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串カツ子の旅日記

美しい国、日本。まだまだ見たい所がいっぱい。
温泉、宿屋、食べ物、紅葉、桜、街並み・・・興味の対象は尽きません。

九頭竜峡-2

2011年11月19日 | 旅-関東・中部

JR越美北線の終点九頭竜湖駅。

背後の山々も紅葉真っ盛りでした。 

訪れたのは11月7日です。

 列車が入って来ました。

 1両編成の福井行き。

福井までの52.5キロ、所要時間1時間38分。

沿線には、越前大野、一乗谷と、寄ってきた観光地がある。

時刻表を見れば 1日5本の運転。
その1本と出会えるなんて。

駅前が「道の駅九頭竜」。

ティラノサウルスの親子が出迎えてくれる。

積雪の多い冬場は近くの倉庫で冬眠するらしい。

15分おきに大きな口を開け、がぉ~と叫ぶ。

近くで見ていた犬がワンワン・・・と。

この近所でティラノサウルス科の恐竜の歯の化石が見つかっている。

トンネルを出ると、急に九頭竜ダムの入り口。

 

 ダム湖は強烈な逆光。

ここは午前中の方がいいかも。

 九頭竜ダム周辺の紅葉。

 

ダム建設で水没した17集落の神社を合祀した穴馬総社。

毎年5月5日には、離村した人々が集まり祭礼が執り行われる。

競馬ファンの間では、大穴の馬券狙いで人気があるとか・・・。 

 

 全長266mの夢のかけはし。

正式名称は箱ケ瀬橋といい、瀬戸大橋の試作品らしい。

 とっぷり暮れました。

多賀SAで夕食をとって帰ります。


九頭竜峡-1

2011年11月17日 | 旅-関東・中部

越前大野を後にして国道158号線を九頭竜峡に向けて走ります。

日本の農村の美しい事。

 背後の山々、紅葉してます。

 JR越美北線の鉄橋だろうか?
沿線の眺め良さそう。

 九頭竜峡の観光スポットの一つ、魚止に。

トンネルを出るとすぐに↑の標識があり、国道からそれてわき道へ。

 車が行き止まりの所に駐車場。

車は1台も停まっていない。

 九頭竜湖の奇岩や絶壁に映える紅葉を見に行こう・・・と、車を
降りたものの、この看板に・・・。

今日は鈴を持ってない。
冬眠には、まだ早いかも。
他には誰もいない様子。

 小心者の私は、Uターン。

代わりにバッタでも撮っておこう。

 

 

 仏御前の滝へ、250段の石段を登ります。

途中、しゃんしゃんと熊避けの鈴を鳴らしながら、ご夫婦が下りてこられました。

えぇ~、ここにも熊・・・。
看板はありませんが、準備の良いご夫婦。

 三段の滝だが、全体を撮れる場所はない。

清盛の寵愛を受けた仏御前。
彼女は、この近くにある仏原ダムの底に沈んだ仏原栃沢の生まれとか。


越前大野

2011年11月15日 | 旅-関東・中部

 越前大野でも水を汲もうかと・・・。

どこででも汲んでいるなぁ・・・と、あきれられるかもしれませんが、
越前大野は名水のまちですから。

 名水100選にも選ばれている「御清水」(おしょうず)。

どこで汲めばよいでしょうか?

大野市観光協会で尋ねると、分かりやすい散策マップを
いただき、御清水がいいでしょう・・・と、教えてもらう。

地下水がこんこんと湧き出しています。

漏斗と柄杓でペットボトルへいただきます。

 

下の方では、大根の泥落とし。

長い堀の中間部には「洗濯場」と書かれた所もあった。

 

越前おおの結ステーションの前にある「芹川清水」。 

 さすがにここでは汲みにくい。

越前大野城ですが、天守閣には登らず、眺めるだけ。

七間通りで毎朝開かれている七間市は、そろそろ終わりかけの時間。

銀杏を買う。
この時期、銀杏はどこにでも売っている。

なるべく大きい銀杏を買い、レンジでチンして食べるのが大好き。

薬局のレトロな看板が今も玄関先を飾る。

 

