミ(ワシワシゼミと呼んでいた)のことは、せわしない鳴き声以外は印象が薄い。九州でもまだ珍しいセミだった。
もっと他のセミも、たくさんいたような気がする。いなかったかもしれない。きっと幻想のセミがいっぱいいたのだろう。

やっぱり書こうと思った。
好きです、と書いた。好きです、という文字をはじめて見たような気がした。その文字は、好きですという文字ではないような気がした。あわてて消した。
盆風が立ちはじめる頃、ツクツクボーシが夏の終わりを告げるように鳴き始める。何かが終わる予感がした。夏休みが終わるという、楽しいことが終わってしまう淋しさの予感がした。
ツクツクボーシは、「つくづく惜しい。つくづく一生」と鳴くと言われた。
朝夕に鳴くヒグラシも、夏の風景が澄みわたっていくような、遠くへ何かを運び去っていくような心細さがあった。

その頃はいろいろなセミの声によって、季節の推移が細かく彩られていたのだった。
あの夏は、セミのことをもっと色々と知っていたし、知ろうとしていた。いまはもう、そんな熱い想いでセミの風景を眺めることもできないだろう。
セミのことが詳しいんですね……
それが彼女からの返信だった。他にどんなことが書いてあったか覚えていない。記憶に残るほどのことは書かれてなかったのだろう。
その夏、彼女に伝わったのは、セミのことだけだった。



花のなまえ

2017年07月31日 | 「新エッセイ集2017」

連日あつい真夏日が続いているが、百日紅の花も負けずに燃えるように咲いている。
あちこちで白い花や黄色い花、小さな花や大きな花など、名前もわからないが、それぞれの花が、それぞれの花の時季を迎えて咲いているようだ。こんなただ暑いばかりの夏も、花の季節なのだろうか。
炎天下で咲き誇っている、真夏の花の強さを感じる。

キハナ(季華)という名の女の子の孫がいる。いつのまにか、女の子とも言えないほど成長してしまったけれど。
その命名には、ぼくも関わりがある。四季折々に咲いている花のようにあってほしい、という思いを込めた名前だった。
彼女が、花のように育っているかどうかは、まだわからない。いつのまにか高校生になったと思ったら、もうすぐ卒業しようとしている。

何かをたずねると、「わからへん(わからない)」という答えがかえってくる。それが口癖になっているのかもしれない。
本当にわからないのかわかっているのか、よくわからない。「わからへん」と言いながら、何事もすいすいとこなしているようにもみえる。
脳天気ともいえるが、善意に解釈すれば、いつも自分でわかっていることよりも、さらに先の未知の部分をみつめているのかもしれない、ともいえる。未知のことは、誰でもわからへん(わからない)ものなのだ。

この夏には、通っている高校の学園祭があり、招待券をもらったので参観に行った。
クラスで創作劇をすることになり、彼女は尻込みしたが、皆んなに背中を押されて出ることになったと聞いた。
劇が始まってみると、彼女はなんと劇中のヒロイン役だった。
演技はいまいちだったが、現代っ子らしい激しい動きのダンスや、さまざまな場面転換の雰囲気を、それなりに楽しんでこなしているようにみえた。

いつからか、大学は東京に出たいというのが彼女の夢になった。
家庭の経済のことも考えて、寮のある国立の某女子大がターゲットになった。
かなり手ごわい大学だが、推薦入学の一次審査を通り、先日は東京の大学まで二次の面接試験を受けに行った。
あいかわらず、どこまでわかっているのかわかっていないのか、試験が楽しみだと言いながら、るんるん気分で出かけていったようだ。

だが面接試験が終わると、とたんにどん底に落ち込んでしまった。
まさか面接官の質問に「わからへん」とは答えなかったと思うが、面接官に椅子をすすめられる前に、さっさと自分から座ってしまったし、終わったあとも、お礼の挨拶もしなかったような気がするという。前もって高校で指導された、面接の基本的なことをミスしてしまった。だからもう駄目だという。
本人は緊張することもなかったというが、あがっていることもわからへんほど、舞い上がっていたのかもしれない。

