昨日こちらでも思いっきり雨が降ったせいだろうか。今宵は銀河がくっきりと見える。これだけの星座を見ると、ついなにか言ってやりたいような気分になる。これら星座は毎晩、いや昼間もそこにあるのだ。それが光や、雲のせいで見えないだけで、星々たちはいつだってそこにいるのだ。そう考えると、なんだか妙な気分になるねぇ。
辺見庸が長崎新聞に「相模原障害者19人殺傷事件」で書いている。2016年8、13。そこからの抜き書き。
「目をそむけずに凝視するならば、怒るより先に、のどの奥で地虫のように低く泣くしかない悲しい風景が、世界にはあふれている。」
「『生きるに値する存在』と『生きるに値しない存在』の二分法的人間観は、いまだに克服されたことのない、今日も反復されている原罪である。」
「他から求められることの稀な存在を愛することは、厭うよりもむずかしい。だからこそ、その愛は尊い。青年はそれを理解する前に、殺してしまった。かれはわれらの影ではないか。」
自分と言っているこれが、急になんのひょうしか、「自分」カッコ付きになることがある。そんなときだ、日頃はそんなことちっとも思っていないが、「自分」の持っている言葉がくずれていく。くずれることで、ぶんれつすることで、アタマはワカランチン状態になる。「夫婦』「親子」「自由」「平和」などなどがつうじないのだ。逆に言えばそうなることでしか、わたしにふれることができないのかもしれないね。
満月と言いたいが、はっきりとわからない。ともあれまんまるお月さんである。関東や北海道は激しく雨が降っているらしい。こちらはぎんぎらのお天気。そんななか来年水稲の床土用の山土をトラック一杯持って来て、ビニールハウスへ。しっかりと乾かしてからふるいにかけて、床土になる。そんなぎらぎらのお天気だったから、庭の鉢物たちや白菜の苗たちに水やりをひかえていた。お陽様があるあいだは、なんとなく心配なのだ。それで、夜になってからまんまるお月さんのもと、それらに水やりを。かれらもようやく一息ついたのではないか。
今回の長崎、佐世保行きもずいぶん多くの人たちと会って来た。その一人一人の残像がまだあたたかい。ここに帰っても昨日は、青年が泊まり、今日はおじさんが泊まっている。じつに人と言うのはあたりまえのごとくではあるけんど、一人一人が違うのだ。その人と出会っていると、最初はなんというかこちらの相手に対する先入観でうまっている。しかしながら、しばらくするとこちらのもっているはずの思い込みが崩れてしまう。そうやってしばらく語っていると、いつのまにかこちらが傾いている。ちゅうのんか、こちらの思い込みが外れて、いい意味で、会話がはずむ。そんな会話を待っているようなもんではある。そんなときに、ひょいと人である自分というものにふれるのである。