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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語82戸田欽堂

2010年02月02日 | 福神漬
福神漬という商品名は戯作者梅亭金鵞が明治16年から18年にかけて命名したものだが単に谷中七福神をから命名したのだろうか。調べると色々な疑問が出てくる。

戸田欽堂1850-1890(嘉永3年-明治23年)
明治13年6月我が国最初の政治小説『情海波瀾』を著した、
民権演義 情海波瀾 戸田欽堂著 住所北豊島郡下駒込村931番地

 戸田欽堂は、父に大垣藩主戸田氏正、行儀見習いで戸田家に奉公していた高島嘉右衛門の姉を母として生まれた。戸田伯爵の系列にありながら、一方で明治初期の豪商高島家の血筋をひく恵まれた境遇にありました。
明治4年渡米し、洗礼を受けるがすぐに帰国。築地の英語学校で伝道、出版、教育に励んでいたカローザス夫妻、原胤昭、鈴木舎定、田村直臣、戸川残花等と知り合う。
銀座でキリスト教関係の書籍を販売する店を開いた。時代はまだキリスト教を解禁して間もない時だったが殆ど採算が取れていなかったので戸田欽堂の資金が必要だったと思われる。
 欽堂はその後も国会開設建議の草案を書いたり、また各種の新聞で自由民権運動の論陣を張ったりと、華族出身の民権運動家として活躍します。戸田家としては厄介な人物であったようです。当時、小説家(戯作者)などは身分の低い人達が行う仕事とみられていました。
政治小説『情海波瀾』の中に佐倉義民伝の話があります。佐倉義民伝は幕末から講談・浪曲・歌舞伎などでも積極的に上演されていました。 福沢諭吉(学問のすすめ)や自由民権運動活動家は、彼らの主張の先駆者として惣五郎をとりあげてあったため戸田の民権小説に佐倉義民伝の評論が入っていったと思われる。
 キリスト教の伝道と自由民権運動に力を注いだ戸田欽堂でしたが、酒のため41歳という若さで亡くなります。明治23年8月に花香恭次郎が亡くなったとほぼ同時期に横浜の高島別邸で亡くなりました。

佐倉義民伝 
千葉県佐倉の藩主堀田上野介は悪政をしたため、領内の農民が困窮し、飢餓に瀕した。その時印旛郡の名主木内宗五郎が訴えるが取り上げられず、最後に将軍が上野寛永寺に参拝する時、不忍池から流れ出る川に架かっていた上野三枚橋の下に隠れ、見事将軍に上訴したが宗五郎一門は極刑となった。この後堀田上野介は宗五郎の怨霊によって死んだという。
 福神漬の命名に関して影響のあるのは明治17年市村座『東叡山農夫願書』九代目市川団十郎主演が考えられる。また戊辰戦争時、花香恭次郎は一時佐倉に避難していて、どの様な教育を受けたのでしょうか。幕末佐倉藩留守居役だった依田学海は佐倉義民伝のような事実はないと明治になって憤慨していました。学海日録より
 自由民権運動弾圧の象徴となった福島県県令三島の圧制が佐倉義民伝を思い出させていたと思われる。

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