goo blog サービス終了のお知らせ 

 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

老柴犬のため新聞再購読の決断

2022年12月09日 | 築地市場にて
7月に転居し、家計費節減ということで、新聞購読を止めた。同時にテレビも家が狭いのでこれも無くし、すでに5か月たった。ようやく転居した家の大きさが半分になり、毎日不用品を整理し、ようやくすっきりしてきた。転居によって、盲目となっている老柴犬が家の位置関係が理解できないようで、毎日のように粗相をする。一応粗相の前にしぐさで催促の合図(外で用を足したい)を見落とすと濡れていたり、排泄物の塊が落ちている。この対策としておしっこシ-トをホ―ムセンタ-で買った養生テ-プで、巨大なトイレを造るのだが、二回に一回ほどシ-ト外の所で用を足す。また寝るときに旋回して寝るのでおしっこシ-トが乱れ、シート外に粗相する。この対策として新聞紙を敷いたらということで新聞購読 を再開決断となった。ネットで来年1月からの購読を申し込んだら、すぐに電子版の新聞が読めるようになった。今時法人以外で新規新聞購読があるのだろうか。前に住んでいたところの新聞配達店はお宝屋という不用品買い取り業者の店に変わった。新聞購読が減ればチラシ広告も減り販売店経営の魅力も消える。

 築地の大谷図書館へ行くのに大回りして新橋駅から旧築地市場へ歩いてゆく。新大橋通りの築地浜離宮ビルの前の交差点名が旧青果門前となっている。18日からどう変わるのだろうか。築地市場の正門前から朝日新聞東京本社を見ると薄汚れて見える。その後ろにあの電通ビルが見える。築地場外市場周辺は工事だらけで、多分宿泊施設だろう。銀座で買い物で築地で食事。

 ちょとコロナ前の店舗がどうなったか記憶が戻せない。 何年後に築地に立っているホテル街の名称がxxx東銀座インとなっている気がする。もちろん朝食は築地場外市場で、さらに24時間営業のすし屋もある。これならホテルの中に食堂はいらない。あの巨大な旧築地市場がドンドン更地になってゆき、古いものが消えて、朝日新聞の後ろに夕日が沈む。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧築地市場水産部の案内地図と田園調布の地図が似ている

2022年11月17日 | 築地市場にて
大田区田園調布の住宅地図が旧築地市場水産部の店舗位置地図と似ていて、田園調布の駅から阿弥陀様の後光のような放射状の道が多摩川に向けて通っている。2019年台風19号 の武蔵小杉の大水害時に田園調布付近も水没し、どのような復旧の様子となったかその年の11月くらいに見に行った記憶がある。水没地区の古家は上げ底で最近建てた家は平らで被害のような筋が見えた。
阿弥陀くじ歩き
二点間の最短距離は直線で普通に歩くことで最短距離を選択する。しかし通勤時は歩行者同士の衝突を避けるため階段前などを分離している。
 今は体力維持のために歩いているので目的地まで行くのはボケ防止とか感覚維持(方向の)同じ道を行き帰りに選択するのを避けている。歩数確保と急いで家に帰る理由がない時はバス等の込み具合で感染を恐れ歩く。ワザワザの丘超えの選択もある。タダ雨天の時は一択で用が終わればすぐに帰る。
 歩道と車道が分離していない道は考えながら下向いて歩いているので、車の量の少ない道を選択する。転居して間も無く半年となるが地域の空間位置が判ってきた。考えながら歩いているので時々信号に気が付かない時もある。
阿弥陀(あみだ)の背後に描かれている後光のように放射線状に線を引き、その線の端に金額を書き、それを隠してくじを引いたことから阿弥陀くじという言葉の由来だが今は垂直に線を当たりの数だけ引き横棒を適当に引いてくじを造る。

 旧築地市場水産部は貨車の引き込み線プラットフォームが湾曲していて、さらに買い出し人の荷物預かり所との位置関係で碁盤の目のような通路で無かった。放射状の通路を後光のような通路がくし刺ししていた。買い出し人はどの様な歩き方をしていたか書いている築地本は無かった記憶がある。店舗移動で位置が変わると繁盛店も落ち込むこともある。豊洲移転の直前の十年以上は店舗移動と再建の経費が掛かるため店舗移動決議は無かった。築地市場の現地再建でも豊洲移転でも経費は掛かる。それなのに築地と豊洲を生かすという小池知事の口車に簡単に移転反対派が乗ってしまうとは今でも驚く。とても今でも豊洲から築地に戻ることなない。あってももっと湾岸道路の向こう側だろう。
 次の豊洲市場の問題は千住市場の吸収問題と予想する。魚商が減り、千住市場の整備問題から再編成の問題が生じる。跡地は多分どこかの量販店の物流センタ-だろう。

