自由民権と福神漬
自由自治元年の夢-自由党・困民党 井出孫六編著
明治15年福島県に三島県令が任命されたころ、結成間もない自由党党首板垣退助が海外視察に出かけた。このことは明治15年9月初めから改進党の機関誌で、渡航費の資金先が三井の金と疑いをかけられ、9月半ばころから自由党の内部で混乱を招いた。と同時に自由党は改進党が三菱の資金で援助を受けていると論戦を張り(海坊主退治・偽党)、泥仕合となった。この結果民権派が弱体し、過激な自由党左派が暴走し、自由党が解散せざるを得なくなった。
これらの歴史に福神漬の命名者である梅亭金鵞が絡んでくるのであるがどちらかといえば評論家のように冷静に風刺していた。團團珍聞の社主野村文夫がこの頃改進党に入ったのでどちらかといえば自由党には厳しい態度が見えていた。
さて「自由自治元年の夢」の本の中で三井がどの様なやり方で板垣に海外渡航費を提供したか書いてあった。これは1964年までまだ詳しい内容が知られていない事実であったようで、三井銀行の三野村利助(三野村利左衛門が明治10年に亡くなり、利助が養子となっている)が蜂須賀公に二万ドルほど提供したという。板垣は蜂須賀公の個人資金を提供されていたのでこの事実は知らなかったようである。三井は明治政府に軍の御用金取り扱いを延長することを条件に蜂須賀公に資金を出した(つまり明治政府が密かに三井を通して板垣に資金提供した)という。この板垣洋行計画を立てたのは明治憲法制定の役目をしていた伊藤博文の腹心井上馨(いのうえ かおる)だった。情報が漏れていったのは最初板垣に資金提供を依頼したのは三菱に対してだったという。しかし三菱は断ったため三井に話が行ったという。
三菱に資金提供を断られた井上は渋沢栄一とともに半官半民の共同運輸会社を設立し、三菱汽船と激烈な競争をするようになった。三菱の岩崎弥太郎が死去した後。共倒れを恐れた政府は日本郵船を発足させた。この時の仲立ちの陰の立役者が料亭横浜富貴楼のお倉であったという。
この時期に福神漬が何が日本郵船の社史に載るような印象的な関係があったのだろうか。とにかく福神漬は明治10年代から色々工夫して作られていたが梅亭金駕によって命名されたのが明治16年から18年半ばの時期である。丁度自由民権運動・松方デフレ等があった頃である。単なる漬物に梅亭金駕が寓意を入れた命名をしたとしてもおかしくない時期だった。
自由自治元年の夢-自由党・困民党 井出孫六編著
明治15年福島県に三島県令が任命されたころ、結成間もない自由党党首板垣退助が海外視察に出かけた。このことは明治15年9月初めから改進党の機関誌で、渡航費の資金先が三井の金と疑いをかけられ、9月半ばころから自由党の内部で混乱を招いた。と同時に自由党は改進党が三菱の資金で援助を受けていると論戦を張り(海坊主退治・偽党)、泥仕合となった。この結果民権派が弱体し、過激な自由党左派が暴走し、自由党が解散せざるを得なくなった。
これらの歴史に福神漬の命名者である梅亭金鵞が絡んでくるのであるがどちらかといえば評論家のように冷静に風刺していた。團團珍聞の社主野村文夫がこの頃改進党に入ったのでどちらかといえば自由党には厳しい態度が見えていた。
さて「自由自治元年の夢」の本の中で三井がどの様なやり方で板垣に海外渡航費を提供したか書いてあった。これは1964年までまだ詳しい内容が知られていない事実であったようで、三井銀行の三野村利助(三野村利左衛門が明治10年に亡くなり、利助が養子となっている)が蜂須賀公に二万ドルほど提供したという。板垣は蜂須賀公の個人資金を提供されていたのでこの事実は知らなかったようである。三井は明治政府に軍の御用金取り扱いを延長することを条件に蜂須賀公に資金を出した(つまり明治政府が密かに三井を通して板垣に資金提供した)という。この板垣洋行計画を立てたのは明治憲法制定の役目をしていた伊藤博文の腹心井上馨(いのうえ かおる)だった。情報が漏れていったのは最初板垣に資金提供を依頼したのは三菱に対してだったという。しかし三菱は断ったため三井に話が行ったという。
三菱に資金提供を断られた井上は渋沢栄一とともに半官半民の共同運輸会社を設立し、三菱汽船と激烈な競争をするようになった。三菱の岩崎弥太郎が死去した後。共倒れを恐れた政府は日本郵船を発足させた。この時の仲立ちの陰の立役者が料亭横浜富貴楼のお倉であったという。
この時期に福神漬が何が日本郵船の社史に載るような印象的な関係があったのだろうか。とにかく福神漬は明治10年代から色々工夫して作られていたが梅亭金駕によって命名されたのが明治16年から18年半ばの時期である。丁度自由民権運動・松方デフレ等があった頃である。単なる漬物に梅亭金駕が寓意を入れた命名をしたとしてもおかしくない時期だった。