年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

 東武東上線大山駅付近のリハビリ病院への見舞いの記憶

2023年05月06日 | 宅老のグチ
人生は何があるか判らないと感じる。父が割と早く亡くなったので自分も60歳までくらいしか生きることを想定していなかった。築地で働いていた時、職場で同僚が脳内出血で救急車によって聖路加国際病院へ入院した。手際が見事で亡くならかったが後遺症が残り、さらに入院費が個室で高く、すぐに転院となった。次の転院先は板橋区の川沿いにある川北病院の関連施設でここで治療とリハビリをして。3か月でまた転院を繰り返し、1年半で築地に戻った。
 転院の中で1872年に設立された養育院を前身とする高齢者医学・医療の実践、老年学研究の草分けの東武東上線大山駅付近の病院に入ったこともある。そこの記憶で復帰の打ち合わせ行った。入り口に渋沢栄一の銅像があって、当時は無知であってただ眺めていた。記憶では高額の寄付をした人と思っていたが創立者だった。病棟で書類を書いて入るが今はコロナで面会謝絶のようだ。病室の外の廊下でリハビリ中の姿を見ていた。これは大変なものを見てしまったという記憶が残る。塀も格子もない刑務所のようだと思った。看護、介護の人は治療もあるが患者の徘徊の監視もあると感じた。もっと色んなことをそこで考えていたがもう20年も前の話で記憶が薄れるし、制度と設備も変わったと思う。
 75歳をこえ、先が無いことを知るがこればかりは予想も出来ない。妹がガン闘病20年以上で、妹自身の決断で抗がん財治療を止め、余命宣告の通りに亡くなった。最後のひと月は法解釈の誤解からバタバタしたが、コロナということであっけなく葬儀を済ました。3年前の5月連休の思い出でもある。今から思うと高齢者のガン死は準備が出来るのと終わりが認識できるので良い病気と思える様になった。つらいのは若い人のガンで進みが早く、人生の悔いが残る。
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