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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

『明治のおもかげ』を読む3

2013年03月23日 | 宅老のグチ

内村鑑三と鶯亭金升が同じ新聞社(萬朝報?)で働いているとき、横浜高島山の英国人ヴェレスウエートという人がいた。その英人が佐倉宗五郎物語を翻訳し、著者に礼を言おうと内村に話したところ、同じ新聞社で働いている人で鶯亭であった。
 横浜高島山は横浜駅の東隣の京急東神奈川駅付近の高台で高島嘉右衛門が住んでいた高台である。ここには晩年の戸田欽堂も住んでいた。鶯亭の父長井昌言と高島嘉右衛門との接点の文献はまだ見あたらないが維新後幕臣が静岡に行かず工部省鉄道局の仕事を得たのは大垣戸田藩との交友の縁と想像できる。大垣藩の小原鉄心と戸田伊豆守はペリー来航時、見物人による不測の事態を避けるため、あらかじめ大垣藩に警備を依頼していた関係であった。鉄心は黒船の兵器を見て、大垣藩の兵力の近代化を図った。鳥羽伏見の戦い後中山道を東上した軍の主力は大垣藩であった。佐倉惣五郎の物語は戸田欽堂の政治小説にも出てくる。戸田欽堂の母は高島嘉右衛門の姉で大垣藩主の側室だった人である。
 長い寒い冬が終わり、一気に桜が満開となった。福神漬は彰義隊戦争による上野の山の荒廃から復興にかける商人の味でもある。
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