南部酒造場さんの軒には大きな杉玉がかかる。

このように茶色くなった杉玉はよく見かけるが、吊りたての青々とした杉玉は、
まだ見た事がない。
この色の変化が、新酒の熟成具合を知らせるものらしいが。

この酒屋の店先にも七間清水が湧いている。

映画のセットを思わせるような店舗が並び、ウインドウショッピングも楽しい。

しかし、七間通りはメインストリートか?
車の通行量も多く、観光気分で歩いていると危ない・・・かも。

福井へ来たなら越前そばは外せない。

七間本陣というこじんまりした蕎麦屋へ。

十割の越前そばです。

しっかりコシのある蕎麦に、つゆにまみれた大根おろしがどっさり。

粗削りのカツオがぷ~んと香り、おいしくいただく。

街の中には、石灯篭通りや、お寺が並び建つ寺町通りもあり、
もっとゆっくり歩きたい街でした。


清水元の水

2011年11月12日 | 水汲み

芦原温泉の宿をチェックアウトし、前日、遠くからちらっと見え、気になっていた並木道へ。

あわら警察署近くの道路。

フウの木でしょうか?見事です。

 リサーチしておいた湧水汲み場へ向かいます。

あわら市笹岡にある「清水(しょうず)元の水」。

泊まった宿でお聞きし、近辺の地図までもらっていました。

ちょっと通り過ぎましたが、国道8号線から上の写真のように見え、すぐに分かりました。

背後の杉木立の山から流れ出ているようです。

地元の人によって美しく管理され、車も3~4台ほど停められる駐車場も前にあります。

水量がそう多くないようで、汲むのに時間がかかります。

味・・・???
正直なところ、そんなに味覚が優れていない私には分かりません。

ただ、なんとなく硬いような感じを受けました。

結構知られているようで、私の前にも先客が汲んでおられ、汲んでいる最中にも、車が停まる。

まだ汲みたかったのですが、その人達に譲ります。

前の池でたにしがたくさん。

曲線は、たにしが歩いた後とか。

初めて見ました。

こんな多くのたにしも。

 この池で養殖されているようです。

ちょっと携帯タイム。

どうせなら、眺めの良い所で・・・と、紅葉がきれいなここへ。

 ここは、縫原町にある美山アンデバンダン広場・・・でしょうか?

先日、テレビで「住民の幸福度」に関して、全県のランクが発表されていました。

それに拠ると、この福井県が一位。

一乗谷やこの近辺、そしてこの後に訪れた越前大野、自然がいっぱい、街がきれい、海の幸、山の幸・・・。

住民が満足されているのがなんとなく分かるような気がしました。

ちなみに、わが町大阪は最下位。
これも、納得。

国道158号を越前大野へ向かいます。


芦原の宿の風呂

2011年11月09日 | 宿-北陸

 

チェックイン時女性用だった「芦の湯」。

 

露天風呂から内湯を眺めて。

露天風呂は、湯船の中から湯が注がれているが、ややぬるめ。

一人用の岩をくりぬいた湯船の方は、注がれる湯が絞られているのか
一人が入った後は、なかなか満たされず、湯はなまり気味。

バスタオルは部屋から持って行くが、タオルは常備されている。


お風呂は夜中の3:00に男女入れ替わり。

↑の写真は、入れ替わった後。

湯は凄くいい。

源泉名:芦原温泉泉井 第21号22号23号混合泉
宿の敷地内 地下65mから毎分100L湧出
Na=2400 K=130 Ca=1500  Cl=6000 など
成分総計は10000mg/Kg をゆうに超える
ナトリウム・カルシウム-塩化物泉

源泉温度は81度と高いが、熱交換器で適温に冷まされ湯船に注がれる。
もちろん、消毒無し加水無しの源泉掛け流し。

浴感つるつる、飲泉すると、えぐく塩辛い。
浴後は少しべたつく。


こちらは3:00~女性用になった「福の湯」。

露天風呂が多彩でおもしろい。

 

