木村さんのこと 2

2014-12-26 21:33:50 | 日記

 そんな小屋みたいな家から出発して、細々とと言うか気に入った仕事しかしないから、家造りやら庭仕事というかそんなことからはじめて、20年も経ってみればそこはもう木村アートの世界になっている。家のなかはもちろん家の周りもみんな彼の手がかかっており、えーっというぐらいの空間になっている。杉林というのはほとんどが放ったらかしである。そこもそうだったんだ。つまり大きな枝や葉っぱが2、30㌢は堆積している。彼云く、最初はこんだけだよと手を広げてそう1メートルぐらいを徹底的にきれいにする。地面を、肌を出してやったんだ。するとそこに苔が生えてきて、それが今では3000坪あると言う辺りの大半を苔で占めているから、おおう、なのだ。そこのあちこちに彼の造ったオブジェ(たいがい不要になった機械や道具またはおもしろい形をした木に色を塗って)がさりげなく置いてある。

 77歳になった今でも、ヘビーロックを聴いている。煙草は両切りのショートピース、ヘビースモーカー。いつもあまりにそのピースをうまそうにくわえている。しかもその香りがいいものだからつい1、2本失敬して吸う。うまいのだ。けれど、もう煙草を吸わなくなってだいぶになるから途端にクラクラ来ておまけに翌晩にはもう煙草に手を出そうとはしない。それほど強い煙草だ。3日泊まった。最初から今度行く時は、チェンソーを持って行って、木を切るのを手伝うつもりでいた。だからどこかへ呑みに行こうぜや、温泉に行こうも断ってひたすら木を切ったから、だいぶ切れた。適当に細かく切ったから、彼云く一冬分たき火することできると言うていた。

 毎晩のようにお酒を呑む。一晩で2人で一本呑んでいたらしい。もっぱらこちらは聞き役で、奥さんのはるみさん(この人がまたできた人、明るい、テキパキ手際がいい。彼女もデザイナーで、彼のマネジメントも)に言わせるともう最近人に会うのがおっくうらしく、ほとんど仙人状態らしい。そんななかでもニューヨークで音楽をやっているアメリカ人がやってきて、はしゃぐらしいが。そんな彼が先日どうしてもとせがまれて、高校の同窓会に顔を出したらしい。おれね、そこに行ってからひと月なんにもすることができなくなって、落ち込んでいたんだと。50何年ぶりで会う面々、誰が誰だかよく解らなかった。ともかくみんな77歳で、病気の話、老後の話で、おれも自分では粋がっているけれど、端から見ればあーなんかなとおもったら、なんかやりきれなくなったんだ。と。いやはや、木村さんあなたを見て外の連中がびっくりしたんとちがうんかな。と言ってはいたけれど。彼の気持ちもよくわかるよ。

 なんだかね、ぼくより13も上なんだけど、呑んで語っていると彼は少年でいつでも熱いんだ。ぼくなんぞ中学の時からおっさん顔だから、いまだにじまっとしているばかり、けんどなんかね何をしゃっべったかというのなんにも残っていないんだ。だけどこちらのこころがふるえている、あたらしくなっているようなそんなエネルギーがいつのまにか入っているんだな。人っておもしろいね。  木村アートスタジオ

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木村さんのこと

2014-12-25 20:46:42 | 日記

 先日三重県の名張に行った。そこにグラフィックデザイナーの木村さんがいるのだ。木村さんとのご縁はほとんど奇跡的なものに近い。あるところのパーテイー会場で知り合ったからだ。そうこのぼくがだいたいパーテイーなどという場に出たことが無い。あるのは身内の結婚式ぐらいだからである。だいたい葬式や結婚式もなるべく出たくないと思っているものが、そんな晴れがましい席にいて、所在なげにふてくされたようにいるのは自分でもよく解る。その時も独特の喧噪の中におりながら、そんななかに入り込めず、独りお酒をちびちびと呑んでいたのだ。すると一人のおっちゃんがそばに来て、日本酒呑んでるね、と言うてきた。ぼくも日本酒を呑みたいんだ。とかいうて来たんだと思う。こちらも独り退屈を持て余していたから、杯を重ねている間に、すっかり意気投合、その日の晩は結局彼の家まで行き、朝方までなにやら語り尽くしたらしい。聞けば、そうとう名の売れたデザイナーだという。こちらはそんなことにあまり興味もないからだろう、彼にすればおもねいたかんじがないから安心したのであろうか。大阪では社員もたくさん使って、大きな仕事をしていたそうな。それから東京に進出、けれどだんだん名前だけで仕事ができるようになり、高級外車、邸宅に住んで贅沢な暮らしをしたらしい。しかしそれが一向に面白くない。やがて鎌倉に引っ込み、社員も解雇して、個人事務所にしたとか。その時から、もっと山奥に入りたいと色々探したあげく現在地に。もう20年ほどまえのこと。名張の町まで車で15分ほどなれど、村の一番奥のきわまったようなところ。戦前は段々田んぼに切り開いたところ。だけど戦後無用の場所になり、杉を植林。その杉もその後誰も世話をしないままのところ。つまり間伐も手入れなども全く入っていないため、杉がやたら高い。通常10から15メートルとすればその倍はあろうかという高さ。密植して植えたままなれば、風が吹けば杉同士がこすれあって、それで枝打ちされるから、枝はほとんどてっぺん近くにだけあることになる。そんななかにある画家がそこにアトリエを造ったとか。その家を借りて住み始めたらしい。写真を見せてもらうと、ほとんど日も当たらない粗末な小屋のような家があるだけ。60になる手前だったという。  うん、なんだか長い話になってしまった。つづきはあしたにしよう。