 リニアの新幹線の開通が遅れているが完成した時には品川駅の隣という感覚距離の芝浦食肉市場の移転問題が表面化するだろう。その時に豊洲市場周辺に移動させるか、さらに遠い埋立地になるかは揉めるはず。日本の近未来を表示するリニアの駅の隣で生きた牛が殺され肉となる市場の存在を許すとは思えない。明治の欧化政策時に当時の繁華街の銀座の隣に日本橋の魚河岸があって、不衛生とかで移転話が出ていた。明治10年代からである。
 大都市の市場の移転は大きな問題を引き起こす。コロナの最初の発生地の疑いは中国武漢の市場だった。これもまだわからないし証拠も薄い。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築地市場から隣の朝日新聞を見上げていたが

2022年11月08日 | 築地市場にて
東京都中央区築地5-2-1は旧築地市場で、隣というか数寄屋橋から昭和55年(1980)引っ越してきた朝日新聞東京本社(築地5-3-2)を見上げていた。

朝日新聞政治部 鮫島 浩著 2022年
 今この本を読んでいたが、道一つ離れていたところの騒動が別世界であることを知ったと同時に隣でありながら築地市場の移転問題がどうして本質が判っていない理由がおぼろげに気が付いた。この朝日新聞政治部という本は日本の停滞している状況下で過去の新聞読者数は人口低迷という現実から長期低迷という予測を知りつつ日本の狭い世界で朝日新聞は社内の出世競争の中で動いていた。今から思うと記事を取ったり取られたりしても世界は関係なく進み、さらに新聞発行部数の水増しで、広告主をだましていることも今では明白になっている。まだ新聞が個別配達になっている都市部から郊外の所は値上げで部数が急に減る。NHKもテレビ離れの危機感があるがまだ過去の成功の余韻に浸っていてスマホ世代は高給取りの上から目線の貧困報道に欺瞞の感覚を持っている。
 情報の偏りの怖さをウクライナで知った。どうやらロシアは侵攻すればウクライナの政権支持率低迷からあっという間に制圧すると思っていたようだ。これは過去のクリミア侵攻の成功体験から来ていて、ロシアの政権支持率はロシア国民の忖度の数字で誰も疑問を持っていないことの証明となる。統計の数字の加工は慣れると数字の一人歩きとなって、そこから出た数字を基準に物事が進む。先の戦争で大本営発表の戦果が過大で、減らない米軍戦力で無駄な戦死を多数出し、さらに原爆投下まで行ってしまった。
 情報の偏りが新聞の発行部数の維持のよりどころとなっていた報道合戦は自己満足で今では幻想であることを知った。自分でも中国の百度を自動翻訳で見ていて、日本の記事と異なる観点で見ている。西側報道の都合の悪い部分が何かというのが中国報道でそれとなく知れる。韓国のハロ-ウインの事故も中国の報道は抑え気味だがどうやら中国でも圧死した事故は頻発しているようだ(多すぎて報道管制しているようだ)。楽しみの少ない国では娯楽に出る人も多いし、さらに列を並ぶ習慣がない中国で上海空港で出国審査前の行列で驚いた。割り込みが酷く、急いでいても飛行機が出ないのを知らないのだろうかと思った。
  
 築地市場の記事で朝日新聞報道に驚いたのが毎年1月5日のマグロの初セリで異常な高価格で競り落とされた時、朝日新聞だけが報道しない年があった。無視したように思える。5日はまだ始業したばかりだし、1月5日の夕刊には洩れてはいけないと思うのだが。社内ではいろいろあるんだなという思いがこの本を読んで残った。
 二回目の東京オリンピック招致のカギは築地市場の移転でこの分析が無いと何のための東京オリンピックとなるのが後世に問われるだろう。まだ誰も書いていないし、行政の方から一冊出ているが、紛糾した水産関係の人の記録が見えない。水産仲卸という制度が朝日新聞と同様に衰退していた。需要が減っている時、対処の仕方は大変だ。まして頭の良い人たちを退職させるのは先行きを暗示させねばならない。築地市場のリストラは簡単で優秀な人は引き抜かれる。だから酒が入ると危険だ。(得意先も消える)
 築地のことを深く知らない人に説明する時、わかりやすく例え話をする。
 銀座のバ-のホステスが顧客をもって、独立するのでなく他の店に引き抜かれる行為と似ている。店の主人としては敵対行為と見るだろう。しかしホステスは生活があるので給与が下がれば良い条件の方に移る。従って築地市場の移転問題は一斉の移動しかなかった。400億円捨てた工事が中断したのは部分的工事が完成し、次の工事の工程問題でとん挫した。工事現場と分離したところに店舗が移れば売り上げが減り、盛況となった店舗に顧客を連れて、場内転職となる。築地市場の盛況時に店舗移動があった。本当に店舗の位置で何年間も売り上げ不振となっている水産仲卸の事例を聞く。青果は店舗移動はなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築地市場でのネズミ駆除の経験が