岩をくりぬいた寝湯が2つ。

つるつるに磨かれた御影石製の湯船に析出物がこびりついている。

 

 

 

注ぎ口の竹にも析出物がこびりつく。

 温泉卵を作る湯壷と足湯も。

この宿では湯に大満足。

しかし、安くもない宿泊料金に見合うとは思えない。

もう、行く事は絶対ない。


芦原の宿の食事

2011年11月08日 | 宿-北陸

食事は、朝・夕共に部屋食。

部屋食は好きじゃない。

特に朝食は、フトンをあげてすぐに配膳が始まる。

ほこり舞う下で食事とは・・・。

先附の左瑞は、天津甘栗の白和え。

茶色のものは、干瓢のきんぴらで、おいしく 仕上がっていた。

小鉢の中の造りは、サンマ。
細かい仕事がされていた。

さすがに、魚はよく活きていた。

これが一番おいしかったかな。

和風ふかひれスープ。

いいだしが出ていました。

お凌ぎの寿司。

もう少し酢を利かせて欲しいし、焼きさばには骨が・・・。

かますの柚庵焼き。 

 福井ポークを↓の鍋で。

 大根おろしが入っただしは、いいお味で、この鍋はおいしいかった。

 里芋の中に、エビそぼろ、生ウニなどをい込んで揚げたもの。

熱々、カリカリ、中身はほくほくでおいしい。

以上でご飯となり、なんだかちょっと物足りない。

 

 デザートは干し柿にレアチーズの詰め物。


 

朝食が並びました。

フタものの中は何だろう?

開けてびっくり、うっ、お粗末過ぎる。

卵焼きも海苔もない。

おかずに困るような宿の朝食、久しぶりだった。

コンロで小さなカレイの一夜干しを焼く。

みりん干しのように甘くておいしかったが、小さ過ぎる。

もう一方のコンロでは温野菜。

コンロは必要なんだろうか?

コーヒーのサービスもない。
最近、たいていの宿では、モーニングコーヒーが付いてくるのだが・・・。

食事、もう少し期待していたのだが、案外あっけない。
味はそこそこ良いのだが、どうしても少し前に泊まった
美ヶ原温泉「金宇館」と比べてしまう。

金宇館、宿泊料金はもっと安いのに、そして大旦那と若旦那が作る
料理なのにおいしく、多彩な食事だったと、つくづく思った。

 


芦原温泉の宿

2011年11月07日 | 宿-北陸

かねてより一度泊まりたいと思っていた芦原温泉の宿に泊まってきました。

芦原温泉の歴史は案外新しく、明治16年かんがい用の井戸を掘っていたところ
熱水が噴出し、以来温泉街として繁栄してきた。

昭和40年頃まで、福井の繊維産元が大阪の商社の接待に利用し
300名を超える芸者もいて多いに賑わったらしい。

各宿で源泉井戸を持っており、宿それぞれ異なる泉質が楽しめ、
又、湯量も豊富なところから、源泉掛け流しで提供される宿が多い。

12畳以上ある広い部屋だった。

2畳の踏み込み。

 

ベッドが置かれた部屋もあり、6名は泊まれる部屋だった。

 飲み物が入った冷蔵庫だが、余裕と冷凍庫有り。

しかし、ミニキッチンではなく、水が使える洗面所とは離れていて少々不便。

非温泉の風呂も付いている。

抹茶を頂きながら、部屋でチェックイン。

廊下の一面は、杉戸絵。

 

館内は全て畳敷きで気持ちが良い。

家紋の文様が書かれた1枚板が並ぶ。

見事な漆塗り。

 