それから3週間、彼女の暗い日々がつづいた。
合格発表は大学のホームページにアップされると聞いていたので、指定された日のその時間を待ってアクセスしてみた。
そこには彼女の受験番号があった。なんども確かめた。
まるで受験生本人のように動悸がした。さっそく彼女に電話をすると、ほんまに?ほんまに?と、信じられないといった声。
パソコンがなぜか繋がらなくて焦っていたという。パソコンが悪かったのか彼女の操作が悪かったのか、そのことはたぶん、彼女にも「わかれへん」かっただろう。

かくて、彼女の新しい進路も決まった。
いまは喜びが大きすぎて、どう喜んでいいのかわからずに戸惑っているようだ。
東京での生活は、ほんとの「わかれへん」ものが、もっとたくさん待っているだろう。そこでも「わかれへん」という呪文で、なんとか乗り切っていくのだろうか。

大都会でも、東京は大阪よりも緑地が多いように思う。いま頃はたぶん、色々な花も咲いているだろう。
学生だった頃のぼくは、東京で花に目をとめたことがあっただろうか。というよりも、花や花の名前などほとんど関心がなかった。だが年々歳々花相似たり、いつのまにか色々な花の名前もおぼえた。
それでもまだまだ、名前のわかれへん花は、たくさんある。


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いつか、朝顔市のころ

2017年07月27日 | 「新エッセイ集2017」

アサガオは朝ごとに新しい花をひらく。
毎日が新しいということを、なにげなく花に教えられる。
アサガオが中国大陸から渡来した時の名前は、「牽牛(けんご)」あるいは「牽牛花」だったという。中国ではアサガオの種は高価な薬で、対価として牛1頭を牽いてお礼をするほどだった。牽牛(けんご)という言葉の語源は、そんなところからきているらしい。
牛からアサガオなどと、とても連想しにくい名前だったのが、アサガオが好まれた江戸時代に、わが国ではいつしか朝顔姫とも呼ばれるようになったらしい。七夕の牽牛と織姫の連想から、日本人が好む優しい夢のある名前に変えられていったのだろう。

江戸時代とアサガオの、そんな風景にいちどだけ出会ったことがある。
飯田橋の小さな出版社で働いていた頃、浅草の印刷所によく通った。薄暗いところで、無口な若い職工たちが活字を拾っていた。見ていると、気が遠くなるような細かい作業だったけれど、そうやって、鉛の細い棒を並べていくことで、言葉ができ文章が出来上がっていくのだった。言葉というものは鉛のように重かったのだ。

印刷所の社長は山登りが好きで、「山の音」という喫茶店によく連れていかれた。いつも山の話ばかりで、ぼくもいつのまにか、八ヶ岳や白山などの3千メートル級の山にも登ることになってしまった。
ぼく自身は山登りが好きだったかどうかはわからない。山に登りたくなるときには、こころに空洞があったように思う。空隙を埋められない、なにかやり足りないものがあるような気がして、山登りで体を虐めたくなるようだった。

いつもの喫茶店で谷川岳の話を聞いたあとで、ぼくは浅草の静かな住宅街を歩いていた。ぼちぼち山で汗をかきたいという、さみしい欲求が溜まっていた。
とつぜん賑やかなところに出た。道路いっぱいにアサガオの鉢が並んでいた。それが浅草の朝顔市だというのを初めて知った。
ぼくはまだ、花というものに興味がなかったけれど、花の周りで賑わっている人々の様子に、なぜか涙が出るほどに感動していた。ぼくの孤独な若い生活が、すっかり失っていた懐かしい風景だったのだ。

ぼくはとうとう谷川岳には登らなかった。ルートだけを探り、赤鉛筆で汚した5万分の1の地図だけが残った。そのあと、山よりもだいじな朝顔姫との遭遇があり、ぼくの生活は急に慌ただしくなったのだった。