goo blog サービス終了のお知らせ 

 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

2500日となった

2012年10月16日 | 築地市場にて

築地の漬物の話を書き出して今日で2500日となった。6年前は築地の移転の話もあったが実際どうなるか行方もわからない状況だった。今では色々なところのセールスマンが引越し需要の下調べのために築地にやってくるようになった。
 ただ今のところ,セールスの人たちに取材すると水産部仲卸の人たちの準備状況が聞こえてこない。まだかなり先の話と捕らえているようだ。
 築地市場の外でも、朝日新聞の隣にあった国土交通省のビルもいつの間に更地となり、歌舞伎座新築工事も予定通り建設が進んでいるようである。近所の風景は日に日に変わり、市場移転後の風景となりつつある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワイキキにて

2012年10月16日 | 宅老のグチ
今この原稿をワイキキのホテルで書いている。羽田でipodのwifiを借り出し使っている。実に快適に動く。ホテルのwifiもあるのだが持ち出して使うには不便。一日千円ほどでios6にしたのでsiriが使えるようになった。
時差の関係で火曜日が休みのビショップミュージアムを訪問する。日本語のガイドがあり簡単にハワイの歴史を知る。本当は捕鯨の歴史を知りたかったのだが捕鯨の歴史博物館はオアフ島にはない。ハワイの歴史で伝染病の怖さを知る。明治初期の日本人移民の理由はハワイの人口が伝染病で減ったため、砂糖生産のため移民した歴史がある。余談だがコロンブスが発見したキューバ付近の原住民は一時伝染病のため、絶滅したという。キューバの国の学校用の歴史書に書いてあった。つまり今のキューバ国民はコロンブス以前に住んでいた原住民の子孫ではないこととなる。
ハワイの捕鯨基地はペリー来航の大義名分となっていた。アメリカの人達の灯火のための油を鯨からとっていたのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳橋料亭の逸話

2012年10月15日 | 福神漬
静岡事件の全貌 村本 喜代作
福島事件 21頁
花香恭次郎は美男で雄弁で滔々と(藩)閥族政府を暴状を攻撃するので、毎日(高等法院)の公判傍聴人が殺到し、柳橋周辺の花柳界ではすばらしい人気で、未決監には美人連中の差し入れ物が絶えなかったと言う。

今では柳橋の料亭は消えたが相撲の横綱審議会が開催されている料亭亀清楼の伝説で福神漬が外国に行くとき持って行く食品として女将から推薦されていた。(故宮沢喜一首相の若き日の渡米前の亀清楼での逸話)
 明治の初めの花柳界は新橋と柳橋が一流であった。新橋は鉄道の駅も近く、実業家、政治家などの利用が多く、芸者さんも政府よりの支持が多かった。しかし日本橋区に当たる柳橋は江戸の気風を残していて、粋、洒落、通とかのことが好まれていた。金の力で体を売ることは良しとしない気風がまだ明治17年頃は残っていたようだ。後に書かれた芸者さんの本では『近頃の若い者は芸を磨くより、云々』と嘆いていた。昔も今も年よりは若い人たちに不満があるようだ。当時の芸者は今の感覚では芸術家と思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鳥羽伏見の戦い後、東征軍の大垣長期滞在。

2012年10月14日 | 福神漬
岐阜県史 通史近代上
維新激動期の美濃と飛騨
維新激動期の美濃の政治的重要度が飛騨と違っていた。美濃の地域は名古屋藩が12万石、ついでに大きい藩が大垣藩で10万石、中小藩、旗本等の領主支配されていた地域だった。
 鳥羽伏見の戦いで勝利した朝廷政府派は江戸に進軍するに当たり、美濃の地から軍費を賄う必要性があった。そこでいち早く美濃へ進軍した赤報隊の『年貢半減』布告は朝廷の方針と相反する行動となり否定されることになった。
 美濃への朝廷側に付くように名古屋藩徳川義勝は佐幕派家臣を処分し、藩論を統一し、近隣諸藩にも積極的勧誘を行い,勤皇誓書をまとめ、朝廷に提出した。1月20日に京都を出発した東征軍は2月20日まで大垣で体制を整えていた。この大垣での長期滞在で戸田家と東山道鎮撫総督岩倉具定(具視の次男)の関係が出来、後に岩倉具視の次女極子を大垣藩主戸田氏共の婚約者とした。

