医療革命(3)―認知症の治療と予防―
前回は、認知症にたいするケアのうち、ユマニチュードに焦点を当てて説明しました。
今回は、認知症の医学的メカニズムから治療や症状の軽減の試みについて考えます。参考にするのは、前回と同じ『シリーズ医療革命
―認知症をくい止めろ―』(前・後編)です。
認知症の中でも最も多いアルツハイマー型だけでもその原因とメカニズムは、決して単純はではなく、幾つか考えられています。
このタイプの認知症の原因の一つは、脳の神経細胞が活動する結果として生産される老廃物、アミロイドβの蓄積です。ふつうは、アミ
ロイドβは血液に排出されますが、量が多くなると血管の壁の中に入って溜ります。
血管の壁に入ったアミロイドβがやがて血管を破ってしまい、脳に栄養が届かなくなり、記憶を司る海馬の神経細胞を少しずつ死滅させ
てしまいます。
最近の研究では、このアミロイドβの蓄積は、発症の25年前から少しずつ始まり、海馬を侵してゆきます。
この状態を解決するために、本来、認知症の治療薬ではなく、脳梗塞の治療薬である、シロスタゾールは老廃物をスムーズに血管に流
す効果があることが分かりました。
さらにこの薬は、血管の働きを刺激し脳の血管からの出血を防ぎ、神経細胞、脳内ネットワークを守る働きがあります。
この薬の利用と効果に関する研究では日本が一歩進んでおり、実験では、シロスタゾールの投与で認知機能の低下が80%も抑えられ
ることが実証されました。
投薬による治療分野で、もう一つ大きな進歩がありました。アルツハイマー病の患者の遺伝子を調べたところ、インスリンをつくる遺伝子
の活性がないことが分かりました。
よく知られているように、インスリンは膵臓で造られる、糖を分解してエネルギーに変えるホルモンです。これが足りないか、ほとんど出
ない病気が糖尿病です。
このことから、アルツハイマー病とは、脳が糖を取り込めない、従って脳の活動が弱まる「脳の糖尿病」と考えられる、という発想が生ま
れました。
通常の糖尿病の場合、糖を分解してエネルギーに変えるインスリンを注射で補う方法が採られています。
しかし、脳の組織は外部からほぼブロックされているため、直接インスリンを脳の神経組織に送ることができません。
そこで、スプレイで鼻の奥にインスリン液を噴霧して脳の神経に吸収させる方法が開発されました。
鼻孔の奥には脳からの神経が出ており、ここからインスリンを脳内部に送ることができるのです。この方法はアメリカで試験的に導入され、
かなり良好な結果が出ています。
シロスタゾールもインスリンも、これまで広く使われてきた薬であり、副作用はないのが大きなメリットです。
以上は、脳の萎縮、特定ホルモンの欠乏というメカニズムから薬を使うアプローチでしたが、これらとは異なるメカニズムからのアプローチ
もあります。
アメリカでの研究で、認知症の症状である 介護拒否や暴力(行動・心理症状)は ストレスホルモンが増えると出てくる心理症状であるこ
とがわかってきました。
海馬は本来、ストレスホルモンの分泌を抑える役割をもっているのですが、アルツハイマー病の場合、海馬が萎縮してしまっているので、
その機能も低下してしまっているのです。
アメリカの実験で、体を優しく触れて、その後で唾液中のコルチゾール(これはストレスホルモン)を調べた結果、海馬が萎縮した人でも、
ストレスホルモンは減っていたことが確認されました
人に優しく触れられることで「ここちよい」状態になり、脳は気分を安定させるホルモンを分泌するようになります。
こうして、興奮が収まり、暴力や介護拒否などの症状がみられたということです。
この実験を担当したリン・ウッズ准教授は、深い思いやりをもって良い介護をすれば介護者が薬になる。介護者そのものが治療になる、
と述べています。
日本でも、ある認知症専門施設で週5回、優しく触れることを6週間続けたところ、7割以上の人が、攻撃的言動が低下し、徘徊も減った
という結果が出ています。
ところで、日本には認知症に地域全体で取り組んでいる町があります。
福岡県久山町では九州大学の協力を得て、50年にわたり住民4000人の健康調査をしてきました。
それによると、1992年には65才以上でアルツハイマー病患者は1.8%であったものが、2012年には12.3%と、6倍以上に増えています。
さらに細かくみると、糖尿病を持っている人の認知症発症率は正常者の2倍、喫煙者は2.7倍、同様に高血圧、高血糖、肥満は認知症の
危険度を上げ、運動、禁煙、減塩は下げることが分かりました。
たとえば、運動している人はしていない人より発症率が4割も低い結果がでています。
逆に、歩く速さが秒速80センチ(時速2.9キロ)より遅い(軽度認知障害)人は認知症の疑いがあります。
早歩きを週3回、30分以上行い、肉と塩分、バター(オリーブオイルに)を減らし、魚と野菜中心にすると認知症のリスクを下げる大きな
効果があります。また、散歩を趣味にすると50%減らすことができる、と考えられています。
