評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」
山崎元が原稿やTVでは伝えきれないホンネをタイムリーに書く、「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶ穴のようなストレス解消ブログ。
「首相の責任」の実体は何か
関西電力の大飯原子力発電所が再稼働するようだ。周辺自治体の理解を得られなければ再稼働はできないとされてきたが、関係する首長達は、政府の判断によって再稼働してもいいとの態度に傾いてきた。
野田首相は、「私の責任で判断する」と言っているようで、多くのメディアがそう伝えている。
また、福井県の西川知事は、「総理大臣が国民に向かって明確な責任ある見解を述べられることが重要だ」と言っている(ところで、西川知事自身は、安全性その他を具体的にどう判断されたのだろうか。ここの内容が一番気になるところであり、こちらが首相の言葉以上に重要だ。主として、福井県民の問題ではあるが)。
ともあれ、今後、適当なタイミングで、「政府として、私の責任で、再稼働を判断した」と野田首相が言うなら、大飯原発は動くようだ。
『週刊フライデー』(6/15)は東海村から東京電力の柏崎刈羽発電所に核燃料を輸送する車列の写真を掲載している(交差点で空間線量計を使うと、車両が通過するごとに測定値が毎時0.1マイクロシーベルトから0.91マイクロシーベルトに跳ね上がるという)。再稼働への展開は、経産省を含む電力・原子力業界の人々の計算通りに進んでいるのだろう。
ここで原発再稼働の可否そのものを論じる気はない(論じたい方は、別の場所でどうぞ)。また、野田首相の批判をしたい訳でもない(それは、別の場所でやる)。今回注目したいのは、「首相の責任」の実体が何なのかということだ。
国の仕組みとしては、別途、国会などの決議を要するものは別として、法律で定められた行政的な手続きの下に、行政の最高責任者である首相が「良し」と判断すれば、問題は無いのだろうが、「実質的には」そこに、どんな「契約」や「インセンティブ」が働いているのかが気になるところだ。
今や、首相は、証券会社の支店長よりも頻繁に交代する。顧客とのトラブルを抱えた支店長やセールスマンを転勤させて、トラブルの「責任」を曖昧にする、という話は、かつて証券界でよく聞いた話だが、首相の「責任」は、証券会社の支店長と較べてどうなのか。
証券マン相手の裁判よりも何倍も大変な裁判を勝ち抜いて、国の過失が認定された場合、国が然るべき金額の賠償を行うということはあり得るのだろうから、最終的な手続きが首相の判断であるか否かに関わらず、国の責任はある。これは、証券事故において、証券会社に責任があるというのと同じだ。
しかし、首相個人のインセンティブについて考えると、仮に今後不幸にして判断の誤りが顕在化した場合、首相個人(たぶん「元首相」になっているが)が何らかの不利益を被るということは少ないのではないか。
後日、当時の首相として判断の不明を問われることがあるとしても、証券マンに譬えると「当時のエコノミスト、アナリストがそう言っていたから、私は、それを述べただけだった」という程度の釈明をして終わりだろう(枝野経産相が首相になってこうした立場に立ったら、きっと巧みに釈明するだろうと想像される)。中堅証券マンの場合、顧客とのトラブルが深刻化すると出世に響くことがあるが、野田佳彦氏に限らず将来の「元首相」にはたいして関係あるまい(安倍元首相のような「燃え残り」の方は例外かも知れないが)。
さりとて、「私は、この判断が誤っていた場合、首相の地位にあればこれを辞任することはもちろん、国会議員も辞職し、議員年金も辞退する」とでも言ったところで、本人の決意の大きさを示すことは出来ても、これが「情報」として、どの程度参考になるのかは、微妙だ。
「首相が本心から決断したのだろう」と納得性に意味を感じる国民もいるだろうが、「訳の分かっていない人が、決意に力を込めてみせただけだ。どうせ決意を述べるのが商売なのだし」とこれを評価しない人もいるだろう。