2022年07月25日 | 築地市場にて
長い間空き家だった一時転居先で、隣地との通路に小豆のようなフンが落ちていた。これは築地で駆除していたネズミと同じと考え、さっそくホ―ムセンタ-でシート式のネズミ捕りを購入し、晴天時の夕方に仕掛けてほぼ一日おきに3匹ほど逮捕した。自分の経験ではあと数匹いると想定していて、もう少し仕掛ければ地域から逃げると思われる。良く例えで沈没する船から最初に逃げるのはネズミという。干支のネズミが最初なのはこの例えから来ているかもしれない。干支の話では足の遅い牛の背中に乗って飛び降り一位となったという。
 築地では市場の衛生情報でネズミのフン害から「サルモネラ症」等の 病気が発生していることを知っていたが移転反対派は黙殺していた。豊洲移転寸前にシート式のネズミ捕獲で数匹捕まえ、危険地区と知らせ他の地域に出没した様だ。あの大きな築地市場の夕方をウロウロしていたネズミはどこに消えたのだろうか。この駆除の経験が今役に立っている。
 築地の経験からシ-トは3から4枚連続で仕掛け、ネズミのジャンプしても捕まるようにしていた。後は足跡を見つけ仕掛ける。多分今は油断しているので捕まるが間も無くどこかに移動すると予想する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エアコンの記憶 昭和60年頃の築地市場内で

2022年06月26日 | 築地市場にて
暑さは今は学校でもエアコンが入って夏でも苦ではないところも増えている。昔と言っても昭和の終わりの築地市場の卸売り場には温度調節のエアコンが入っていなかった。当然のように夏は売れ残ったスイカが腐ってゴミ置き場に積まれていた。平成元年5月6日 大田市場青果部が開場すると、大田青果卸売場はエアコンが入っていて、産地で冷蔵した気温で青果売場に届き、そのまま冷えた状態で量販店に前取りで販売され、店舗に並んだ。ところが築地は狭く、さらに温度管理できないので急速に青果部の売り上げが落ちた。理由は簡単で市場内の物流が整備され、荷物の時間が読めることと、大田市場の青果物の日持ちが冷えていて築地市場より長い。豊洲移転騒動の時、青果部が移転に仲卸を含めすべてが豊洲移転に団結していたのは温度管理が出来なければ天下の築地の気風が江戸時代の名残となってしまうという共通の想いがあった。
 エアコンが築地市場に普及しなかった原因は移転または再開発の問題があって、電力の増設の見込みが立たず、先送りされていた。冷蔵庫用の電力に余裕が出来たのが大田市場が開業してからと思う。さらに事務所にエアコンを入れようとして陳情した時もあった。200Vの電力はなかなか確保できず、ガソリンタ―レ-の普及が遅れたのも充電設備と場所の確保が難しかった。電動タ―レ-が普及すると、築地市場内を爆走するガソリンタレ-が減り、静かになった。そしてガソリンタ―レ-が東京都の規制で新規購入は補助金が出て普及していった。それでも初期の電動タ―レ-は漬物のような重いものには一日の走行に無理と思い豊洲移転の3年ほど前にガソリンタ―レ-の部品が無くなり、仕方なく電動タ―レ-に替えた。電動タ―レ-が普及するとガソリンスタンドが1軒廃業した。地下の石油貯蔵タンクの改修が出来ないとか書いてあった。
電動車の進歩はすごく、一日の走行に耐えるようになった。それでも1回電池切れがあって、押して戻ったこともあったようだ。豊洲では市場内走行のみなので問題はない。築地では早朝には銀座方面で動いていたのを見かけた。もう築地移転して風景が変わったが、市場前の歩道に杭が置いてあったのは、車道を避け歩道走行するタ―レ-を阻止するためだった。歩く人がほとんどいないのに朝日新聞前の歩道の幅が広いのは昭和の名残で買い出し人の車が歩道に縦列駐車していた。大田市場開業後に築地の混雑が減ると東京都は姑息な手を使い、市場外の駐車空間を減らす策を出した。歩道に植木を植え、緑化した。最初は柳だった。銀座の柳で、今は少なくなった。さらに杭とフェンスで歩道を守った。築地市場の最後の新大橋通りは普通の駐車風景となった。長い間築地にいたので知っている人もこれから減るだろう。まだ豊洲へ移転して3年ほどなのにコロナで10年も前の話のように思える。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

