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後味の悪かった落語のハナシ

 数カ月前に落語を聞いた。チケットを取るのが難しいことで有名な現在脂ののっている落語家さんの独演会の抽選に当たったのだ。ご本人から、客席に向かって「皆さんは○千人から抽選で当たった○百人であり、まさに“選ばれた人”なのです」と注釈があった。
 この独演会は、前半後半に一つずつこの売れている落語家が大きな噺をし、その前にそれぞれ弟子の噺(師匠の噺の半分くらいの時間の)が入る構成だった。
 前半、弟子の噺が終わって、本人が登場した。弟子の噺が今一つウケなかったという印象を持ったらしく、弟子の噺にコメントし始めた。
「うーん。ウケの悪さほど不出来な噺ではなかったと思うんだけどねえ。あの噺は、……の部分がウケなければ、盛り上がりようのない噺なんですよ。……を話し終えてから、あいつの話のスピードのまあ速いこと速いこと…」と解説する。
 確かに素晴らしく上手だとは私も思わなかったのだが、「あれは、それなりに頑張って話していたのだな」という気分で次の噺を聞きたかったので、少なからず興ざめした。
 弟子の噺がウケなかったことが、客に対して不満だったのか、弟子に対して怒っていたのか、人気落語家氏のコメントからは定かではないのだが、彼はしばらく不機嫌で、長々とマクラを振ってから、噺を始めた。
 彼が選んだのは「雛鍔(ひなつば)」(子供がお金のことを「おひな様の刀の鍔」という噺)だった。しかし、話す本人が不機嫌なせいか、私は彼が話すのを聞いていて今一つ噺の中に入ることが出来なかった。子供が話す場面が出て来て、そこが聞かせ所なのだが、隣に座っている小学生の子供が明らかに退屈そうにしている。子供にウケない雛鍔は失敗だろう。

 休憩を挟んで後半に入った。後半も先に弟子が話す。女性の落語家さんで、一所懸命に話していることが伝わる熱演だった。
 その後に師匠が登場する。次は、演題を思い出せないが、お寺を舞台にした暗くて長い噺だった。
 この噺の途中に、お寺の小坊主さん達が食事を摂る場面がある。ものを食べる場面は、落語家としては芸の見せ所だが、彼はそれをやってみせて、客に向かって「さっきの食べ方よりも上手いでしょう。師匠だからねえ」と、再び弟子の芸に対してネガティブに言及した。直前の弟子の噺の中にも食事のシーンがあった。
 この師匠は、(本当に)有名で人気のある落語家さんなので、後半の噺が終わった後には大きな拍手を受けたが、ご本人的には、今一つ調子が出なかったと認識したようだった。
 「今のは暗い噺だったからねえ。明るく笑える噺を聞かないと、お客さん、帰りにくいでしょう」と言って、15分くらいの(たぶん元の噺を縮めた)賑やかな噺をやって、会場を暖めて、お開きとなった。おまけの噺は、なかなか良かったと私も思った。最後にやっと調子を出したか。
 会が終わって、席を立ち出口に向かいながら、抽選に当たって今をときめく○○○○の噺を聞くことが出来たことに対する「お得感」があって良かったと思う気分もあったのだが、何やらスッキリしない心持ちだった。

 前座、二つ目の弟子とはいえ、客の前に身を晒すプロだ。師匠が弟子を厳しく指導することは悪くないのだが、客の前で弟子の芸をくさしてはいけないのではないか。
 敢えて付け加えると、その後味の悪さが本人の心の中になにがしかあって、彼のこの日の噺はイマイチの出来だったのではないか。
 後輩、まして多分家族同然の弟子の指導とは難しいものなのだと感じた独演会だった。
 あの日の弟子に対する嫌みな感じを人柄の印象として覚えているので、その後、師匠であるこの人気の落語家さんが、新聞などで、落語の素晴らしさを伝える事に対する使命感を「謙虚風に」語っているのを見ても、表面だけいい人を演じている嫌な人物のような気がして素直に信用出来ずにいる。
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