福島事件被告人花香恭次郎が花香家の親族から『公家の若様』を養子にもらったという言い伝えがあった。公家とは岩倉家を示しているのではないのだろうか。大垣藩の美濃の分家で深坂戸田家がある。幕末の当主戸田氏栄は花香恭次郎の父である。
出典 香取民衆史10 香取歴史家協議会
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三菱の発祥と不動産業

2012年10月13日 | 福神漬
 借り出した本を見直し
丸の内百年のあゆみ 上巻-三菱地所社史から
三菱地所株式会社社史編纂室編
三菱は(当時は九十九商会)明治3年(1870)年11月東京支店開設のあたり東京日本橋南茅場町18番地の土地家屋を購入した。この地は関西からの酒等の荷揚げの河岸地であった。現在でも酒関係の業者の会社が付近にある。(清酒白雪の小西酒造東京支店)
 三菱社誌によると貴川田儀八から明治3年11月土地家屋、12月小西惣兵衛から家屋、明治4年11月貴川田儀八から土蔵1棟、明治6年金子家吉、明治7年戸村善兵衛、林兼三郎、明治9年金田吉兵衛ほか、明治10年福島長平から次々と南茅場町の土地を購入している。
 東京都中央区京橋図書館に所蔵されている明治6年と明治9年の沽券図と台帳では南茅場町18番地の所有者は小西利右衛門となっている。名義の変更はしていなかったのだろうか。
 福島事件被告人花香恭次郎は父花香恭法の開業する南茅場町の商店に帳簿を管理する仕事をさせていたが素行が良くなく、明治5年5月横浜の商社へ飛ばされた。つまり三菱が東京支店を購入したとき、花香恭次郎は同じ町内で慣れない仕事をしていた。また南茅場町46番地には原胤昭の名義の不動産がある。
 明治16年福島事件判決後、原が田母野、花香、平島等の肖像を書いた浮世絵(絵小林清親)を配布したのは単なる義憤ではなく、花香青年を同じ南茅場町内で一時働いていたことを知り出版したと思われる。

 日本郵船は明治18年発足したとき、本社として南茅場町18番地となっている。郵船のカラーライスと福神漬のエピソードの後ろにこの様な事情が隠れていた。東京海上火災保険も南茅場町の地が発足地となっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古賀謹一郎

2012年10月12日 | 築地市場にて

古賀筑後という人がいた。木村芥舟日記に出てきた人だった。慶応3年12月30日日記に差し押さえられていた福沢諭吉のアメリカでの購入図書を解除するため,木村が福沢のために上申書を出す相手だった。 古賀は小伝間町牢獄にいた堀達之助を開放するために努力した人だった。当時小伝間町牢獄では釈放される寸前の堀と処刑される寸前の吉田松陰が居た。彼ら二人は浦賀と下田で同時期を過ごし、又牢獄でも同じ空気を吸っていた。古賀謹一郎は今では殆ど無名の人物である。
さて郡山駅付近にある安積国造神社を訪ねて廊下にあった安積艮斎の経歴を見ていると、ペリーの国書を翻訳したメンバーの中に古賀茶渓という人物がいた。古賀筑後,古賀茶渓,古賀謹一郎は同一人物である。古賀が設立にかかわった幕府の洋学所は今の九段下の昭和館のあたりという。隣には井関家があったはず。また昭和館は大坂町奉行旗本新見家の跡地と重なる気がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築地市場外のトンネル工事で

2012年10月11日 | 築地市場にて

今週に入って浜離宮前の新大橋通りがトンネル工事とかで車線が狭くなった。めったに混まない通りが急に混むようになった。特に深夜のトラックは急変した道路事情で困惑しているという。あと3年ほどこのような道路事情が続くようである。また築地市場の大口顧客離れが促進される気がする。
 電通前から築地市場の下を貫通するトンネルはかなりの大がかりの工事で高速道路は切断され、これから以前より高い所を高速道路が通るという。下水の移設工事からと考えるとすでに10年工事をしている気がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大原幽学記念館で

