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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

14歳の夏 から

2020年12月05日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
台湾生まれの中田芳子さんの著書から陸軍飛行204戦隊の特攻隊員は漏れなく、遺書を書いていたようだ。叔父だけが書かなかったという事は無い様だ。この本を読むまで叔父の遺書が無いのは書かなかった。(稀にあるらしい)生みの母が地域の事情で女には学問がいらないと育てられ、文字が読めなかったので書かなかったと思っていた。しかし他の人に読んでもらえば良いのであって遺書が無いという理由とはならない。結論として遺書はあったが何らかの理由で写真を除いて処分されたと思われる。
 其の何らかの理由とは何だろう。
この謎解きはチョット厄介と思う。時の情勢判断が叔父の周囲の人を巻き込んだ気がする。遺品はなぜ処分されたか推測し、調べるしかない。

父の写真帳の中に軍隊時代の写真が多数ある。どんな順序か解らないが位置的には叔父の特攻の最後の宴会写真は終戦後に同期の人が叔父の実家を訪問し、手渡しでもらったものと推測できる。台電クラブ(花蓮港?)というところの広間で5月20日の特攻隊員を中心として、歌を歌っている雰囲気が感じる。前列の中央付近には叔父がいてこの時点では特攻作戦の隊長となっていたようだ。特操1期生史では小林少尉の遺書の全文が掲載され、叔父の遺書が無いのが不思議だった。中田芳子さんの主人となった人は後列にいて、タオルを首にかけている人だった。暑かったのだろう。204飛行戦隊隊長は軍服を着ていたが叔父らの特攻隊員はシャツ姿で堅苦しい宴会雰囲気はない。感じとして5月10日ぐらいと推測する。この宴会に14歳の女子学生として参加し、宴会を湿っぽくしなかった中田芳子さんの功績かもしれない。
 万世の特攻隊員の子犬を抱いて笑みを浮かべている写真は今でも印象に残るが子犬は死の不安を紛らわせる。
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昭和22年の9月のカスリ-ン台風とコメの供出

2020年12月02日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
図書館で春日部市史庄和地区(平成25年刊行)の戦後の歴史を見る。敗戦後、空家となった東武野田線の南桜井駅前の服部時計店の砲弾信管工場に米軍が進駐してきた。敗戦後間もないという。ここが選ばれたのは空襲の被害を受けていない建物が残っていたからという。47名の米軍軍人が突然農村地区に現れた。その後外地の引き揚げ者の中で住まいの無い人たちも余った工場宿舎に住んだようだ。
 昭和21年3月末頃の埼玉新聞の記事によると賀川豊彦が米軍から農村振興の工場を作るという名目で払い下げをしてもらい(農村工場)が発足した。しかし戦前の古い設備となれていない工員で間もなく経営不振となり、設備とか人員を整備しなおし、再発足しリズム時計となった。目覚まし時計では結構な業績を上げていた。今は移転しスーパ-のヤオコ-となっている。
 昭和22年の秋のカスリ-ン台風は今の感覚だと雨台風で房総沖を通過したが大量の雨で利根川中流の栗橋で堤防が決壊し、濁流が東京まで押し寄せた。とくに春日部市付近は高台を除いてほぼ水没した。叔父の実家は高台だったが水田等は長い間水没していてコメの収穫が地域で一番少なく、埼玉県からコメの供出圧力がすさまじく、連帯責任を問う集会が開かれていた。この地域が洪水と言ってコメの供出を少なくすると埼玉県の農民の努力が無駄になると言っていた。そのため集落の人は比較的被害の少なかった千葉県からコメを金銭で購入し、供出した所もあるようだ。
 と表向き春日部市史には書かれているが市史の中身をか細かく見ると、叔父の生家のあった中野(今は東中野)でどちらかと言うと江戸川と庄内古川(上流を天神堀や島川、中流を庄内古川,下流を中川と呼称 する一級河川)との間の高台で水田より畑地の方が多い。しかしカスリ-ン台風で水没した地図では中野地区は2Mの冠水となっている。本当は中野地区のコメの収穫量はどうだったのだろうか。
 昭和23年埼玉県のGHQの軍司令部長官が米の供出の件で南桜井村の農家の男性各一名を南桜井小学校に集め、訓示を行った。おおよその内容は他の埼玉県の農家はコメの割り当てを供出しているが怠けていると演説した。これは後の数字から隣の中野村への当てつけと思われる。叔父の実家はどのように米軍の強権を感じたのかは今知る人はいない。
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14歳の夏 中田芳子著から