どうすればいいのかは難しい問題だが、社会としての決定は、最終的には関係者の納得性の問題だろう。一つの方向性としては、「住民投票」や「国民投票」のような、直接民主制的な手続きをもっと頻繁に使う工夫が必要ではなかろうか。
権力者その人や、権力者を都合良く利用出来ている官僚・有力者などは、直接民主制的な手続きを嫌う傾向があるようだ。それは、「首相の責任」のような好都合に使える便利な道具を手放したくないからだろう。
「首相の責任」は、これを口にする首相本人の人格云々よりも、実体を殆ど伴わない余りにも便利すぎるツールとして利用可能である点ではないだろうか。
野田首相は、「私の責任で判断する」と言っているようで、多くのメディアがそう伝えている。
また、福井県の西川知事は、「総理大臣が国民に向かって明確な責任ある見解を述べられることが重要だ」と言っている(ところで、西川知事自身は、安全性その他を具体的にどう判断されたのだろうか。ここの内容が一番気になるところであり、こちらが首相の言葉以上に重要だ。主として、福井県民の問題ではあるが)。
ともあれ、今後、適当なタイミングで、「政府として、私の責任で、再稼働を判断した」と野田首相が言うなら、大飯原発は動くようだ。
『週刊フライデー』(6/15)は東海村から東京電力の柏崎刈羽発電所に核燃料を輸送する車列の写真を掲載している(交差点で空間線量計を使うと、車両が通過するごとに測定値が毎時0.1マイクロシーベルトから0.91マイクロシーベルトに跳ね上がるという)。再稼働への展開は、経産省を含む電力・原子力業界の人々の計算通りに進んでいるのだろう。
ここで原発再稼働の可否そのものを論じる気はない(論じたい方は、別の場所でどうぞ)。また、野田首相の批判をしたい訳でもない(それは、別の場所でやる)。今回注目したいのは、「首相の責任」の実体が何なのかということだ。
国の仕組みとしては、別途、国会などの決議を要するものは別として、法律で定められた行政的な手続きの下に、行政の最高責任者である首相が「良し」と判断すれば、問題は無いのだろうが、「実質的には」そこに、どんな「契約」や「インセンティブ」が働いているのかが気になるところだ。
今や、首相は、証券会社の支店長よりも頻繁に交代する。顧客とのトラブルを抱えた支店長やセールスマンを転勤させて、トラブルの「責任」を曖昧にする、という話は、かつて証券界でよく聞いた話だが、首相の「責任」は、証券会社の支店長と較べてどうなのか。
証券マン相手の裁判よりも何倍も大変な裁判を勝ち抜いて、国の過失が認定された場合、国が然るべき金額の賠償を行うということはあり得るのだろうから、最終的な手続きが首相の判断であるか否かに関わらず、国の責任はある。これは、証券事故において、証券会社に責任があるというのと同じだ。
しかし、首相個人のインセンティブについて考えると、仮に今後不幸にして判断の誤りが顕在化した場合、首相個人(たぶん「元首相」になっているが)が何らかの不利益を被るということは少ないのではないか。
後日、当時の首相として判断の不明を問われることがあるとしても、証券マンに譬えると「当時のエコノミスト、アナリストがそう言っていたから、私は、それを述べただけだった」という程度の釈明をして終わりだろう(枝野経産相が首相になってこうした立場に立ったら、きっと巧みに釈明するだろうと想像される)。中堅証券マンの場合、顧客とのトラブルが深刻化すると出世に響くことがあるが、野田佳彦氏に限らず将来の「元首相」にはたいして関係あるまい(安倍元首相のような「燃え残り」の方は例外かも知れないが)。
さりとて、「私は、この判断が誤っていた場合、首相の地位にあればこれを辞任することはもちろん、国会議員も辞職し、議員年金も辞退する」とでも言ったところで、本人の決意の大きさを示すことは出来ても、これが「情報」として、どの程度参考になるのかは、微妙だ。
「首相が本心から決断したのだろう」と納得性に意味を感じる国民もいるだろうが、「訳の分かっていない人が、決意に力を込めてみせただけだ。どうせ決意を述べるのが商売なのだし」とこれを評価しない人もいるだろう。
どうすればいいのかは難しい問題だが、社会としての決定は、最終的には関係者の納得性の問題だろう。一つの方向性としては、「住民投票」や「国民投票」のような、直接民主制的な手続きをもっと頻繁に使う工夫が必要ではなかろうか。
権力者その人や、権力者を都合良く利用出来ている官僚・有力者などは、直接民主制的な手続きを嫌う傾向があるようだ。それは、「首相の責任」のような好都合に使える便利な道具を手放したくないからだろう。
「首相の責任」は、これを口にする首相本人の人格云々よりも、実体を殆ど伴わない余りにも便利すぎるツールとして利用可能である点ではないだろうか。
コメント ( 15 ) | Trackback ( 0 )
« 河本「おかん... | トイレと野村... » |
チャンスで打席に立つ打者、あるいはピンチでマウンドに立つ投手に対して、「思い切っていけ。責任は俺が取るから」という監督のコメントを時たま耳にしますが、野田さんの発言には、一見すると、これと同じ程度の無責任さを感じます。
プロ野球の場合、勝負の末、残念な結果に終わった場合、その打者あるいは投手は、契約更改における評価により、責任を取ることになります。
監督が球団担当者に「彼のあの時の結果は、私が責任を取ることになっているんだ。評価は下げないでやってくれ」とお願いすることはまずないわけで(そんなこと言われても査定をする担当者は困るだろうが)、当事者である選手が責任を取ることになります(監督も同様に責任を取りますが、当事者である選手ほどのインパクトはない)。
言っていることとやっていることが異なるため、この手の発言には無責任さを感じます。
今回のケースでは、有事の発生あるいは稼働による広範囲への悪影響というリスクを取るのは国民なので、実体として責任を取るのは国民でしょう。
野田さんは間接投票による国民の代表なので、彼が「私の責任で・・」と言う部分を「国民の責任で・・」と読み替えると、不思議と無責任さは感じません。
代わりに、3年前に民主党に投票した自らに無責任さを痛感しますが。。
引用【「首相の責任」は、これを口にする首相本人の人格云々よりも、実体を殆ど伴わない余りにも
便利すぎるツールとして利用可能である点ではないだろうか】
又しても(笑)、現状認識として全く同感です。
SBの孫正義さんには批判も多いようですが、彼の判断能力は高く評価されるべきだと思います。
例えば、彼の5/30付ツイート http://p.tl/uzmz の「責任を取れる範囲」という捉え方が素晴らしい。
私見では、福島の核発電事故後の核発電の安全性を担保するべき「あのストレステストST」が、
テスト問題を核発電ムラ人が作成し、回答を核発電ムラ人が作成し、回答の採点評価を核発電ムラ人が
やれば(一人三役)、Go!サインがでるのは当り前だと。
私は福島の事故を「多分に東電のヒューマンエラーHEによる人災」だと認識していますが、
STは設備の安全性だけを検証しており、電力各社のHEを全く担保していない(と観える)。
STの結果は、核発電のリスクを「責任を取れる範囲」に抑え込んではいないと考えるべきだと。
一国の総理大臣(宰相)は、国家の命運や国民の生命でさえも巨大な影響を与える立場であって、
彼が担い背負うべきは、人間が造り出した「法律」が与え要求する「権限」や「責任」ではなく、
より大きな存在である「自然(法)」が与え要求する「資質」や「責務」だと思っています。
この「権限vs資質」「責任vs責務」の対置は、過日別板で書いた「コンプライアンスvsガバナンス」
に通じており、更にそのガバナンスはその深遠部に於いて、法律や制度のレベルを超えて
「ガバナビリティ=本人(此処では総理)の資質能力」を厳しく問うていると。
武田信玄曰く「人は石垣、人は城」と。即ち、唯一肝心なのは「人」だと。その人が崩れていては、
如何に立派に見える石垣も城も、「張りぼて、張り子の虎」に過ぎない。
今の日本はその肝心の「人、特に身分高き者」が崩れている。大人(おとな)を大人(たいじん)に
変身させるにはことこそが重要だと。
其れは、今更、単なる教育では有り得ない!
