大木昌の雑記帳

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現代医療の落し穴(2)―専門分化型医療と既得権益―

2024-02-20 09:22:35 | 健康・医療
現代医療の落し穴(2)―専門分化型医療と既得権益―

今回も前回に引き続いて「こころとからだのクリニック医院長」の和田秀樹医師(精神科)の論考
を参照しつつ、「現代医療の落し穴」について考えてみたいと思います。

論考の冒頭で和田氏は、「多くの人が信じている医学の進歩であるが、細かい点では確かにいろい
ろと進歩はしているのだが、全体のシステムとしては、まったく時代遅れのものだと私は考えてい
る」と述べています。

では和田氏は何をもって、「全体のシステムとしては、まったく時代遅れのもの」だと指摘してい
るのでしょうか?

その理由の一つは、前回も引用した「現在は人口の約3割、医者にくる患者さんの約6割が高齢者だ。
高齢者の場合、いくつも病気を抱えているために、各々の専門医が薬を出すと多剤併用が当たり前
に起こる。医療費の無駄でもあるし、副作用も多くなる」という事情です。

さらに、この背景には、現代の医学教育が臓器別診療と臓器別医療など専門分化に偏っているから
です。

和田医師によれば、専門分化は医学部教授たちの既得権益や専門分化型の医師たちのポストの確保
のために50年も専門分化型医療と、専門分化型教育が続いてきた結果だという。

この点が「まったくの時代遅れ」で、専門分化型ではなく総合診療へ医学教育をシフトすべきだと
いうのが和田氏の主張です。

少し補足しておくと、大学におけるポストは「講座」や「教室」(呼称は大学によって異なる)ご
とに教授、准教授、講師、助手といった教授・教員が割り当てられます。

たとえば、消化器内科講座には、教授1名、准教授2名、講師3名、助手4名、といった具合です。
「消化器内科講座」がさらに胃、大腸、小腸、すい臓などの臓器に細分化される可能性もあります。

さらに同じ消化器部でも、内科ではなく外科部門や腫瘍科(がん科)などに分かれることもありま
す。こうした専門分化の実態は、病院の診療科の一覧を見れば分かります。

医学部教授たちの既得権益とは、それぞれすでに「講座」という枠組の中でポストを得ている教授
・教員の地位が守られていることを意味しています。

もし、こうした専門分化型の教育システムが総合診療を前提としたものに変わると、自分たちの既
得権益であるポストがどうなるのか不安になるので、既存の専門分化型教育システムがずっと続い
ているというのです。

ただし和田氏は、高齢者が増えたからといって専門分化型の医者が必要なくなったというつもりは
ないが、総合診療医と専門医の割合がいびつであることを指摘しています。

たとえば日本よりずっと高齢化率が低いイギリスでもその比率は1対1くらいと言われていますが、
和田氏は、そのくらいが適正だと思うとのべています。

日本においては、いわゆる総合診療医(General Practitioner)の制度がありませんが、欧米では専
門化した医師の診察・治療を受ける前に、GPの診察を受ける必要があります。

総合診療医とは、病気を心身から全体的に診療する医師である。病気の予防にも携わる。 総合診療
は、患者の生活についての、生物学的・精神的・社会環境に着目し、ホーリズム的な手法である。
総合診療医は、患者の特定臓器に着目するのではなく、全体的な健康問題に向き合って治療を行い
ます(Wikipedia)。

以前、NHKで『ドクターG』という医療番組があり、私は毎回見ていました。これは、総合診療
のスペシャリスト医師(ドクターGeneral)が若い医師に、総合的な観点から診断を下すことができ
るよう訓練する内容でした。

いずれにしても、現状では、大学医学部も厚生労働省も総合診療医を増やすつもりはなさそうだ。
つまり、大学当局も政府の厚生労働省も、現在の専門分化型による既得権益を失いたくないからです。