2020年11月30日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父の特攻の最後宴会場(今の台北紀州庵・当時は台電クラブ)に飛び入り参加していた14歳の台湾生まれの少女の記憶と叔父と最後の晩餐を共にした特攻隊員候補と戦後に縁があって結婚した話で生き残った特攻隊員の苦悩を知ると複雑な読後感が残る。
 生きて帰ると約束し、飛行機に乗って埼玉の自宅上空を旋回し、台湾に向かった時の遺族はどんな気持ちか想像を超える。もし順番がずれ生き残ったら中田芳子さんの御主人と同様の戦友に対して悔いる気持ちが残って一生心の傷となると思える。やはり60年以上の歳月が必要かもしれない。叔父達の特攻で戦死や負傷した米国の軍人たちもネット検索すると戦後60年位は戦友会の活動があったが今はもうほとんど停止しているようだ。最も米軍は日本との戦争後、朝鮮・ベトナム・湾岸戦争・イラク・アフガニスタンと戦争を休んでいる期間が少ない。兵器は戦争によって進化し、かつての特攻のような攻撃は無人化され、兵士の心の痛みは感じないだろう。だから次の戦争は恐ろしい。心の抑止力が消える。
 戦争が無くても市場開放という圧力が武器と共にやってきそうだ。
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探していた湾生の中田さんは90歳のユーチュ-バ-だった

2020年11月29日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
今月2020年11月23日、特攻した叔父の墓に行った。過去の調査したことを住職に話し、墓前で2019年7月4日日本テレビで夕方放送された台湾特攻隊員を世話した中田さんという女性を見つかるように祈った。
 すると過去に検索した時は出なかった中田さんという女性が検索に当たった。
今は90歳になって、逆さ歌で動画を出しているユ-チュ-バ-だった。ダメで元々という事でメ-ルを送ったところ、返信が来て陸軍飛行204戦隊の特攻が二回あったが、二回目の笠原さんのことは詳しく知っているようだ。
(逆さ歌 中田芳子) でユーチュ-ブで検索すると出てくる
 前に下北沢の地域の歴史を調べていて、信州で疎開していた下北沢の小学生と交流のあった陸軍振武隊員の特攻兵との交流を本にした(鉛筆部隊の子どもたち )著者きむらけんさんによると台湾の特攻で一番納得のいかない笠原さんが搭乗していた7月の特攻と言う。飛行204戦隊の名誉のための攻撃で4名の意味もなく命が奪われた。
 靖国神社の図書館で戦友誌が40冊ほど所蔵されているが204戦隊の同期の文章を読むと、7月の無駄な特攻で死なせたという想いが残っている。
 笠原さんは14歳の台湾生まれの中田芳子さんには優しかった様だ。75年経った今でも鮮明に記憶があるようだ。90歳の動画は(逆さ歌・中田芳子)で検索すると出てくる。(後に中田さんからメ-ルが来て、笠原さんと叔父を間違えたようだ)
 叔父はまだまだあの世で成仏していない様だ。墓で祈って一週間もしないで探していた人が見つかるとは恐ろしい。次は何で驚かしてくれるのだろうか。
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特攻した叔父の墓のある寺を訪問し、現況を聞く2