認知症が生活習慣病という側面が分かれば、生活習慣を変えれば予防も可能であると、担当した九州大学の教授は述べています。
認知症を大きく減らすことに成功したイギリスの事例は大いに参考になります。
海外でも、イギリスでは医療の在り方を見直すユニークな取組をしています。
ケンブリッジ大学 キャロル・ブレイン教授らは、7500人の高齢者を追跡調査してきたところ、増えると思っていた認知症患者が2013
年には20年前と比べて23%も減少していたことを発見しました。
脳卒中や心臓病の予防効果で、両疾患での死亡率が40%も減ったのです。
この減少の背景には生活習慣病をなくす取組を10年間行ってきたさまざま試みや努力がありました。
もう一つ重要なことは、脳卒中、心臓病(高血圧を含む)と認知症とのが密接に関係していることを突き止めたのです。
それでは、イギリスでのユニークな試みとは、どんなものだったのでしょうか。
それは、医者の収入を、通常の治療費の他に、患者の健康を維持する取組にポイントを付け、そのポイントに見合った報酬が国から
支給される仕組みです。
例えば、45歳以上の人の血圧を5年以上計り続けると10ポイント、高血圧の人を見つけて、そのうち45%以上の人の血圧を下げる
とまたポイントが付きます。
このポイントによって国から報酬が支払われます。多い人はポイント収入だけで、全収入の15%にも達しまし。
また政府は、タバコの自動販売機を撤去し、売り場での陳列を禁止しました。高血圧対策として、塩分を1日6グラム以下にするため、
外食産業と協力し、85の食品に目標の塩分量を設定(ソーセージ、スープ、サンドイッチ)しています。
何より驚くのは、イギリス政府はGDPの1%を認知症対策に使っている事実です。日本のGDPで換算すると、約5兆5000憶円支出
(防衛費とほぼ同じ)していることになります。
これは一見、非常に高額に見えますが、発症を5年遅らせれば認知症の人は半減します。これによる医療費の削減効果も大きいので
すが、イギリスでは、これにより、一人一人の人生にとって、大きな意味をもつ、との思想がこの政策をさせています。
国の文化水準は、こういうところに現れると思います。この点に関する限り日本の文化水準はイギリスにはるかに及ばない気がします。
医療というのは、一見、科学、技術、政治的な政策の問題のように見えますが、実は、命と人生に対する深い尊厳、という哲学こそが、
その根底にある、最も重要な要素であると思います。
前回は、認知症にたいするケアのうち、ユマニチュードに焦点を当てて説明しました。
今回は、認知症の医学的メカニズムから治療や症状の軽減の試みについて考えます。参考にするのは、前回と同じ『シリーズ医療革命
―認知症をくい止めろ―』(前・後編)です。
認知症の中でも最も多いアルツハイマー型だけでもその原因とメカニズムは、決して単純はではなく、幾つか考えられています。
このタイプの認知症の原因の一つは、脳の神経細胞が活動する結果として生産される老廃物、アミロイドβの蓄積です。ふつうは、アミ
ロイドβは血液に排出されますが、量が多くなると血管の壁の中に入って溜ります。
血管の壁に入ったアミロイドβがやがて血管を破ってしまい、脳に栄養が届かなくなり、記憶を司る海馬の神経細胞を少しずつ死滅させ
てしまいます。
最近の研究では、このアミロイドβの蓄積は、発症の25年前から少しずつ始まり、海馬を侵してゆきます。
この状態を解決するために、本来、認知症の治療薬ではなく、脳梗塞の治療薬である、シロスタゾールは老廃物をスムーズに血管に流
す効果があることが分かりました。
さらにこの薬は、血管の働きを刺激し脳の血管からの出血を防ぎ、神経細胞、脳内ネットワークを守る働きがあります。
この薬の利用と効果に関する研究では日本が一歩進んでおり、実験では、シロスタゾールの投与で認知機能の低下が80%も抑えられ
ることが実証されました。
投薬による治療分野で、もう一つ大きな進歩がありました。アルツハイマー病の患者の遺伝子を調べたところ、インスリンをつくる遺伝子
の活性がないことが分かりました。
よく知られているように、インスリンは膵臓で造られる、糖を分解してエネルギーに変えるホルモンです。これが足りないか、ほとんど出
ない病気が糖尿病です。
このことから、アルツハイマー病とは、脳が糖を取り込めない、従って脳の活動が弱まる「脳の糖尿病」と考えられる、という発想が生ま
れました。
通常の糖尿病の場合、糖を分解してエネルギーに変えるインスリンを注射で補う方法が採られています。
しかし、脳の組織は外部からほぼブロックされているため、直接インスリンを脳の神経組織に送ることができません。
そこで、スプレイで鼻の奥にインスリン液を噴霧して脳の神経に吸収させる方法が開発されました。
鼻孔の奥には脳からの神経が出ており、ここからインスリンを脳内部に送ることができるのです。この方法はアメリカで試験的に導入され、
かなり良好な結果が出ています。
シロスタゾールもインスリンも、これまで広く使われてきた薬であり、副作用はないのが大きなメリットです。
以上は、脳の萎縮、特定ホルモンの欠乏というメカニズムから薬を使うアプローチでしたが、これらとは異なるメカニズムからのアプローチ
もあります。
アメリカでの研究で、認知症の症状である 介護拒否や暴力(行動・心理症状)は ストレスホルモンが増えると出てくる心理症状であるこ
とがわかってきました。
海馬は本来、ストレスホルモンの分泌を抑える役割をもっているのですが、アルツハイマー病の場合、海馬が萎縮してしまっているので、
その機能も低下してしまっているのです。
アメリカの実験で、体を優しく触れて、その後で唾液中のコルチゾール(これはストレスホルモン)を調べた結果、海馬が萎縮した人でも、
ストレスホルモンは減っていたことが確認されました
人に優しく触れられることで「ここちよい」状態になり、脳は気分を安定させるホルモンを分泌するようになります。
こうして、興奮が収まり、暴力や介護拒否などの症状がみられたということです。
この実験を担当したリン・ウッズ准教授は、深い思いやりをもって良い介護をすれば介護者が薬になる。介護者そのものが治療になる、
と述べています。
日本でも、ある認知症専門施設で週5回、優しく触れることを6週間続けたところ、7割以上の人が、攻撃的言動が低下し、徘徊も減った
という結果が出ています。
ところで、日本には認知症に地域全体で取り組んでいる町があります。
福岡県久山町では九州大学の協力を得て、50年にわたり住民4000人の健康調査をしてきました。
それによると、1992年には65才以上でアルツハイマー病患者は1.8%であったものが、2012年には12.3%と、6倍以上に増えています。
さらに細かくみると、糖尿病を持っている人の認知症発症率は正常者の2倍、喫煙者は2.7倍、同様に高血圧、高血糖、肥満は認知症の
危険度を上げ、運動、禁煙、減塩は下げることが分かりました。
たとえば、運動している人はしていない人より発症率が4割も低い結果がでています。
逆に、歩く速さが秒速80センチ(時速2.9キロ)より遅い(軽度認知障害)人は認知症の疑いがあります。
早歩きを週3回、30分以上行い、肉と塩分、バター(オリーブオイルに)を減らし、魚と野菜中心にすると認知症のリスクを下げる大きな
効果があります。また、散歩を趣味にすると50%減らすことができる、と考えられています。
認知症が生活習慣病という側面が分かれば、生活習慣を変えれば予防も可能であると、担当した九州大学の教授は述べています。
認知症を大きく減らすことに成功したイギリスの事例は大いに参考になります。
海外でも、イギリスでは医療の在り方を見直すユニークな取組をしています。
ケンブリッジ大学 キャロル・ブレイン教授らは、7500人の高齢者を追跡調査してきたところ、増えると思っていた認知症患者が2013
年には20年前と比べて23%も減少していたことを発見しました。
脳卒中や心臓病の予防効果で、両疾患での死亡率が40%も減ったのです。
この減少の背景には生活習慣病をなくす取組を10年間行ってきたさまざま試みや努力がありました。
もう一つ重要なことは、脳卒中、心臓病(高血圧を含む)と認知症とのが密接に関係していることを突き止めたのです。
それでは、イギリスでのユニークな試みとは、どんなものだったのでしょうか。
それは、医者の収入を、通常の治療費の他に、患者の健康を維持する取組にポイントを付け、そのポイントに見合った報酬が国から
支給される仕組みです。
例えば、45歳以上の人の血圧を5年以上計り続けると10ポイント、高血圧の人を見つけて、そのうち45%以上の人の血圧を下げる
とまたポイントが付きます。
このポイントによって国から報酬が支払われます。多い人はポイント収入だけで、全収入の15%にも達しまし。
また政府は、タバコの自動販売機を撤去し、売り場での陳列を禁止しました。高血圧対策として、塩分を1日6グラム以下にするため、
外食産業と協力し、85の食品に目標の塩分量を設定(ソーセージ、スープ、サンドイッチ)しています。
何より驚くのは、イギリス政府はGDPの1%を認知症対策に使っている事実です。日本のGDPで換算すると、約5兆5000憶円支出
(防衛費とほぼ同じ)していることになります。
これは一見、非常に高額に見えますが、発症を5年遅らせれば認知症の人は半減します。これによる医療費の削減効果も大きいので
すが、イギリスでは、これにより、一人一人の人生にとって、大きな意味をもつ、との思想がこの政策をさせています。
国の文化水準は、こういうところに現れると思います。この点に関する限り日本の文化水準はイギリスにはるかに及ばない気がします。
医療というのは、一見、科学、技術、政治的な政策の問題のように見えますが、実は、命と人生に対する深い尊厳、という哲学こそが、
その根底にある、最も重要な要素であると思います。