草々
通した後に政権交代して野田さんは過去の人になるんでしょう~って笑って自分たちの生活や子供の健康を守るのに精一杯。
それなりに時間がたってから国民の健康や土壌や環境が病んで子供は更に減り、日本の国民数は減っていくのでしょうね公害病やアスベストによるじん肺より大規模な異常が将来出そう。
原爆を受け、原発事故に大津波に竜巻。いつ首都圏に直下地震が起きるが解らない災害大国日本世界のリスク管理に貴重なデ―タ―を示す実験場になっているだけと冷めています。自然界では真っ白な雀…アルビノや茶色いからすなど小さな個体系が見つかって話題になっていますとりあえずは今年も 猛暑らしいので向けて準備をします。
猛暑がいっとき経済効果をあげるかも。
「問題から逃げない」という責任の取り方もあれば、「ポストを辞する」という責任のとり方もあります。これは相反するものであり、責任を取る方も取らせる方も、その時々に応じて自分たちにとって都合の良いほうがチョイスされます。
また、「有限責任」か「無限責任」かという考え方があります。たとえば、謝罪するだけで済むのか、首相を辞任すれば済むのか、議員を辞すれば済むのか、全財産を投げ出せば済むのか。
原発の場合は、事故が起きてしまえば、以後、どのような対策をしてもリカバリーはまず不可能であり、おっしゃるとおり、責任を取るといっても、気持ちの問題でしかありません。
当たり前の話だが、再稼動で問題が起きたとして、首相が辞めてもその解決に前進はない。
したがって「問題が起きたら辞める」という覚悟より、「いちいち問題があったからといって辞めるとは限らないが、再稼動が安全が担保される手続きはとった」という方が、国民にとって利益ではあるし、誠実だ。
「責任」及び「責任を取る」という言葉は、後者のような「実質」が伴わない時の雑音封じのために使われることが多く、それを許す文化が日本にはある。
辞めたという結果や何かあったら辞めるという覚悟は、何の役にも立たないのに。
そういう時の自己弁護は、辞表を出すしか思いつかなかった。しかし、これが何の役に立つかと考えると、その場から逃走する手段でしかないなと思った。たとえ命を絶ったとしても、別の逃走でしかないように思う。
だから、責任の取り方なんて実体のないものとしか言いようがない。だから、意思決定という賭けに何を張るのかという情報になってしまい、職を賭するとか、命を懸けるとかの話になるが、掛けたものをもらってもほとんど足しになるようなものはないように思う。
しかし、店主の言うように国民投票をしたら良い結果になるようなことなどあり得ない。不都合な結果が出たときにそれを不承不承耐えるだけの話だが、その案に投票をしないものからすれば、多数意見の連中がどう責任を取るかが問題である。(店主を含めて民主党政権を選んだ責任はどうとるのだろう)
だから、私はルールで選んだリーダーが必死で考えて、職を賭する覚悟で決定することを良とする以外に方法がなかろうと思うから、リーダー選びが重要だ。その点からすれば、ハト○、か○をリーダーにしたのは間違いもはなはだしかったと確信している。
別件ですが、「毎時0.1マイクロシーベルトから0.91マイクロシーベルトに跳ね上がる」のを怖がっておられるようだが、勉強不足ですよね。低線量放射線の人体への影響は遺伝子損傷によるがんの発症であるが、その原理は放射線の作る活性酸素(ヒドロラジカル)が遺伝子を損傷させることから起こる。この面で、(以前から確認されていることであったが)最近MITが、自然放射線の400倍を連続照射しても遺伝子は全く損傷しなかったことを報告している。年間1シーベルトを浴びても遺伝子異常は起こらないのだから、これを時間あたりにすれば114マイクロシーベルトである。0.91など安全領域そのものでしょう。小学館系は、こういう煽りばかりして発行部数増を狙うから嫌いだな。
そして、結局責任はとらなくて済む結果になるのでしょう。。。
そういった仲介業者が実態とはかけ離れた極端に高いリターンが得られると宣伝して勧誘している時点で詐欺的なのですが、
仲介している商品自体はなんら変哲のない積立商品ですので、それだけではなかなか罪にも問われづらいようです。
また、そもそも無登録業者が大半であるため仲介業者がそう長く経営が続くとも思えませんが、