2020年11月28日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
住職と雑談後、墓地に行くため、玄関を出ると、上空を飛ぶ飛行機の騒音がした。まるで昭和20年2月に叔父が台湾の任地に出発するとき、川辺村上空を低空飛行し旋回をしたという話をしていたので、またいたずらかと思ったが住職の話だと、ここは羽田空港へ着陸するため、シバシバ飛んでいるという。そういえば自宅上空はヘリの通路で、万一の時は河川に着陸する様だ。江戸川と利根川にはさまれている地域なので河川の洪水調整の原っぱの土地は広い。多分秋田とかの太平洋に回らない飛行機だろう。もし生きて飛行機に乗って下に生家が見えたらどう思うのだろうか。それとも今でもあの世からなかなか調べてくれない子孫を見てイライラしているのだろうか。
 GHQの問題から、戦後の時間軸を考えると、敗戦で日本の国内の食料が不足し、餓死が出る寸前だった。埼玉の地方新聞の地域版の記事を読んでいると、ヤミ市といかに政府に協力して食料を供出するかという政府寄りの記事が目立つ。要は戦前も戦後も新聞は政権寄りだった。食料が安定したころ、地域制限が消え、野菜の過剰生産となった部分は漬物となり、食の不足している東京市場に乱入してきた。この時期の規制緩和の歴史が今忘れ去られ、漬物の裏面表示に残っていることがあまり知られていない。
 廃業した厩橋のたもとにあった父が勤めていた漬物業者はGHQの監視の目が遭って廃業したというが敗戦後で食が間に合うと軍隊納めで生きていた業者は闇市の商売にはなれなかったと思われる。
 昭和21年に和歌山県田辺港に帰国した、陸軍飛行二百四戦隊の軍人たちは、それぞれのつてを頼り生きてゆくことになる。記録によると特攻作戦の隊長は特攻死した隊員の遺族を訪問し、最後の状況を話したという。これがいつだかまだ解らないが、その話で特攻遺書が処分された気がする。住職の話では地域の人たちは沖縄での叔父の特攻の戦果があったことを知らないようだった、戦後の犬死論が親族で話されていたのは近所の進駐軍に叔父の最後の話が漏れることを恐れたのだろう。
 学校の記録も消え、あるのは写真のみである。卒業した埼玉師範学校(今の埼玉大学教育学部)に成績記録が残るが、野田市の野田農工学校には既に記録がない様だ。川辺小学校には記録だあるのだろうか。忘れ去れた叔父はいま知覧と靖国神社・京都・埼玉の護国神社に名前が残る。


 
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特攻した叔父の墓のある寺を訪問し、現況を聞く

2020年11月24日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父の命日でもないのに、墓のある寺に電話し、慰霊のことをお願いし、23日に済ました。十数年来不思議なことが周囲に起きていて、何か叔父がまだ成仏していないで騒ぎをおこしていると感じていて、一応コロナの拡大前に区切りをつけておこうと行動した。
 父の最初の就職先の子孫からGHQの話が出て、叔父の特攻遺書が親族によって処分された感じがした。あとは地元の図書館で戦後の混乱期に何が起こったのかを解明すれば、忘れ去られた叔父も浮かばれるだろう。住職も戦後生まれなのでまた聞きの話しかないがどうやら地域全体が戦後の海外からの引き揚げ者等の話から、終戦を後らした特攻という行為は伝えたくない歴史かもしれない。でも事実は事実として残さないといずれ必要な時代が来て、評価の見直しがあるかもしれない。
 図書館で借り出したインパ-ル作戦の記録を書いた著者は無残な戦争を書くことによって、ビルマの山岳地帯に死んだ仲間の記録を残すことで、同期の仲間として死ねなかった自分の最後の仕事と考えていたようだ。主観だらけの個人記録は資料としては価値が無いと思われるが少なくとも記録を残そうとした人物がいたという事を示していた。
 昭和20年秋には米軍の兵士の五十名弱が叔父の実家から歩いて15分くらいの所に駐留した。戦前の服部時計店が砲弾の信管を作っていた工場跡地であった。そこは空襲もなく戦後は工員の宿舎が空いていたようだ。日本人によるテロの警戒から周囲の情報収集をしていたと思われる。台湾の陸軍飛行隊が日本に引き上げたのは昭和21年のことでまだ戦死情報しか遺族には届いていなかった。同期の仲間の隊長が遺族訪問し、特攻時の詳細な話を聞いたのち、米軍に多大な損害を与えたことを知り、秘かに叔父の写真以外を処分したと思われる。このことを後から聞いた父が怒り、生まれ来る子供に作戦名の一部をつけたと思われる。しかしこのことを聞いて知っていた母は怒っていて父の死去後、子供呼び名を変えた。もう65年ほど前の話となる。
 キラキラネ-ムなどの流行も同じ流れかもしれない。
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賀川豊彦記念 松沢資料館.へ