しかも、既得権益で利益を得ているのは、すでにポストを得ている教授陣だけでなく、文部省や厚労
省の役人も同様です。

大学を管轄する文部科学省は患者を診ていないので、いまだに論文重視の医学教育を容認しています。
それなら、医療を監督する厚労省が、大学医学部にてこ入れすればいいのに、逆に審議会の委員の多
くは、和田氏のような臨床医でなく、研究ばかりしてきた大学教授たちなのです。

和田氏は、文科省も厚労省も大学医学部改革をやろうとしないことには別の理由があるとにらんでい
ます。

すなわち、文科省や厚労省の役人にとって大学医学部教授は重要な天下り先で、論文が一本もなくて
も教授になれるのです。

天下りが原則禁止になっているのに、医学部教授への天下りはフリーパスなのが現実です。和田氏は、
これを禁止しない限り、日本の医学教育は高齢者に適したものに変わるのは見込み薄だということは
伝えておきたい、と強調しています。

ここにも、信じられないような「天下り」の構造がまかり通っているのです。

臓器別診療が始まり、集団検診が始まった70年代から、医学教育の基本構造がまったく変わっていな
いので、前時代的と言われても仕方ないようになっています。

いずれにしても、現在の医学教育も医療システムも、患者の立場からすると、専門分化型医療体系は
とても不便です。というのも、必ずしも高齢者でなくても、一人の患者が抱える健康上の問題は一つ
だけとは限らず、複数の症状や関連する問題を抱えていることは、ごく普通にあるからです。その場
合、症状ごとに異なる診療科を回らなければならないのです。

和田氏の指摘の中で、もう一つ注目すべきは、医師には臨床医と研究医(仮の呼称ですが)とがあり、
大学に残って大きな既得権をもっているのは後者の方だという指摘です。

臨床医とは、実際に患者の治療を中心に活動する医師のことです。これに対して、主として実験や研
究を活動の中心においている医師は論文を書き、出世も早く上級の教授職につけますが、臨床医は、
日々患者と接して治療を行っているので、時間のかかる研究をして論文を書く余裕はありません。

しかし、大学という世界では結果的に生物学的な脳などの研究をしていた人のほうが論文の数が多い
などという理由で教授会の多数決で勝ちます。

そして、論文をたくさん書く医師の方が「格が上」のように扱われます。

もちろん、地道な基礎研究は医学の進歩にとって非常に重要であることはいうまでもありません。し
かし、だからといって臨床医(文字通り、患者のベッドに臨む医師)より格が上であるとか、重要だ
ということにはなりません。

少なくとも大学においては、医師は研究と臨床とを往復できる体制が必要だと思います。

医療の専門家と並んで和田氏が現状に大きな不満と問題を指摘しているのは、大学医学部の医学教育
において「心の医療」が軽視されていることです。

現在、日本には82も大学医学部があるが、精神科の主任教授の専門分野がカウンセリングとか精神療
法の大学は一つもありません。

教授のプロフィルの専門分野の一つに精神療法とか書いている教室はありますが、教授になってから
勉強したという程度で、教授になるまでに精神療法を学んできていないというのが実態だろう、と和
田氏は推測しています。

これは、精神科の教授を医学部の教授会における選挙で決めるからで、多くの大学医学部の教授たち
は、動物実験で書いた論文の数で教授になった人たちだから精神科の教授にもそれを求めます。

結果的に生物学的な脳などの研究をしていた人のほうが論文の数が多いなどという理由で教授会の多
数決で勝つ。82大学すべてで、これが起こっているという。

しかし、私自信のことを考えてみても分かりますが、私たちの病気というのは単に身体的な異常、と
いうだけでなく、心の問題をも同時に抱えているのが普通です。

さらに、ストレス社会といわれる現代、地震や性犯罪などのトラウマを抱える人が増えてくると、精
神科の患者さんのかなりの部分が、薬では治らなかったり、カウンセリングが必要になります。しか
し、現在、ほとんどの大学医学部では、心理学やカウンセリング法などは学べません。