賃貸住宅の付帯する火災保険

2022年06月04日 | 築地市場にて
今度の仮住まいとなる木造の古い家には、借家火災保険を付けるという条件が付いている。その条件のことで不動産の契約担当者から説明があって、補償内容が物足りないので、家財の保険を増額してもらった。過去の火災保険の経験で、火事だけでない損害があることを知っていた。
 築地に勤めていた時、一時的に都内に倉庫を借りることがあった。東京都に申請を出し、許可をもらった。そんな半年から一年程度借りる予定の倉庫でも火災が出れば重大な経営問題になるので火災保険をかけた。損害保険料は5000円程度だった。半年ほど経って、電車が豪雨で止まるくらいの梅雨末期の雷雨があった。その雷雨で業務用冷蔵庫が落雷で破損した。そこで保険会社に連絡し、被害の状況の写真を撮ってもらい修理をした。あとで無事に数万円の保険金を給付された。会社では一時的な倉庫で損害保険をかけると最初は馬鹿にされたがあとでは(保険金予知者)と思われたようだ。保険は事故の予想で、事故が起きた時どのような仕事上の不都合を考えるべきだろう。多くの火災保険料は無駄な掛け捨てと思うが、苦しい時にケチるといざ事故が起きると悲惨な目に合う。今まで運のよい人生とは思えないが保険金ではずいぶん助かった。
 不動産会社の担当者が言うには契約者が保険を増額した例が無い様だった。でも支払うのだから十分吟味しないといけないし、二年間の火災保険であっても一日の保険料の増額は10円にも足りない金額で安心を買える。心に余裕があれば顔は穏やかになる。
 豊洲へ移転する時、東京都から倉庫の申請があって、廃止の申請がないと指摘され、終了届を出した。これは苦い思い出である。多くの役所の仕事は丁寧であって、クレ-ム報道だけが目立っているが世間が平穏なのは第一線の公務員の功績と思っている。タダいつも公務員が暇そうに見えるのが不憫である。築地の食事故は報道されると日本中の食を不安にさせる。先輩が天下の築地と言っていたことを思い出す。衣食足りて礼節を知る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築地市場の最後のごみ始末

2022年05月10日 | 築地市場にて
毎日のようにポストにチラシが入っている。この宣伝方法は文献から明治期(引き札)から広まった様に感じる。江戸時代は和紙の世界で紙が貴重品で、紙くず拾いの仕事が成立した。今の日本ではホ-ムレスの人たちはアルミ缶は取ってゆくが重い紙は業者系の拾い屋が行政の目を盗んで持ってゆく。それでも中国が古紙を輸入しないと家庭ごみを盗む業者が減った気がする。リサイクルの業界は世界の情勢に敏感であることを感じていた。
 江戸時代は紙媒体の宣伝は主力でなく、口コミの宣伝が主だった。特に歌舞伎役者が舞台上でせりふのように話すと売れる。また戯作者(今の感覚だと小説家)が著書の中で記述し、商品を売ることもあったようだ。

 豊洲移転前の築地市場内の粗大ごみの排出は世間の方法と違って、オフィスデスク等はあらかじめ指定された日時に生ごみ集積場まで持って行き、立会人にゴミの内容を記帳し、後日に普通ゴミと共に築地(豊洲)市場協会へ別料金として支払う。
 築地市場が豊洲移転時にはすべての残置物は所有権を放棄したという書類を書いて、残した。例外もあって、業務量プレハブ冷蔵庫は、中のフロンガスを抽出した証明書を提出し、残置物としてゴミとなった。空調のエアコンはそこまでの書類を求められなかった記憶がある。豊洲移転日の午後には表向きには築地市場に巣を作っているネズミの逃亡を阻止するといって、隙間の無い鉄板で築地市場が囲われた。あとで気が付いたのだが実際は中の水産仲卸の業者を築地市場で営業継続を排除する目的があった。一部の水業者が少し抵抗したが、東京都が豊洲へ移転の年末の一番忙しい時に、抵抗した仲卸を豊洲市場内の営業停止処分とした。その後はどうなったかは知らない。多分従業員は他の仲卸へ転職だろう。
 市場関係者は多くの仲間内の古い情報(神田から大田市場へ移転)で行動していて、世界中の観光客が築地市場に来ている時、食の衛生管理をしている東京都が温度管理が出来ていないことをオリンピックで世界のマスコミに周知させる恐れがあって危機感を行政が持っていた。先進国で日本だけが生鮮市場で温度管理が出来ていなかった。今中国でやっとコロナ対策で生鮮市場の衛生管理を始めそうだが見本のシステムは日本の築地市場の様だ。

 ロシアとウクライナの戦争報道は国によって報道姿勢が異なり、規制のある国でも戦況の変化で、ニュ-スの扱いの頻度・表現が変わる。どんな終戦・休戦になるか判らないが、終わりが見えてきた気がする。ロシア外相のヒットラーのユダヤの血説がロシアの敗北促進したと思える。プーチンが外相発言の誤りをイスラエルに謝罪したという。ロシア内のユダヤ勢力は侮れない。

 人の命がかかわると行政は動く。しかし想定だけだと予算がないと言って先送りとなる。個々の案件は声高の政治家の関与から始まることになる。

 さて機密文書の処理は、築地市場内の信用金庫に聞いて、信頼のできる業者を紹介してもらった。ケチって不用品回収とかの業者に任せると、文書を読んで恐喝される恐れがある。返品回収でも。賞味期限の切れたものを安易に市場に捨てると食中毒を起こされ恐喝されるので、耳と言われる部分を切って捨てた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふと思う  築地市場の5月の記憶 5万人の会葬者