70度の源泉が満たされた湯壷で温泉卵を作り、ロビーで頂く。

お一人様1個。

チェックイン後19:00までのサービス。

約20分で丁度よい加減の温泉卵が出来上がる。

源泉に含まれる塩分で味付けされ、とてもおいしい。

風呂場に 温泉旅館番付が貼られていて、この宿も名を連ねている。

何をもって番付されたのか?
好きじゃない行司さん。


一乗谷朝倉氏遺跡-2

2011年11月06日 | 旅-関東・中部

復元町並は南北に入り口があり、どちらからも出入りできます。

足羽川へ合流する細い一乗谷川を渡り、義景館跡の方へ。

以下、義景館跡の写真です。

写真①

写真②

写真③

写真④

写真⑤

写真⑥

写真⑦

写真⑧

写真⑨

写真⑩

この石段を登って行くと、初めて一乗谷に築城し、
繁栄の基礎を作り上げた初代孝景の墓がある。

400年の眠りから覚め、「兵どもの夢の跡」と言うのがぴったりだと感じた
一乗谷朝倉氏遺跡、もっと見るべき所はいっぱいあったが、今回はここまで。

枝垂桜の木も植えられ、唐門を入った所には、立派な薄墨桜もあり
桜の頃にでも、又、ゆっくりと訪れてみたいと思った。

 


一乗谷朝倉氏遺跡-1

2011年11月06日 | 旅-関東・中部

いきなりトンボ。

一乗谷朝倉氏遺跡へ向かう途中の「一乗谷あさくら水の駅」にて。

 

遠くから「あれは何・・・?」と眺めていたが、「足羽川頭首工」という水門。

城の櫓のような建物が並んでいる。 

 水の駅には粉ひき小屋もあり、三連水車も回っていた。

 越美北線(九頭竜線)の鉄橋を眺め

のどかな田園風景の中 

 一乗谷朝倉氏遺跡に到着。

駐車場は便利な事に何箇所もあり、無料。

 復元町並みに入ってみる。

入場料210円と良心的。
お城スタンプも、この受付で押せる。

 

紅葉にはまだ少し早かったようです。

 何棟かの建物が復元され、祝日のこの日、衣装を付けたガイドさん登場。

この地域は重臣の屋敷跡で、さすがに一区画は大きく、
それぞれ同じような井戸が区画毎に1つ配置されている。

朝倉家5代が103年間繁栄した跡だが、たった100年ほどで
こんな大きな遺構が残されるとは、さぞや繁栄したのだろう。

織田信長によって灰塵に帰し、埋もれていた城下町の発掘が
昭和41年から始まり、現在も続いている。

そういえば、高校の歴史好きの先輩が、一乗谷の発掘うんぬんと
熱く語っていたのを思い出した。


佐渡へ-13(佐渡金銀山)

