年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

今日のことは今日決まる

2020年08月07日 | 宅老のグチ
今日も昨日も朝の犬の散歩のおねだり声から始まる。体調をみる。競馬の馬体の様子みたいに。まず犬の食欲と外出態度。散歩中の行動。リードの引っ張り具合。そして途中の尿とウンチの様子。固まり具合と量を確認。採取する袋で硬さの確認。すでに10歳を超えているので夏は熱中症に注意。水の飲み具合。散歩に行くといきなりハアハアとなる。
 そして家のカレンダ-確認。今日の予定のダブりと増えてきた宅配受領時の在宅人の配分。コロナで宅配が増えた。
 新聞記事でワクチンの情報摂取する。どんな事を政府やマスコミが言っても、今は運の世界となって、感染するしないは運で、感染確率を下げる行動と自分がクラスタ-の発生者とならないためアリバイ証明の記録を2週間書く。
 自動的か上書き機能のある2週間の位置情報アプリがあったら良いのに。
過去の投稿の修正。昨日もIHI創業者平野富二の名前を間違えた。訂正する。でもIHIがなぜ福神漬に出てくるかは誰も知らないだろう。ぺーリーが浦賀に来て、その年の暮れに水戸藩が今の石川島に造船所を作った。この技術指導援助をしたのが浦賀与力だった中島三郎助や浦賀の人たちで水戸藩の攘夷思想と中島の積極開国とは思想が異なるのであまり研究が進んでいない。
 中島の西浦賀の塩仲間への支援は水戸藩の力が必要だった。この資料は中島三郎助文書の付属書類に出てくる。水戸藩の旗の使用の了解を得て、浦賀の塩業者が株仲間の再興後に復活した。当然浦賀の海岸防備の金は東浦賀の干鰯問屋の上納金だけでは間に合わなかった。西浦賀は塩問屋で天保の株仲間解散で困窮していた。
 維新後、中島三郎助の顕彰をしたのは浦賀の塩仲間であった。塩仲間は浦賀に造船所を作った。今の京急浦賀駅前の工場はその跡地である。石井研堂の明治事物起源(缶詰の始まり)の漬物商人の行徳・喜平衛は中島三郎助と函館の千代か岡陣屋で同じ日(明治2年5月16日・1869.6.25)に戦死している。ペリ-の来航から始まった戊辰戦争は中島三郎助の死で終わった。石井は明治事物起源の維新の大筋を缶詰の始まりに込めたので、史料としての誤りが多すぎて、歴史学者から無視され、コラム扱いとなってしまった。
 浦賀の塩仲間は日清・日露の戦費を賄うために、塩専売が始まり、消えた。
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