2012年10月10日 | 福神漬
大原幽学記念館で
もう4年ほど前だった、大原幽学記念館に行った。そこで花香恭次郎のことを調べることが狙いだった。ゆっくり館内を巡って房総の和算とか大原幽学のことの展示を眺めていた。そこには天保水滸伝のこともあったが当時は幽学も浪曲も余り福神漬には関係はないだろうと無視していた。
大原幽学と飯岡助五郎-遊説と遊侠の地域再編 高橋敏著から
飯岡助五郎は今の横須賀の出身で、千葉飯沼で干鰯、魚肥などの仕事で人望を集めていた。彼が東浦賀で干鰯が有力な産業であることを知っていて飯沼に行ったと思われる。木綿の元になる綿栽培には多量の肥料が入り、九十九里の干鰯魚肥は有力な産業であった。さらに和歌山から千葉に渡った漁民によって関西の進んだ漁法が伝わり、漁獲高があがったと言う。天保水滸伝ではライバルとなる笹川繁蔵も同じく和歌山から来た人たちによって、千葉東庄の醸造業が発展し、金銭的に潤い賭場が盛んであった。下級幕臣の組与力と旗本によって細分化されていて支配されていた銚子周辺では治安維持の取締りの力も弱く、飯沼助五郎に治安維持の権限を与えるしかなかった。そこに大原幽学の悲劇がある。農民がまともな生活を送ると賭場に出入りすることが少なくなる。
 九十九里の海岸から離れた房総半島の中ほどに万歳村がある。そこに和算家の花香安精がいた。大原幽学や飯沼助五郎と同時代である。
 万歳村は安中藩の領地で花香家は安中藩への御用金負担したことで士族となったようである。また房総の地は江戸町奉行所の与力領、同心領があり(与力給知)、何らかの付き合いが明治になってもあったと思われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斜陽のキムチの宗主国

2012年10月09日 | キムチ
キムチの最近の統計から
韓国への中国産キムチの輸入急増が続き、韓国のキムチ輸入が輸出(殆ど日本向け)を金額ベースで上回ったことが10月8日、農水産食品流通公社の資料で明らかになった。
 同公社が国会に提出した資料によると、2011年の中国からのキムチの輸入額は1億2090万ドル(約95億円)で、2011年のキムチの海外への輸出額は1億460万ドル(約82億円)と、11年の輸出の80%以上は日本向けだった。日本向けキムチの殆どが日本ブランド(韓国製造)で韓国のブランドのままでは販売されては少ない。また日本産キムチは在日の人の分を含めなくても570億円以上ある。また中国産キムチが日本へ30億円ほど入っている。
 キムチの宗主国の地位もウォン安のためでいずれ日本の寿司ガリが世界で円高で日本産が消えて、中国産になったように韓国産キムチが消え、中国産キムチが世界中の広がるのも近いだろう。韓国農家を無視した政策がキムチの国を過去の思い出の味となるだろう。
 なぜ韓国でキムチの輸入が増えたかというと韓国の食堂ではキムチは無料で提供されているので不景気で価格の高い韓国産を提供する余裕がなくなった。すでに中国は韓国向け、日本向けの輸出を合計すると130億円弱となり、世界一のキムチ輸出国となる。これは韓国にんにくの関税政策の失敗である。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治改暦

2012年10月08日 | 福神漬
明治改暦-「時」の文明開化-岡田芳朗著
明治の活版印刷の発展を調べていたら、暦の改変で明治政府から印刷需要が急に増え、業界発展の基礎を作ったということからこの本を読むこととなった。今暮れにカレンダーを大量に配布する習慣は江戸時代からの農暦のための習慣から始まったようだ。特に伊勢信仰を広める伊勢御師が配布した伊勢暦が良く知られている。
 明治の改暦には神道普及の動きと暦の改変による、明治6年の伊勢暦が無駄となった裏事情がこの本で理解できる。明治5年12月は2日しかなく太陽暦採用ですぐに明治6年となってしまった。この急な事情で大量に暦を刷ることから活版印刷に需要がいったという。政府の大量印刷から活版印刷の創立期の需要不足の問題が解決されたが、間もなく政府が印刷業務を行い、再び苦境になったという。この苦境が解決されたのは西南戦争報道による新聞の普及がある。

明治16年頃、梅亭金鵞が江戸時代の戯作本を再出版した経緯は木版技術者が次第に活版印刷に押されたことと貸本屋数の急増により再出版の余地が生まれた。『妙竹林話七偏人』には池之端の香煎茶屋が出てくるので酒悦主人は漬物の命名を依頼したと思われる。当時の宣伝文を書くのは戯作者か新聞記者が多かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鯖サンド