大学6年間の講義の中で、「心の問題」を学べるのは、精神科の講義だけということは珍しくありませ
んが、その時に精神科の教授が生物学的精神医学の人だと、講義で脳内の神経伝達物質の話や精神障害
の診断基準の話ばかりを聞くことになって、患者さんとの接し方や患者さんの心の問題などを学ぶこと
ができません。そういう学生たちが、この20~30年医者になっているのです。

高齢者が増える中、もう一つ、大学医学部の教育でおかしいと思うのは栄養学が学べないし、学べても
時代遅れになっていることです。とりわけ高齢者にとっては、特定の病気(糖尿病などカロリー制限や
腎臓病に対する塩分の制限)を対象として栄養学や食事指導はあっても、健康の維持と増進のための栄
養学は必須です。

栄養学の軽視とならんで、免疫学の軽視もあいまって、いろいろと好きなものをがまんさせることでス
トレスが強まり、免疫力が低下する弊害が考慮されていません。

実際、塩分やお酒、コレステロールや甘いものをがまんさせることで、どれだけ病気を防ぐことができ
るかの大規模比較調査は日本にはないのです。


和田氏は、我慢することで「がん」による死亡者が増加する弊害について述べていますが、この点に関
して私はまだ十分なデータをもっていないので保留としておきます。

ただし、医療における「心の問題」が現代医療で軽視されているとの指摘に私は大賛成です。

というのも、私は現代医療(現代医学)が発展する過程で抱えこんでしまった非常に大きな問題は、そ
もそも「一つの存在」である人間を「身体(肉体)」と「心」に分けてしまったことだと考えているか
らです。

しかも、医学界全体においては、身体的な医学が圧倒的に優位に立っています。それは、心の問題は物
質(ある場合には化学的成分)として取り出して実証することができないからです。

もし、精神医学や心理学で、身体医学と同等の実証性を求めるとしたら、一部の生理心理学のような化
学物質の量やその変化を物質レベルで検証するという、ごく一部の領域に限られるでしょう。

私は、人間は「身体」と「心」に分けること自体が現代医学の大きな「落とし穴」だと考えています。
残念ながら、このような傾向は日本において特に強いように思います。

しかし現代社会では、心の問題と身体的問題とは対等でかつ不可分であることが世界的に認識されつつ
あります。

最後に、日本における現代医学においてはEBM(科学的な証拠に基づく医学・医療だけを正規のもの
のと認めており、中国の「東洋医学」やインドの「アーユルヴェーダ」などの非西洋医学、あるいは伝
統医療、民族医療を正規の医療とは認めていません。

私は、西洋医学的な現代医療と並行して東洋医学(具体的には針灸)の治療を30年ほど受けてきまし
たが、両方の治療の良さを実感しています。

西洋医学の方が優れている面は確かにありますが、東洋医学にもそれなりの利点と効果があります。

この点に関する私の見解は、西洋医学であれ東洋医学であれ、それぞれの利点を生かす「統合医療」こ
そが日本が目指す方法だと思います。欧米ではすでに統合医療は実際の医療に取り入れられています。

これと微妙に関係しているのは、医学部の教育に「心の問題」ほとんどないと同様、日本の医学部には
倫理学や宗教学などの科目がほとんどありません。

かつて私は、世界の有名大学の医学部のカリキュラムを取り寄せたことがありますが、ほとんどの大学
のカリキュラムにはこうした人間としての医師の人格に深い関係を持つ科目が置かれています。

日本では、検査至上主義が浸透していて、診察に先立って血液や様々な検査を行ない、実際の診察の際
にはそれらのデータをもとに医者が診断し治療の方向を決めることが多い。

その際、医者がパソコンの画面に映し出されたデータ(数値と画像)だけを見て患者の方を向かない、
ということが多々起こります(実は私もこのような経験があります)。

医療の原点は、医者も患者も対等な人間である、というところから出発すべきではないでしょうか?

(注1)『毎日新聞』「医療プレミアム」2024年2月10日
https://mainichi.jp/premier/health/articles/20240208/med/00m/100/005000c?utm_source=column&utm_medium=email&utm_campaign=mailasa&utm_content=20240211
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