2022年05月02日 | 築地市場にて
通常のゆったりした老後を過ごしていると、ニュ-スで報道された事件事故で過去の築地市場の事件事故を思い出す。芸能人の死去では1998年5月2日に33歳の若さで急逝したロックバンド「X JAPAN」のギタリスト、hideさん。 Xジャパンのヒデの葬儀が5月7日木曜日の連休明けの築地本願寺で行われたことを思い出す。葬儀当日は晴れだった記憶があって、気温の記録を調べると、最高気温27.6度で、夏日なのに黒い喪服の女性たちが築地市場周辺の歩道に並んだ。当然熱中症で倒れた人もあった。
 連休明けのまだ地方からの荷物が来ず、葬儀の参列者の情報が伝言ゲームのように午前中に来る配送業者の運転手から築地市場内に伝わり、野次馬精神の築地で働いている人にはっきりと記憶に残る。でも自分は彼らの歌は1曲しか知らない。なぜならファンでないから。報道されるたびに流される曲を覚えているだけである。ヒデを乗せた車が築地本願寺から築地市場前を通り汐留の高速道路へ向かい、元の築地市場に戻り、群衆の出したごみが消えていた。掃除道具は市場関係者から借りたようだ。

 築地市場内は記憶でたどる限り、慰霊碑はなく,胸像があったしか思い出さない。年に労災・交通事故で亡くなる人がある。TV/新聞等の報道で中央区5-2-1の築地市場内で火災がありましたと報道されるので、多くは水産仲卸でかなり離れているので、後で火事見舞いの酒が届いたときは驚いた。これも豊洲へ移って地番がはっきりと違い地方の人たちの混乱は無くなったと思う。築地市場の隣に波除神社に碑がある。災難を除き、波を乗り切る」 波除稲荷様として、災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚く、魚河岸の碑が多い。玉子塚、えび塚等々。
 築地の事故の記憶をたどると事故物件だった気がする。次の再開発には10年以上の月日が経つと思うが、記憶は年々薄れ良い思い出は消え、不祥事だけがネットに残る。最近ではオリンピック招致から豊洲移転延期、コロナで2020東京オリンピックが2021年に、そして築地の得意先である飲食店が大打撃だった。バブル時の水産仲卸はもう半分以下となって、築地の利権と騒ぐこともなくなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

物流センターのカゴ落下事故で死者

2022年05月01日 | 築地市場にて
ニュ-スで物流センターで荷下ろし中にカゴ付き台車が落下し、作業員が亡くなった。このような事故は築地市場で作業していた時は、3ケ月に1回ほどの頻度であって、運よく難を逃れ、新聞沙汰にはならなかった。豊洲へ行って、設備を一新し、中古の通いカゴを止め新品の物流カゴを購入した。カゴの落下の原因はトラックについているパワ-リフトという油圧機械で地面からカゴを持ち上げたりおろしたりするのだが、スットッパ-を止め忘れたり、カゴのストッパ-が外れたりして、積み込み時の揺れや荷物を積んだ時、車が傾き落ちることもあった。また築地市場は排水のため、道路が水路に傾いていた。いくつかの原因が重なり、事故となる。これが基本だが忙しい時に注意が散漫となって事故となる。
 それでも基本はカゴ台車の動作状況を見守り、さらに周囲に人がいるかいないかを見極め、作業する。事故はあったが人身事故にはならず、カゴと商品の破損で終わった。物は金で補填できるが命と健康は補填できない。
 倉庫業や小売業、運送会社など幅広く使われているカゴ台車(ロールボックスパレット、カーゴテナー、コンビテナー、カゴ車)となります。1台が2万円から5万円ほどで 今の日本ではほとんど中国製造と思われる。佐川急便等の物流倉庫の大型のカゴが築地市場が広いし、場所もあって荷物と共に築地市場に残る。あとで回収となるのだが、狭い倉庫内では放置されても困るのでいつも回収催促していた記憶が残る。豊洲へ移転する時、特殊なつくりの物流カゴが引き取り先がなくかなり高価と思っていても、残置物として築地市場に残りゴミとなった。
 ふと思い出して、築地市場で配送に来ていた業者・大手では福山通運が採算性の問題で、豊洲市場へは配送が無くなった。近鉄物流が最初は配送が出来ないと言われ、荷主の強力な要望で復活したこともあった。和歌山は梅の産地で物流は近鉄物流と日通しか全国配送はないと感じる。同様の事例があって郵便局の小口配送に切り替わったところもあった。豊洲市場の開業時は陸の孤島と感じた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海運途絶となれば