2012年10月07日 | 築地市場にて

ととの日記念で築地市場内で魚祭りをやっている。あいにくの雨で昨年より人出は少ないようだ。築地のB級グルメというべき鯖サンドで今日の昼飯となる。
焼いた鯖とフランスパンのようなパンにスライス玉ねぎ、スライストマト、レモンを加えたサンドである。油の乗った築地の鯖は意外とうまい。
 今日の出店で一番行列の長いところは「あんこう鍋」のところだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今から40年ほど前の話

2012年10月06日 | 築地市場にて

今から40年ほど前は漬物業界も元気であった。特に北海道の新漬沢庵は大阪市場をはじめ全国の漬物専門店でよく売れていた。沢庵の辛みとサッカリン等の人工甘味料を使いさっぱりとした甘味で売れていた。
 札幌にあった沢庵メーカーは結束機を使い沢庵のタルの蓋を抑えていたが、北見のメーカーは釘を使って、蓋をタルに付けていた。同じ北海道なのにどうして結束機を使わないのかと尋ねたら、故障したとき北見へ来る出張費が高くてまだ使えないと言っていた。
 中国の漬物工場も昔は同じであった。機械が使うことができなかった。故障したとき部品の手当とか出張して修理するまでの時間がかかり、機械導入より人を雇う方が簡単であった。最近の人権費の高騰から中国の漬物業者も機械化を図っているようで修理も現地化されてきたようだ。多分彼らも日本離れとなって中国国内向けの食品業者に転換してゆくだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加工用農産物に補助金増額を

2012年10月05日 | 築地市場にて

戦後の農政は過去の歴史の反省から、生産者(農民)保護に手厚かった。今国産のクズ米の値段が上がっているという。飼料用のコメより、加工用米の生産補助金が少ないという。今度のO157の事件で今でも白菜価格は低迷している。これから全国の浅漬け業者が殺菌機械を導入することとなるが漬物組合を通して補助金が必要だろう。また政府は新規の規制情報を組合に情報発信しなければいけないだろう。良心的な地場産業の漬物が活性化しなければ地方の雇用が増えないし、鍋需要のない夏場の白菜価格は長期低迷するだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

給与が30%上がった

2012年10月04日 | 築地市場にて

中国大連にある漬物関連メーカーより商品値上げの案内がきた。ここ2年で外資の優遇策の廃止や、諸手当が40%ほど上がり、さらに今年は人件費が前年比25から30%ほど上昇したと言う。人件費に関しては来年も上昇する見込みがあるので、商品価格をやむ得ず値上げしなければならないと言う。
 今日来たメーカーの話だと、以前の女性の工場要員の定年は21歳くらいだったが今では人手不足で平均年齢が31歳になって、給与が10年ほど前の10倍となっていると言う。これは高給といわれていた中国北京の外資系に勤めていた人の10年ほど前の給与と同じくらいだと言う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高島嘉右衛門のメモ

2012年10月03日 | 築地市場にて

高島嘉右衛門が石川島監獄にいるとき、元嘉右衛門の手代平兵衛が嘉右衛門の姉を妻とした。嘉右衛門の姉は大垣戸田藩の側室の一人で戸田欽堂を生んだ人だった。
 江戸時代の牢獄は差し入れによって扱いが差別されていた。嘉右衛門への差し入れは戸田藩の援助あり平兵衛よって、命が長らえた。吟味与力と労役人に出入り扶持をワイロとして渡し、高島嘉右衛門を庇護したという。

 鳥羽伏見の戦い以後、藩論を京都政権の転向した大垣藩は忠誠の証として征東軍の先鋒にさせられた。大垣藩兵は関東の野州小山での大鳥圭介の隊と衝突し苦戦し、弾薬が尽きた。入牢中の面倒を見ていた大垣藩市川元之助、宮島信吉は高島嘉右衛門のところで行き、居留地の蘭人タックから3万ドルを借り軍費にあてたという。この時の通訳が森山多吉という人だった。(文献には見当たらないが森山栄之助・多吉朗と同一人物なのだろうか)
 大垣藩主戸田氏正の4男として生まれた戸田欽堂の母は高島嘉右衛門の姉だった。離縁の理由として考えられるのは高島嘉右衛門の罪状だろう。幕府の為替管理を犯した罪は戸田藩に及ぶ恐れがあったので離縁させられたと思える。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする