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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

二番町の長井乙三郎

2019年11月28日 | 福神漬

江戸切絵図で幕末ともいえる時期は図書館で見ることが出来る。比較的まとまっているのが中央区と台東区で探しやすい。弘化3・4・5年嘉永元年・2・3・4・5・6・7年に近江屋版が出版されていたようだ。この切絵図の需要は各武家屋敷の家紋が掲載されていて、江戸市民の常識とも言えていた。家紋で武家の地位を判断していたようだ。嘉永3年頃の麹町裏二番町の切絵図には長井乙三郎の名前があった。弘化年間は長井五右衛門となっていた。この乙三郎は嘉永3年頃の切絵図に名前が見える。

 地下鉄麹町駅の上の日テレ通りの歩道に江戸時代の安政3年・1856年の切絵図がある。この隅に長井五右衛門昌言の屋敷が掲載されている。現在の一番町にある高齢者用施設のプラザ一番町が旗本長井家となる。

 嘉永年間に旗本長井家にお家断絶の危機が生じていた。養父の長井義次郎(小普請)長井乙三郎(小普請)がすぐに死去したためで、遺児となった女子が残された。当時の西の丸留守居であった筒井政憲(元南町奉行)の斡旋で戸田氏栄3男が養子となった。(出典・鶯亭金升日記)この強引ともいうべき養子縁組の措置は幕閣上層部の不祥事隠しであったと思われる。

 嘉永3年10月末の小伝馬町牢獄から放火による火災で囚人が解放された。この時放火を企画したのは高野長英だった。数年日本各地を逃亡し、世間の噂ではロシア等の外国に逃亡したという噂があった。

 嘉永2年から3年にかけて、対外危機が懸念され洋書翻訳の監視が厳しくなった。そこで流通していた翻訳本の解析から高野が生存していると思われ、南町奉行の遠山景元 (通称金さん)等が再度捜索し始めた。その結果嘉永3年10月に居場所がわかり生き取りの手配となったが元々高野が牢獄に収監されたのは冤罪と知られていたので、南の与力は捕まえても微罪で解放されてはメンツが保たれないので逮捕時撲殺したと思われる。

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