年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

知事ーgovernor

2012年06月21日 | 福神漬
黒船前夜の出会い-捕鯨船長クーパーの来航 平尾信子著から
ペリーが浦賀に1853年に来航したがその8年前にアメリカの捕鯨船マンハッタン号が22人の日本人漂流民を浦賀に送り届けた。マンハッタン号クーパー船長と浦賀で応対したのは浦賀与力組頭中島清司とオランダ小通詞森山栄之助だった。この時の記録からクーパー船長は中島清司を地方知事governorと思っていたようだ。
 クーパー船長の帰国後の話から、アメリカの人々が日本というものに関心を示すようになり、ペリーの日本遠征計画となった。また黒船に一番乗りした浦賀与力中島三郎助は中島清司の子で、マンハッタン号での思い出話から浦賀与力は英語でvice-governorと言うと思っていても不思議ではない。
 森山栄之助は長崎で嘉永元年1848にマクドナルドから本格的に英語を習っていたので、governorとは与力のことではないと知っていたと思われる。(マンハッタン号の時には森山は英語ができなかった)黒船来航時のオランダ通詞の堀達之助もgovernorの意味を知っていたとおもわれるが中島清司の息子の三郎助は父親の自慢話から、黒船に乗り込んだとき、浦賀の副奉行vice-governorと名乗ったのではないのだろうか。結果的に官職名詐称となってしまったことで通詞の堀達之助は幕府への記録の件で悩むこととなり、知事として香山栄左衛門が黒船に乗り込むようになった。準備不足で誤訳誤理解の中で浦賀の応接となったことが香山栄左衛門の涙となった原因の一つと思われる。

この後の展開から福神漬の関する逸話となってゆく。
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