鳥も通わぬ八丈島と言われた島への流人第一号は宇喜多秀家。
関ヶ原の合戦に負け、島津家へ身を寄せていたが、
幕府に捕えられ、八丈島へ流された。
妻である前田利家の娘豪姫は伴わず、息子2人と
わずかな家来で1606年八丈島の前崎海岸に到着。
1655年没というから49年間、およそ半世紀を八丈島で暮らした。
サツマイモが八丈島に伝わるまで、慢性的な飢饉状態だった八丈島。
2年に一度、加賀藩から米70表、金子などが届けられ
それは明治維新まで270年間続いたという。
さて、その宇喜多秀家の墓は、民間の墓地の中にあった。
車で走っていると見落としそうな看板。
八丈島の名所案内看板は、どこも小さくて見にくい。
車はどこに・・・と、回りを見渡す。
道路を隔てた向かい側に広い駐車場はあるが、
宇喜多秀家の墓用駐車場との表記はない。
ここに停めて良いのか迷ったが、バス用の広い区画線も
描かれているので、ここでよいのだろう。
駐車場側から見た大賀郷稲葉墓地。
ちょっと探したがすぐに分かった。
城主だった岡山城の天守閣の礎石が置かれていた。
元々の墓は五輪塔の左横の墓石で、五輪塔は
1841年子孫によって建立された。
八丈島と流人の事が知りたくて、八丈支庁内にある
八丈島歴史民俗資料館へ行く。
宇喜多秀家を流人第1号として、明治までに1900人程の流人。
隅田川に架かる永代橋から出発し浦賀へ。
当時の隅田川は浅かったため大きな船は着けられない。
浦賀で大きな船に乗り換え、下田~三宅島へ。
三宅島と八丈島の間は黒瀬川と呼ぶ黒潮が流れ、
当時の船ではそう簡単に着けない。
三宅島で2~3ケ月風待ちし、やっと八丈島へ。
八丈島での流人の生活に関しては、こちらの方の
ブログが詳しいです。
八丈島には湧水井戸が多く、水を汲みに来る
若い娘と一緒に暮らす流人も多かったらしい。
これは明治13年頃に掘られたメットウ井戸。
新しいので、流人と水汲み女が出会った井戸ではない。
メットウという巻貝のように井戸の汲み口まで
らせん状の道がついている。
昭和30年まで生活用水として使われていた。
今、水は枯れているのだろうか?
八丈島にもつわぶきが多く咲いていた。