年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

水戸の梅から

2012年06月20日 | 梅干

台風で気になった梅を調べていたら、茨城県の漬物組合のホームページ梅の石碑の記事があった。
昨年の震災で石碑が倒れる寸前までいったという。この石碑には徳川斉昭公が梅栽培を普及させた理由を書いてある。
 種梅記
予自少愛梅庭植數十株天保癸巳始就國國中梅樹最
少南上之後毎歳手自採梅實以輸於國使司園吏種之
偕樂園及近郊隙地今茲庚子再就國所種者鬱然成林
開華結實適會弘道館新成乃植數千株於其側又令國
中士民毎家各植數株夫梅之爲物華則冒雪先春爲風
騒之友實則含酸止渇爲軍旅之用嗚呼有備者无患數
歳之後文葩布國軍儲亦可充積也孟子不云乎七年之
病求三年之艾可不戒哉聊記以示後人云
天保十一年歳次庚子冬十月 景山撰文并書及篆額
大津浜事件の後、水戸藩では外国の侵略を考えるようになっていたと思われる。漬物の梅干は食料としての用途だけでなく兵食としての用途もあることをこの石碑は示している。
コメント
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