2022年04月28日 | 築地市場にて
今の中国の上海の状況は、日本の未来の日本の海運途絶の状況を想定できる、強権中国に見習ってどう国民に食を安定供給するかの問題となる。そうすると東京都の考え方の基本は都内のス-パ-であっても物流センタ-が都外にあると、都民の雇用を生まないという論理も成立する。無謀な議論と思うがアマゾン等の企業が利益を日本で出しているのに日本への税金の貢献度は少ないという議論と似ている。
 そうすると役人の発想法では中央と地方卸売市場経由の食品配給(戦時中の例を持ち出して)復活もあるだろう。少ない農水産物を市場に集め、各地に配給するシステム。手間がかかるが公平という点だけが取り柄となる。ここで日本各地で農水産物の盗難が増え、検問強化・監視カメラが必要となる。日本は過去の戦争の後遺症ともいえる、公平感の強い国と感じる。役所の統制下にある中央卸売市場の制度は大正時代のシベリア出兵の誤解から米騒動から始まり、先の大戦では配給システムの一部分となってしまった。
 食が少ないだけで犯罪者が増える。中国では上海の急患の人がコロナで満員の病院から診察を断られ、自殺した事例もある。

 人間は生きるために平時ではしないことをする。イモと米が緊急時の食料となる。
 戦後の間もない時に、外地から引き揚げた新潟県出身の坊さんがいた。軍隊仲間の人に付き添い、餓死が出ている配給状況でも築地市場にはまだ食することが出来る魚のごみが捨てられ、落ちていて拾わない姿を見て、築地市場に勤めることになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築地市場バブル時の人手不足の時の話

2022年04月27日 | 築地市場にて
今は記憶が薄れてきたが、バブル期の築地市場は人手が足りなく、特に小車で築地市場内を配送する人は体力がいるので苦し紛れの不法移住者を雇っていたこともあった。当然のように反社会の人も働いていたが東京都の監視の目が朝日新聞が築地市場前に数寄屋橋から来て,暴れ者に対する扱いが本人だけでなく雇用者へも厳しくなった気がする。それと同時に徐々に一般人が場内に見物がてら買い物に入ってきた。表向きは禁止だが共同購入ということで場内が混雑し、配送時間の遅れから次第に量販店納品の仲卸が場外で拠点を設け作業し始めた。大田市場が出来ると青果の有力業者が築地から大田に移動したこともあった。
 こんな場内での転職もあって、いつの間に違う店舗で働いている人も度々あった。こんな時代でそれぞれの業者が求人をするのだが結構詐欺まがいの求人広告業者があって、最初は無料と言いながら、一回の広告掲載料を何回も出させた。職安(今のハロ-ワ-クに掲載すると、後でサクラと思った人が来て、面接の打ち合わせで、終わったことも度々であった。築地市場があまりにも古く、汚い職場だった。今の豊洲は別世界と感じる。職安に求人を出すと、求人広告会社から電話がすぐ来る。今と違ってネットで求人を検索できない時代て、築地の場合は飯田橋の職安となる。職安から電話が来ると面接の打ち合わせをして、だいたい数日後に採否を通告する。面接時に話したのは築地市場に心と体が合わない人はすぐに退職してもらいたいと通告した。電車のつり革につかまり、手を洗わないという清潔感覚だと当時の築地市場は別世界だった。それでも衛生事故が少なかったのは危険という知識が共有されていなかった。今は遺伝子分析が早く,事故の原因究明が早い。


 最近のニュ-スで『インターネット上で働き手を募る求人広告について、「無料」と勧誘を受けて掲載したものの、しばらくして高額の料金を請求されるトラブルが相次いでいる。 』これからこの手のサ-ビス詐欺が増える気がする。アプリの課金の解除の部分の字は小さい。
 小さい字には注意しよう。ネットのアプリも削除の方法が見えないと解約に難儀する。クレジットカ-ドの解約電話が繋がらず、解約をあきらめさせる。そのうち異国で電話対応するのが常識となるのが間もない。それなら24時間対応となる。いや非人間の対応になる。モンスタ-クレ―マ―でも勝てる。

 今の豊洲は駐車位置表示がしっかりあって、数字が解かれば運転免許と体力となる。この辺が築地も豊洲も男世界で、口の世界は女性の帳場となる。
 この市場という世界は学歴よりやる気と早起きと健康に尽きる。最低の資格は運転免許となる。朝が異常に早いのでバイク免許はあったほうが良い。生鮮食品の見分けは経験しかない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オミクロン型コロナでトリア-ジ

2022年03月22日 | 築地市場にて
トリアージとは、災害発生時などに多数の傷病者が発生した場合に、傷病の緊急度や重症度に応じて治療優先度を決めることです。
1 黒
2 赤
3 黄色
4 緑
今は入院患者の個人情報保護のため、病室前のベッドの掲示に少なくなっているようだ。昔、入院患者の見舞いに行ったときに、病室前の掲示を見て話すように言われた記憶がある。手術直後には赤になっていて、回復するに従い黄色となり、自立してトイレに行けるようになると、緑となる。面会する患者の前で基礎情報が入っていると、不謹慎な会話が避けられる。末期がんであって余命も家族から聞いていても、病室前の掲示を見てまだ大丈夫と言って励ましたこともあった。こちらは医者でないので外れても責任はない。生きる希望は数日余命を伸ばすと信じている。火事等で救急隊員が患者を救出する順序の目安と言われた。