2011年11月02日 | 旅-関東・中部

 北沢地区の施設や京町通りを見た後、佐渡金銀山へやって来ました。

正式には「相川金銀山」と呼ぶようです。

金が採れる所では銀も採れるので、金銀山。

「佐渡金銀山」とは、主に次の4つの鉱山を総称しています。

西三川砂金山、鶴子(つるし)銀山、新穂(にいぼ)銀山、それと一般的に
佐渡金山と呼んでいる「相川金銀山」。

日本最大の露天掘り跡「道遊の割戸」が右上に見えます。

相川金銀山は、この場所の発見から始まった。

優良鉱脈の一つ「道遊鉱脈」の江戸時代の露天掘りの跡で、
頂上部の裂け目の幅は30m、深さは74mとの事。

側面には坑道の跡がいくつも見える。

下の建物群は、昭和12年頃に建設された破砕場や変電所などの施設。

昭和13年に日華事変が起こり、戦争遂行のために必要となった金。
その増産のため、国はこの相川金銀山に莫大な予算をつぎ込む。

そして昭和15年には、年間1537キロもの金を産出した。
翌年昭和16年に太平洋戦争突入。

この1537キロという量がいかに多いものか、それまでの産出量は
年間せいぜい400キロほどだったので、それの約4倍の量。

江戸時代、貧鉱とされ、相川の海の埋め立てに使っていた鉱石を取り出し、
川に沿って引き上げ、最新の技術で、その貧鉱からも金を取り出したという。

 広場に大きな鉱石が飾られている。

この鉱石からは、1t当り10gの金がとれるらしい。

一般的には1t当り3~4gらしいので、いかに良い鉱石か。

石全体の重さは、聞き逃す。

よく盗まれないものだ。

 道遊の割戸を背後から眺める。

大きくがけ崩れし、足元には茶褐色の岩石が落ちていた。


江戸時代、相川金銀山で働かされていた流人の事を・・・。

1778年に初めて無宿人60名が江戸から送られて来た。
上陸したのは小木港。

そこから唐丸カゴに乗せられ相川へ。

以来1784名の無宿人や罪人が送られ、水替え人足として過酷な労働に
従事し、それは幕末まで続いた。

1784名のうち悪事を犯した罪人は200名程。

水替え作業はチームワークが大切で、罪人では務まらなかったらしく、
佐渡奉行所から幕府に、罪人は送らないようにと注文がついた。

真っ暗な坑の再奥で、貝殻に入れた油(石見銀山ではサザエの貝殻を使っていたようだ)
の灯りの元、一昼夜交代で働き、油煙と粉塵にまみれた彼らの命ははかなかった。


 日本初の西洋式垂直坑道の大立竪坑。

平成元年(1989年)の休山まで使用された。

一番てっぺんには三菱もマークが見える。 

1601年からおよそ400年近く、日本の鉱山技術


ガイドさんからは、まだまだ多くの事をお聞きしたが、聞き漏らしたり、
めもるのを忘れたり、あるいは話が難しかったりで、ここに書いたのはごく一部です。

この後、尖閣湾に向かいます。


佐渡へ-12(相川にて)

2011年11月01日 | 旅-関東・中部

随分、間が空いてしまいました。

佐渡を続けます。

佐渡金銀山へは入坑(見学)せず、関連する産業遺産のみガイドさんの案内で見て回りました。

ガイドさん曰く、佐渡金銀山関係を全部見て回るには、丸2日必要だとか。
と、いう事は、佐渡を全部見るには、最低5日間ぐらいは必要なんだ。


前回は、八幡温泉で一風呂浴びたところで終わっていました。

八幡温泉前からバスに乗り、佐和田でバスを乗り換え、相川に向かいました。

相川は佐渡金銀山で栄えた町。

ここでは、佐渡観光協会が主催する「佐渡エンジョイプラン」の、数あるコースの中で
「佐渡金山と相川の街ふれあい歴史散策」を予約していました。

この日の申込者は、私一人。

ボランティアガイドさんは、岩立さんという男性の方。
実に何でもよくご存知でした。

この方の案内がなければ、へぇ~こんなものか・・・と、ただ見ただけの佐渡旅になってしまったと思います。

いちおう、予定コースはあるのですが、私の産業遺産を見たいという希望を優先していただき、その上オマケまでつけていただきました。

 まずは、採鉱された鉱石を、選鉱、精錬した遺構がある北沢地区へ。

説明していただいた中で、興味深い(自分にとって)話を・・・。

佐渡金銀山に興味を持たれた方はこちらへ。


1601年、石見や甲斐などから山師(鉱山経営者)を集め、相川金銀山(佐渡金山)の本格的な開発が始まる。

石見銀山は先輩だったのです。

石見銀山はすでに世界遺産になっていますが、ユネスコから佐渡金銀山とセットで申請しては・・・?という提案もあったとか。

しかし、石見銀山の方が「うちは先輩、佐渡はうちの真似をしただけ。」とかで単独申請し、それが認められた・・・ようです。

佐渡金山も世界遺産入りを目指して運動しておられますが、いつ実現するのか?

甲斐から・・・と、いうのは武田家が鉱山開発の先駆者だったから。

山師は、どのようにして鉱石のありかが分かるのか?

回りの植生と違う植物が生えているとかで見当をつけ、表土をはがし、3~4m掘ってみる。

金山草(かねやまそう)というシダなどは、その一例。

そしてそういう所にはムカデが多いとか。

ムカデの話には驚きました。

ムカデの足は、張り巡らした坑道のようで、鉱山の象徴でもあったらしい。


レンガ造りの建物は変電所跡で、この中には金山関係の懐かしい写真が展示されている。

一人で見たなら、多分、す~っと流し見してしまいそうだが、ガイドさんの説明で、随分、興味深く眺めた。

斜めにかかるのはインクライン。

京都の蹴上にもある、アレです。

鉱石を船に乗せ、砕石場へと運んだそうです。

この発電所の横に、それは素晴らしい北沢浮遊選鉱場があるのですが、説明を聞き、メモする事に一生懸命で、写真を撮るのを忘れてしまいました。

ここを参照して下さい。

 鋳型工場の跡地。

鉱山で必要な道具類の鋳型をここで作った。

鋳型だけでなく、機械部品類の製作・修理をする工場、火力発電所など、佐渡金山の生産システムを支えていた施設が残る北沢地区。

実に見ごたえがありました。
が、写真がない。
撮りに行きたいです。

 現在、相川郷土博物館になっているが、元は明治22年に建てられた旧宮内省御料局佐渡支庁

明治の時代になり、金山は明治政府の管理となったが、
明治22年~29年までは皇室が管理していた。

生野銀山も一時期、皇室の財産だった時がある。

 

 菊の紋章の瓦。

日本各地から働きにきた人達が、出身地を町名にした。

 佐渡金山から奉行所までを結んだメインストリートの京町通り。

金山に近い地域には労働者が住まい、中間は商店街、下はお役人が住んだ。

 元三菱社長の住まいだったが、今は相川ふれあい集会所になっている。

バッタン床机と呼ばれる折りたたみベンチがある。

毎年6月初めに相川音頭の流し「宵の舞」が、この通りで開催される。

この宵の舞の参考になったのが、越中おわら風の盆だったとか。

はぁ、大好きな相川音頭、ここでバッタン床机に座って見てみたい。

明治29年、皇室管理だった佐渡金銀山は、三菱に払い下げられた。

屋根の軒瓦には三菱のマーク。 

少し下って鐘楼。

佐渡奉行所の時報鐘で1713年に近くの浜で焼いて作られたもの。

戦争中の鉄製品供出も免れ、今も京町の住人6人によって7:00と18:00(冬季17:00)の1日2回鳴らされている。

レンガ塀に囲まれた建物は、佐渡版画村美術館。

元は、明治21年に建てられた旧相川裁判所。

ここでは版画甲子園という高校生が版画を競う催しが、毎年開催されている。

1日目は佐渡を見学して、版画のテーマを決め、後の2日間で版画を仕上げる・・・と、いうもの。

資金不足で開催が危ぶまれているとか。


佐渡といえば遠島の島。

佐渡への島流しは奈良時代から始まっていたようで、ここに興味深い一覧がある。

よく知られているのは順徳天皇、日蓮、世阿弥などだが、実に多くの人が佐渡へ島流しになっている。

いわゆる流人貴族が佐渡へ入ってきて、彼らの世話をした佐渡人が、その代償に都の文化など流人から教えてもらう事が多かった。

そして、流人貴族との間に子孫が出来、その結果、高貴な住人が増え、能などの文化が根付いた・・・らしい。

日本で100ほどある能舞台のうち、佐渡には34箇所もあり、佐渡の芸能を代表するものになっている。

佐渡の能は、世阿弥が広めた訳ではない。

石見銀山より転勤して来た、佐渡奉行(当時は代官)の大久保長安が猿楽師を招いた事から始まり、佐渡の高貴な住人に受け入れられ
佐渡全域に広まったという。

家康に認められ、石見銀山から佐渡金山まで任された大久保長安だが、死後、一族は悲惨な末路をたどる。

今日はこれでおしまい。
はぁ、しんど!