2020年11月03日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
コロナで事前電話予約制のため、開いていて予約の必要のない京王線上北沢駅下車で賀川豊彦記念 松沢資料館へ行きました。ここは熊谷市の埼玉県立図書館で昭和21年2月から3月にかけての埼玉新聞縮刷を読んでいた時、今の東武野田線南桜井駅前にあった旧精工舎の軍需工場を 賀川豊彦がGHQに掛け合って、昭和21年4月より米軍兵士への日本土産の時計を製造する工場の記事があ当時の工場名は(農村時計学校)と言いました。昭和25年にリズム時計となり、今は南桜井駅前の工場跡地はス-パ-ヤオコーのショッピングセンタ-となっています。なぜ 賀川豊彦がこの地に工場を作ったかを調べるという目的がありました。どの様な狙いがあったのだろうか。
 昭和21年の前半の埼玉新聞の記事はヤミ市関係の記事が目立って、東京という非農村地域の隣にある都市へ食糧供給の混乱が記事によく出ています。そんな時期に今の団塊の世代が生まれました。コロナの今よりはるかに明日が見えない時代でした。ただ明日にも空襲で死ぬ思いが無いという希望を親が子供に託したようです。今の三大新聞の戦後の混乱期記事より埼玉新聞の方が良く理解できます。なぜ昭和21年2月3月の新聞を見ていてかというと沖縄沖で特攻死した叔父が遺骨(空の木箱)となって南桜井駅から町内会の先導で生家に戻ってきました。でもこの記事はありませんでした。叔父は米軍に多大の損害を与え、当時の埼玉新聞でも戦死した軍人の犬死論がありました。戦時中は特攻兵士は英霊扱いされ、敗戦後米軍支配下になると犬死と言われれば遺族は黙るしかないようでした。叔父の遺書が見つからないのは空しさで処分した可能性が多いと感じます。叔父に対しての身内の扱いで私の父は反発したと思われます。
 世間の評価の浮き沈みは仕方がないのですが、親族の誰かが命があったということの記録を残さないと、後々の家族の混乱の歴史の整合性が解らなくなることがある。それは気持ちの揺れ動きで、介護をしていると実母であっても百才となれば時々疎ましく思う時がある。介護殺人はふとした瞬間に行動に出る。心が長期の介護で歯止めが消えた気がする。
 子孫が先祖の評伝を書いている本は何か共通の想いがあって、後世に業績を伝えたいという気持ちがある。しかし良いところだけ書くのが子孫による評伝の最大の欠陥である。結構不都合な隠されたことが全体として理解できないこともある。福神漬の関係者の航跡は完成した絵がないジグソ―パズルのようなものでパ-ツはあるがどう結びつくかまだ解らない・

 南桜井の図書館で資料を見て、賀川豊彦の業績確認したい。
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靖國神社偕行文庫室図書室へ