 築地市場の時代の記憶で新喜楽という高級料亭が一時的に救急病院となったことがあった。ノーベル平和賞を受賞した翌年佐藤栄作元首相は昭和50年5月19日、自民党幹部、財界首脳と築地の料亭「新喜楽」で会食中、脳溢血で倒れる。それから15日間、「新喜楽」で意識不明のまま、6月3日死亡。6月16日、東京の日本武道館で「国民葬」が行なわれた。 新喜楽の勝手口を通った時、電源車が横付けされ、波除神社に向かう道は、芥川賞や直木賞の発表時期のように新聞社の車が停まっていた記憶がある。5日間経ってこの車列は消えた。あとの報道では容態が落ち着いたときに、大学病院に搬送した様だ。
 この時期はまだ朝日新聞が有楽町の時代で、1980年(昭和55年)に築地市場正門前に移転してきた。当時の記憶では築地4丁目から三井造船前は世間から見放された別世界だった記憶がある。いわゆるやくざ者の職場と見なされ、タクシ-などは魚商の竹の買い物籠を下げている客を避けるため、築地4丁目を避けていると言われた。そのため築地市場内から東京駅に行くときは、築地4丁目交差点まで歩いた記憶がある。その時にタクシーの運転手に聞いた話である。乗車拒否をするとうるさいし、手鉤で車にいたずらされる時もあるという。この場合は築地市場に客を運んだ帰りにトラブルがあるようだ。朝日新聞が来て新聞社の正門前はいつもタクシ-が捕まるようになった。

 ゼロコロナ政策の香港の状況から、第五波のオミクロン型コロナで103万人ほど感染し、死者は5683人で、死亡率が0.55%というデ―タが発表されている。死者の60%が施設居住者という。そのうち90%が個人的要因でワクチン接種をしていないという。施設居住者の定義が報道されていないが高齢者の施設だろう。日本でも同様で、オミクロン型の感染が減りつつあるのに死者数は減っていないと感じる。どうやら日本でも高齢者施設内でオミクロン型感染者を治療していて、国内でもトリア-ジ的対処をしている気がする。多くの死者は高齢者施設のようで、見捨てられ感がある。今の状況では幼児等の観察優先となる必用で、この時期に高齢者施設に入っていたことは運が悪いとしか思えない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今の戦争のことは書きたくないので

2022年02月26日 | 築地市場にて
築地市場の移転騒動時に大正のコメ騒動から、政府が物価が上がり、買い占めの商人たちを社会主義者が煽っての打ちこわし等の攻撃の対象となり、死者まで出る暴動となった。このことから中央卸売市場法が出来て関西から中央卸売市場が出来てさらに公設小売市場が出来た。これは最近まで残っている公設市場の始まりだった。
 東京が遅れたのは関東大震災と利権等の思惑があって、東京市議員の不祥事もあって昭和10年2月に築地に移転した。すでに昭和の恐慌時代で、農村の苦境のため、地方自治体は東京市場に期待していたようだが中国との戦争ですぐに統制経済となり配給所となった。品物も少なく、さらに若い人は兵隊となってしまった。今と違って人力運搬のリヤカ-や大八車が残っていて徒歩圏から築地や神田の青果市場に運ばれていった。この戦争中の記録は少ないと感じる。東京市場の歴史で業者の古老の話は不祥事が消されていて、真実の歴史と異なる。うまく立ち回った人が生き残った。戦後は築地市場内の青果部が米軍に接収され、ドライクリ-ニング場となり、豊洲移転時に築地市場の地下汚染が広く知られた。
 戦後のヤミ市の時代で卸売市場は統制で繁盛していた、さらに決済の点でも安心があったようだ。商材が集まり、配給時代でも築地のごみ集積場では一部が傷んでいて商材が捨てられいたので、給与の少ない労働者たちがごみ漁りをしていたという。築地の豊洲移転の最後の時は、場外からのごみの不法投棄を監視するカメラがついている時代となった。
 平成30年10月の大安の日に豊洲へ移転したのだが、飲酒していても業務の出来る大八車がまだ残っていて、初セリのマグロの映像では電動タ-レでは運搬している映像でなく大八車に初セリマグロを乗せた映像だった気がする。演出だろう。築地.大田は世界とつながっていて今度のウクライナ戦争はどの様な具体的な不自由さを感じ始めるのだろうか。それは海運会社から始まる気がする。ロシア絡みの為替相場で変動がありすぎて、当分様子見となるだろう。

 築地市場には暖房がなく、冬場は臭いの出ない練炭が最後まで使用していたところがあったようで、市場の休み前には東京都が練炭の始末の注意をしていた。今から思うと良く火事があった。そして新聞報道では中央区築地5-2-1となっていて、慌てた地方の荷主から火事見舞いを頂いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHKの映らないテレビ