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糀造り

2014-12-24 20:47:59 | 日記

 年末恒例の糀造りである。朝から竃にはりついて燃やしている。毎年同じように仕事ができるということがなにやら有り難い。原料のお米75キロ、5斗分である。臨時に衆寮の部屋に糀室を造って、蒸したお米に糀菌をつけてそれから湿気と温度を加えて糀かびをはえさせるのだ。これができると、味噌造り、どぶろくとそれから漬け物をと糀の活躍は多い。

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春日大社

2014-12-22 21:17:45 | 日記

 春日大社の御祭りが毎年12月16日に開かれていると言うことを、知ったのはつい先達日である。そういえば以前にテレビで観て、おおう、こんなんあるんかとえらい感動したこともその時思い出した。それはもう少し詳しく言うと、春日大社のなかの若宮神社というお宮があり、そこの神様は芸能の神様であるとか。この時期お日様が1年で一番弱まる時、神様の力も弱くなるとか。そこで、神様に一の鳥居に造った仮御殿まで移られてそこで神楽などの芸能を見せて力を与えるとのこと。日にちは16日深夜つまり17日の0時から18日0時までの帰られる間、披露されるとのこと。したがって私たちが観るのは後ろからということになる。

 なによりも圧巻は神様をお連れする儀式である。頂いたご本には、オオカミのうなりとともに神様は来られたとあるが。本殿からお連れが到着する前に二の鳥居のところで寒さに震えて待っている我らに対して神官の説明があった。「これからもうしばらくすると神様が通ります。今から社務所や街灯の電気いっさい消えます。神様は人口の明かりを嫌いますから、カメラ、懐中電灯の光は禁止です。これは本来ならば秘儀中の秘儀でありますから、みなさまもどうぞご一緒に(見物ではなく)お見守りください。と、こう言われるといやがおうでも盛り上がる。ちなみに観衆はしかと解りませんが、何千人ぐらいでしょうか。二の鳥居から先は入ることができないためその前の道の両端に息を沈めて、暗闇のなかで耐え忍んでいる。そこに2本の太い松明を地面に引きずりながら、道を清めているのでしょう、その明かりがぼぉーと遠くに見える。と同時にまさしくオオカミが鳴くごとく、おおおぅと太鼓の音も聞こえる。それらに引きずられるようにして、身を乗り出すようにして待ち構えていると、やがてその姿が目の前を通る。榊をかかげ持った白装束の神官50から70人がその雄叫びとも唸りともつかぬ荒声を発しながらしずかに、なれど榊のふれあう音もするどく。その一団のなかに囲まれて神様がおられることは必定。そのあとにつづいて、笛、笙(だとおもわれる)太鼓が続き、それから社中の面々が2百人ほどか、続いて。はい、待っていたのは2時間ほどなれど、実際に通りすぎるのはほんのわずかな時間。その長い行列のあとにつづいて、われら参詣のものも行列に加わった。寒さに震えながら、この行列そのものがもう神様のすがたになってしまっているなぁなどと、おもいながら。

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飛鳥

2014-12-21 18:21:00 | 日記

 飛鳥と言う字は、こうも書く明日香とも。いずれにしろ、アスカと聞くだけで何やら古大ロマンのイメージがひろがっているから、不思議なものである。最初は明日香に行くつもりはなかった。なれど、奈良、三輪と巡っている間にもう一つの場所、そう明日香を訪ねたいと。急遽行った。この日は午前中、三輪山に登拝した。天気予報は雨だったが、山に入っているあいだは、しばし待っていてくれた。けれど、明日香に向かう頃より雨がまた勢いを増し、遅い昼食を済ませた頃は本降り状態だった。そんななかでのあの石組み、正しくは古墳のお墓の内部、それは蘇我馬子の古墳らしい。そう、ここ明日香は蘇我一族が開いたところ。聖徳太子もここで活躍された場所。この石組み、写真などでは見たことがあった。実際にそこにたどりつき、一辺が3メートルもあろうかと言う大きな石、それらが見事なくらいに、組み込まれていてお墓の原型がむき出しになっている。おそらくはその場所ぜんたいが古墳だったのだろう。そして(蘇我氏のもの故)盗掘や戦火にもあったのだろう。血なまぐさいあとかたなれど、それらは風雨にさらされてその面影は無くただ見事に組まれた巨石が、異様な姿ではなく、風景となってそこにあった。

 飛鳥資料館が近くにあり、たいそう立派なもの。ここでもつい時間を費やしてしまった。高松塚古墳の壁画のレプリカなども展示してあり見応えがあるのと、こちらがこれらのことについて、ほとんど知らないことにあらためて驚く。はい、ほんとなんにも知らないことばかりなのだった。

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