年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

江戸時代の長崎の砂糖貿易

2022年01月09日 | 福神漬
べったら市から江戸本町に集積していた薬種問屋が、薬種の一種だった砂糖がふえ、砂糖の専門の問屋が本町の隣の町に発展した。
 多くの長崎貿易の記録はオランダの記録が残っていて、中国船貿易の記録も少なく、日本人の研究者も少なく今に至る。砂糖交易はオランダが1とすれば中国は2の比率のようで記録はなかったが、オランダと中国人との情報交換をしていて制御していたと見られる。初期の貿易の中では砂糖の入っている竹籠は航海の時のバラスト(重石)の役目で積載されていた。唐人は江戸初期に宇治に寺院を創った隠元に余った砂糖を寄進し、京都の茶道・菓子文化の発展に寄与した。
 黄檗山萬福寺は1661年に中国僧「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」によって開創されました。 
政治の中心が江戸に移ると、砂糖の日本の交易の道は江戸城内の大奥に繋がった。男子の入らない大奥はお菓子が楽しみだった。質素倹約も大奥は制御できず、老中水野忠邦が失脚した。女性の甘味指向は政治を動かす。
 
狂言の附子(ぶす)
 遠くに出かける主人は、二人の家人に留守番をいいつけます。主人は二人に壺を見せ、この中には附子という毒が入っているから絶対に近づかないようにと言い置いて出かけます。
 二人は、こわごわ壺に近づき、中を覗き込みます。すると、中身は附子ではなく、おいしそうな砂糖だったのです。二人は我慢できず、つい砂糖を口にしてしまい、とうとう全部平らげてしまいます。そして、言い訳のために主人秘蔵の掛け軸や、天目茶椀を壊して、大声で泣きながら主人を待ちます。二人は、驚き怒る主人に、宝物を壊してしまって死のうと思って附子(ぶす)を食べたと言い訳します。。
 一休さんの頓知ばなしとしても登場する有名な狂言です。教科書にも出る話です。今は壺が樽に代わっています。樽は江戸時代の象徴です。どうやら二人は砂糖の味を密かに知っていたようです。

 
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