2022年02月24日 | 築地市場にて
安売り量販店でNHKの映らない、つまりチュ-ナ-がないので、普通のテレビ放送が見ることが出来ないテレビが良く売れているという。ネットの時代はもう高齢者しか見ていないかもしれない。
 築地市場で会社に10インチくらいのテレビがあった。どんな理由か東京タワ-が見えるのに、築地市場内のテレビ視聴は有線だった。テレビがアナログ放送からデジタルに切り替わり、市場の施設課から買い替えを促されていたが、業務時間中はテレビを見ることなく過ごしていた。唯一みんなで業務時間中にテレビを見ていたのは東日本の大震災時で、テレビによって情報収集し電車が止まり業務中断し帰宅指示となった。
 ある程度時間が経って、東京都から築地市場内のテレビがアナログ変換設備が古くなったのでアナログが配信中止となった。それでも誰も会社内のテレビを見ていないので映らないことを知らなかった。日曜日に大きな競馬のレ-スがあって、テレビをつけたのだが古い受像機には雨が降っていた。壊れたのかと思ったら、テレビがアナログしか映らないことを思い出した。映らなくなって4から5か月経っていた。社内の人は昼休みの時間のネットを見るのが普通でテレビは誰も見ない。
 その後NHKのお客様相談室に電話したのだが、不思議そうな対応となった。こちらは豊洲移転を控えていたので、テレビがなくても誰も困らないので契約解除を要請した。二か月ほどして契約解除となったが今でも豊洲にテレビがなく、監視カメラのテレビがある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

51ミリ大型クリップ

2022年02月22日 | 築地市場にて
目の前に大型のクリップがある。5センチを超えるクリップで会社の業務で使用していないものがどうして家にあるのか気になった。
 このクリップは築地市場の東京都講堂で配布された資料を束ねたものだった。築地から豊洲へ移転する際に、廃棄書類に入っていて、苦い思い出として今机の上にある。由来を知らないと大きすぎて使い道のないものと考えるだろう。
 アマゾンで調べると
プラス社製のようだ
  1. ダブルクリップ「エアかる」
  2. 規格:超特大 / クリップ幅:51mm
  3. 数量:10個 (箱入り) / カラー:ブラック
  4. とじ枚数:200枚 ※とじ枚数はPPC用紙(64g/㎡)をとじるときの目安です。
  5. 材質:本体=鉄(ブラック:鉄酸化皮膜)、ハンドル=鉄・ニッケルメッキ
この書類は地下汚染水の状況を示した地図などをA3用紙を数十枚束ねたもので、いずれ東京都の公文書館で公開されるだろうが、今から思うと時間の無駄で、儀式とはいえ、無駄な10兆円以上の費用が掛かった気がする。築地から豊洲へ移転するので、豊洲へ橋が架かり、東京ガス跡地の汚染処理を数回しても今でも豊洲市場から移転反対派の主張する汚染物質が中央卸売市場のHPには毎月のデ―タが公表されている。移転反対派の主張した汚染された土地の上を通過したものは価値が下がると言っていたが今でも思っているのだろうか。
 すべては緑の狸の口先で騙された。事の始まりは石原知事の決断から始まり、なかなか移転準備会議が進まず、新宿都庁での会費制懇談会で会議の促進を言っていたが、結局毎年1月5日の築地市場で開催される市場協会での市場長のあいさつでも進展がなかった。やっと進み始めたのが2016年東京オリンピック招致で、国内予選に参加することだった。ここでやっと会議の日程が進み始めたのだが、市場という組織の最末端で業務しているので、反対派の意向も良く情報と入り、どうせ形式だろうと暇つぶしに午後2時過ぎからの会議を傍聴していた。そこでもらった資料はざっとみかん箱4箱は超えるだろう。多くはA4の再生紙でA3は汚染水の会議の時だった。
 あのまま移転していたらもう少しましな老後があったかもしれないがそれなりの参加したという自負もある。退職後に築地移転騒動の渦中にいたというと、政治理念が違っても共通の話題となる。どの人も築地に繋がって食の思いでに繋がる。それは吉野家の一号店が築地市場のせっかちな労働者の食の要求から始まる。(美味い、安い、早い)ということになる。
 多くの誤解を招いたが一番の移転の功績者は浜渦さんだろう。誰かが悪人役をしないと理屈で通らない市場関係者のしがらみを壊せない。もう時代遅れの中央卸売市場と知っていても誰も動けなかった。毀誉褒貶のあった勝海舟のようだったと今は思う。
 都議会の5年前の選挙で日本共産党の候補者と支持者に質問した。築地市場内のあの不衛生状態と豊洲の地下汚染をどう考えるかというと言葉に詰まった。コロナの今手のアルコル-ル消毒しているが当時の築地のトイレに薬用せっけんがあっただけで量販店対応の仲卸は使い捨て手袋で仕事をしていた。
どこでも衛生事故を出すと会社の名前の前に築地市場のXXと出る。連帯被害を受けることになる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする