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大木昌の雑記帳

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日本被団協 ノーベル平和賞受賞―田中氏のスピーチの意義―

2024-12-17 07:56:04 | 国際問題
日本被団協 ノーベル平和賞受賞―田中氏のスピーチの意義―

ノーベル平和賞の授賞式が日本時間の10日夜、ノルウェーの首都オスロで行われ、
被爆者の立場から核兵器の廃絶などを訴えてきた日本被団協=日本原水爆被害者団
体協議会にメダルと賞状が授与されました。

授賞式で演説を行った代表委員の田中熙巳さん(92)は「核兵器をなくしていく
ためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたい」
と訴えました。

私は、今回の平和賞受賞そののもが非常に意義深いものだと思いますが、授賞式での
田中さんのスピーチも同様に非常に意義深い内容だったと思います。

ノーベル平和賞の授賞式が日本時間の10日夜、ノルウェーの首都オスロで行われ、被
爆者の立場から核兵器の廃絶などを訴えてきた日本被団協にメダルと賞状が授与され
ました。

以下に、スピーチの内容の特に重要な部分を要約あるいは直接引用して、その意義を
考えてみたいと思います(注1)。

スピーチは謝辞のあと、被団協の設立の経緯と以下のように趣旨・目的を説明します。

    私たちは1956年8月に「原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)を結成し
    ました。生 きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害をふ
    たたび繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開し
    てまいりました。
    一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主
    張に抗い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければなら
    ないという私たちの運動であります。二つは、核兵器は極めて非人道的な殺
    りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければ
    ならない、という運動であります。
    この運動は「核のタブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いない
    でしょう。しかし今日、依然として12000発の核弾頭が地球上に存在し、
    4000発近くの核弾頭が即座に発射可能に配備がされているなかで、ウクライ
    ナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区
    ガザ地区に対しイスラエルが執拗に攻撃を加える中で核兵器の使用を口にす
    る閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとし
    ていることに限りない悔しさと憤りを覚えます。

映像でみても、田中さんは92歳とは思えない張りのある力強い声で、明晰な論理で
とても説得力があり、私は深く感銘しました。

田中さんのスピーチは、日本への核兵器の使用だけでなく、現在進行中のウクライナ
戦争でのロシアによる核兵器使用の威嚇、イスラエルの閣僚による核兵器使用へ言及
するなど、現在、「核のタブー」が壊されつつあることに「悔しさ」と「憤り」を表明
しました。

つづいて田中さんは、自身の被爆体験を語ります。この部分は、これまで直接に聞く
ことができなかった世界の多くの人に、核兵器の使用がどれほど悲惨な被害を人々に
与えるかを具体的に伝える重要な

私は長崎原爆の被爆者の一人であります。13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れ
た自宅において被爆しました。1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえるとま
もなく、真っ白な光で体が包まれました。

田中さん自身はこの時点では無傷で奇跡的に助かったのですが、

    長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯
    母の安否を尋ねるために訪れた時です。わたしと母は小高い山を迂回し、峠
    にたどり着き、眼下を見下ろして愕然としました。3キロ余り先の港まで、黒
    く焼き尽くされた廃墟が広がっていました。煉瓦造りの東洋一を誇った大き
    な教会・浦上天主堂は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。
    麓に降りていく道筋の家はすべて焼け落ち、その周りに遺体が放置され、ある
    いは大けがや大やけどを負いながらなお生きている人々が、誰からの救援もな
    く放置されておりました。私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、
    ただひたすら目的地に向かうだけでありました。
    一人の伯母は爆心地から400mの自宅の焼け跡に大学生の孫とともに黒焦げの死
    体で転がっていました。もう一人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていまし
    た。祖父は全身大やけどで瀕死の状態でしゃがみこんでいました。伯母は大やけ
    どを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で野原で荼毘にふしま
    した。ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援
    先で倒れ、高熱で1週間ほどで苦しみ亡くなったそうです。

    一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪いました。その時目
    にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰から
    の手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ
    戦争といえどもこんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけないと、私はそのと
    き、強く感じたものであります。

このブログを書いている私は、広島の原爆記念館を数回訪れたことはあり、原爆の悲惨さを
物や写真で見たことはありますが、正直にいうと、こうした実際の生々しい体験を聞くのは
初めてでした。

その年の末まで広島、長崎の死亡者の数は、広島14万人前後、長崎7万人前後とされています。
原爆を被爆しけがを負い、放射線に被ばくし生存していた人は40万人あまりといえます。

    生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられました。さらに日本
    政府からも見放されました。被爆後の十年間、孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に
    耐え続けざるをえませんでした。

生き残った人たちは、占領軍により口外を禁じられ日本政府からも見放され、二重三重の苦悩
と苦痛を強いられました。

日本政府は、厚生大臣が原爆症と認定した疾病にかかった場合のみ、その医療費を支給すると
いうもので、これは社会保障であり国家補償はかたくなに拒んでいます。

1994年12月、「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されました。

    しかし、何十万人という死者に対する補償はまったくなく、日本政府は一貫して国家
    補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けております。