契約者の大半はHSBCの口座開設ツアーというなんじゃりゃ、みたいなツアーに連れだされている面々ですので
当然英語が話せません。
そういった場合、香港のIFAやフレンズ社などとコンタクトを取るのが困難のになるので相当困るとおもいます。
仲介をしている面々を見ると 投資詐欺で問題になった 121fund や最近話題のスポーツアービトラージなど詐欺案件
を紹介していた人物がいたりで、直接的な詐欺じゃないぶん逮捕リスクの低い詐欺業者の新たな飯の種なんだろうなと思います。
軽くググッただけでも結構な人が投資しているようで、のちのち結構大問題化するんじゃないのかなあ思います。
そういう自分のところにも別の121fund関連の詐欺案件を持ってきた人がスタンダードライフの積立の話をもってきて呆れました。
何か機会がありましたら読者に啓発していただければありがたいです。
やはり、起こりうるリスクの回避、起こった場合の補償の内容等国の行うことを明確にすること、たとえば法律制定ということになるのでしょうかね
「仮構」という言葉がある。長く伸ばすと「仮想の構造物」というところでしょうか。
国家は(国民や領土と云う物理的存在を除けば)「仮構」という説もある。この場合の仮構の
核心部分には「仮構たる権力」があるのかも知れませんね。民主主義体制も然りかと。
此処での主題である「責任」も仮構と云えるかも知れません。
‥とすると、言葉としては「責任の実体」は成立するのですが、「仮構」に実体があるのか?
という疑問が生じます。
草々
政治については色々しらべているのかもしれませんが、
今回のAKBの問題を本当に理解して書いているのでしょうか?週刊誌を鵜呑みにして記事を書いたということしか
思えない内容に落胆しています。そもそも比べることに
センスがありません、貴方の権威が下がる結果となった
と感じております。
PS。民主党の制裁は本当にあのような判断の基に行われるのでしょうかすら疑問です。
少なくても選挙民(というのかな)に対してはAKBの方が真摯に向き合っているということですかね。
政治と金というテーマがありましたが、今は政治(あるいはAKB)は何に対して向き合っているのかが大きなテーマなんでしょう。
首相の責任とは何か。
首相を行政府という組織の長と考えれば、組織防衛のために責任を取る人が必要ということなんでしょうが、その首相がころころ変わらざるをえないということは、組織が疲弊している証拠なのかもしれません。
制度設計という言葉がありますが、AKBも政府もその制度設計が良いのか悪いのかが問題ですね。
(AKBファンの方ごめんなさい。)
http://www.zakzak.co.jp/economy/investment/news/20120621/inv1206210754001-n1.htm
を読みました。
感想としては『?』でした。
山崎元さんは、この手紙を本物との前提でコラムを書かれているようですが、この手紙が偽物だと何故疑わなかったのかが如何にも不思議であり、尚且つ不自然だとかんじました。
こうしたものに疎い私ですら手紙の真贋を最初に疑いました。
何人かの人やマスコミがこの手紙の信憑性に対して疑いの目を向けています。
(永田メールの事件をもはやお忘れなのでしょうか?)
事実、小沢夫人と親しい人からは『明らかに筆跡が違う』との声が出ています。
ツイッターなどを見ると関係各所にこの手紙のコピーが郵送されているそうです。
中には政治とは一切無関係な一般人にも郵送されていて、現在この手紙は捏造された怪文書として扱われています。
週刊文春の取材も問題があり、情報の裏を一切取らずに憶測だけで記事を書いている事、この記事を書いた記者が『松田賢弥』という過去に何度も捏造記事を書いた人物であることから、この記事の信憑性は極めて低いと言わざる得ません。
貴殿のコラムを読んだとき、とてももやもやした気分だけが残りました。
せっかくブロクの冒頭に『山崎元が原稿やTVでは伝えきれないホンネをタイムリーに書く、「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶ穴のようなストレス解消ブログ』と書かれているのですから、そのようなコラムを書いて下さい。
残念ながら、今回の記事は出来の悪い感想文の域を出ず、ストレスだけが残りました。