この後で田中さんは草稿にはなかった言葉を発します

    もう一度繰り返します、原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府はまったく
    していないという事実をお知りいただきたいというふうに思います。

ここは田中さんが特に強調したい点で、日本政府の無責任な姿勢を厳しく糾弾しています。ス
ピーチの後の取材にも、「国が補償することに、どんな意味があるかを感じてほしかった」と
強調しました。

そして、「なぜ、一貫して拒否するのか、戦争の時に亡くなる命はごみと同じなのか」と怒り
を隠しませんでした(『東京新聞』2024年12月12日)。

戦争被害の補償については重要な問題を含んでいるので後でもう一度検討したいと思います。

被団協はこれまで核兵器のすみやかな廃絶を求めてさまざまな活動を行ってきました。その重要
な成果の一つが、2017年7月7日に122か国の賛同をえて制定された「核兵器禁止条約」です。

この条約に関してスピーチでは、

    さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持っ
    てはいけないというのが原爆被害者の心からの願いであります。想像してみてください。
    直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数
    百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということ。みなさんがいつ被害者に
    なってもおかしくない、あるいは、加害者になるかもしれない状況がございます。ですか
    ら、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、
    求めていただきたいと思うのであります。

と訴えました。そして最後に、

    原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の被爆体験者としての証言ができる
    のは数人になるかもしれない、との危機感から、私たちがやってきた運動を、次の世 代
    のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しております。
    世界中のみなさん、「核兵器禁止条約」のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の締結を
    目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験の証言の場を各
    国で開いてください。とりわけ、核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器
    は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付くこと、自国の政府の核政
    策を変えさせる力になることを私たちは願っています。
    人類が核兵器で自滅することのないように!!そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会
    を求めて共に頑張りましょう!!ありがとうございました。

と締めくくりました。

私は、今回の被団協の受賞と田中さんのスピーチはあらためて核兵器禁止への思いを世界に伝える上
で大きな意義があったと思います。

スピーチに関連して、日本政府が被爆者への補償を拒否し続けている問題について補足しておきます。

日本政府は表立っては明言していませんが、一貫して「受忍論」を堅持しています。「受忍論」とは、
戦争被害は国民が等しく我慢すべきだという考えで、被爆者が求める補償に対する厚い壁となってい
ます。

この問題にたいして水島朝穂・早稲田大学名誉教授は、国が始めた戦争なのに、被害を受けた民間人
への補償を政府が怠り続けてきたことを被団協は世界に知らしめたと評価し、

    被爆者ですらそんな粗末な扱いを受けてきたことは、世界に驚きをもって受け止まられたの
    ではないか。・・・受忍論は克服されねばならない(『東京新聞』2024年12月12日)。

と日本政府の対応を非難しています。筆者もまったく同感です。

今回の受賞式の会場には、広島、長崎、熊本から4人の制服姿の女子高校生平和大使も列席していま
した。その一人は「核のタブーを破った先には危険な未来しかない」と語りました。

また別の高校生は、「田中さんが演説で次世代による活動の継承に期待した」ことを受けて「私たちが
頼られている。被爆者の証言や思いを引き継がないと」と決意を述べました(『東京新聞』2024年12
月13日)。こうした高校生は一条の光です。

なお、上に言及した「核兵器禁止条約」に日本政府はアメリカに忖度して、オブザーバー参加さえして
いません。唯一の被爆国として恥ずかしいことです。

上に触れたように、日本被団協は「核兵器禁止条約」の“生みの親”でもあるのです。

日本政府はこれまで、核兵器が持つ抑止力(通称「核抑止力」)の有効性を認めてきており、アメリカの
「核の傘」の下で核兵器の安全性を確保する、という方針をとってきました。

だから、アメリカが反対している「核兵器禁止条約」には参加しない、と弁解してきました。しかし、同
じくアメリカの「核の傘」の下にあるドイツは、上記条約会議にはオブザーバー参加しています。

結局、日本政府は、少しでもアメリカの機嫌をそこねるかも知れない(実際はどうか分からないのに)こ
とに関しては、事前に忖度してアメリカと同一歩調を取っています。

その一方で、日本政府はこの問題が持ち上がるたびに、核保有国と非保有国との橋渡しをする、との言い
訳をしてきましたが、実際、そんな努力はしてきませんでした。

今回の被団協の平和賞受賞は、一方で世界に「核なき世界」を作ろう、というアピールであり、他方で、
唯一の被爆国である日本政府がこの問題に後ろ向きであることへの痛烈な批判ともなりました。

今回は、主に日本社会および日本政府に向けられたメッセージに着目しましたが、もちろん、これは世界
の核兵器保有国全体に向けられえいることは言うまでもありません。



(注1)スピーチの全文は『東京新聞』2024年112月12日、あるいは同日他紙でも見ることができますし、
    NHK WEB(2024年12月11日 15時56分)
    https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241211/k10014664891000.htmlでも読むことができます。
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