2020年10月28日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
先行きの見えないコロナで母の百までは外部に出ることを制限したがようやく心の解除。
 靖国神社の図書館はコロナで長い間封鎖されていたが、事前予約で今は開いている。20人ほど座れる机が使用制限で4人しか使えない。都立中央図書館も予約と先着者が入れるが昨日確認した所ネット予約が半分くらいだった。以前の混雑を知っていたので想像だが図書館を今まで自習室代わりで使用していたのではないのだろうか。誰がいるか解らない図書館は長時間座るので感染リスクはある。しかし話さないのでマスクなら多分大丈夫だろう。ただ今は2時間とか3時間という制限が気になる。多摩の図書館は行くのに1時間以上かかるのでいつも読む本を数冊予定しているので4時間近くいることになる。根気が無くなったので図書館は普通3時間までと自主制限している。多摩に行くのは歌舞伎新報という明治の雑誌で明治26年末の上演(遠山桜天保日記)で評論家がどのように評価しているかを知ることが目的である。
 靖国神社の図書館は先の戦争の関係者の貴重な本が多く、場所柄で普通の人は行かない。閉架式なので検索して、借り出す本を書類に書いて書庫から出してしてもらう。一度の借り出し本は3冊までである。大方の戦友会の活動は昭和で終わったようで昭和天皇が死去され、戦友たちの高齢化と会員の死去で活発な活動は終わった。それから30年以上たって、当時は気にしていなかった個人情報の問題があって、図書の貸し出しについて、住所等のコピ-は禁止という。戦争が終わって、75年経ち、戦後の混乱期を一家の中心となるべき人の特攻死はどれだけ無念だったことは戦友会報には書かれていない。生き残った人の想いだけがあって、遺族の声が見えない。やはり知覧と靖国は違うのだ。戦友会報には特攻当日のことが書いてあった。あとから行くからと言って握手し別れた。書いた人は生き残った。そして悔いが残ったようだ。つくづく酷い作戦だった。台湾で最後を迎えた陸軍飛行204戦隊は戦後の昭和21年に和歌山県田辺港に引き上げた。会報によると、戦争が終わってごく短い台湾滞在中に結婚した兵士もいたようだ。内地に帰って来た時、死者が生きてきた驚きとともに嫁がいたとは信じられない。
 会報の陸軍飛行204戦隊の戦友たちの死亡記録を見ていると、昭和20年8月15日以降でもレイテ山中や様々なところで兵士が死去している。戦争末期で十分な装備がなく飛行機要員も普通の陸軍兵士として戦闘に参加し、逃避行をしていたようだ。多くは詳細な記録が無い様だ。ただ名前だけがある。叔父は埼玉護国神社等多くの所に名前を残している。ただ詳細な想いは残っていない。まだまだ調べることが残っている。
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叔父のビルマ作戦行動

2020年10月15日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
NHKのドラマでビルマ・インパ-ル作戦の悲惨さを朝見た。父の弟は昭和19年11月から12月終わり頃、タイの基地からビルマに移動し、飛行50戦隊教育隊に参加し、ビルマの空で活躍していたと思いたいがたった数か月の実戦経験で歴戦の英国軍や米軍相手では援護しかできなかったと思われる。軍歴の内容解釈から、ビルマでは整備系の補助だったかもしれない。恩給計算から飛行機には乗っていなかった気がする。これも靖国神社の図書館で教えてもらうしかない。
 昭和19年12月にはレイテ戦で海軍の飛行機を多数特攻で失い、陸軍の飛行機が残った。昭和20年1月にビルマから日本に戻り、一式戦闘機隼に機種変更し、常陸にある基地で隼の習熟訓練を2か月していた。
 ビルマの首都ラング-ンは今ヤンゴンと名前が変わり、国際空港もヤンゴン国際空港と名前が変わったが叔父の滞在中はミンガラドン空港という名前だった。へホという地方空港も2012年11月に行った。今は観光地インレ-湖へ行く人たちの空港である。山の中の平地にあって特攻した叔父の航跡を知っていたらとてもミャンマ-の旅は心落ち着いていけなかっただろう。まだ2012年当時は叔父の軍歴は知らなかった。戦後75年経てば先の戦争の傷で心に秘かに隠していたことが記憶の檻から解放され、公になってきたようだ。ろくな装備がなく無理な作戦で連戦連勝の報道に騙され、必要のない死を強制されていたと今では思えるが当時はやむに已まれぬ大和魂と思わされていたようだ。特攻隊員の遺書はいつも家族の行く末を祈っている。
 叔父の遺書らしきものはまだ見つからない。何か幽霊なものが存在していて、記録と記憶を残せとあの世から指図されていると感じる。
 戦後75年過ぎれば歴史の世界に入りつつある。写真とかで記憶を戻すしかない。
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家族の言い伝え 父の徴兵検査

2020年09月22日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
母からの言い伝えの中で父の徴兵検査の話がある。明治43年生まれであった父の徴兵検査は大正の終わりか昭和の初めにあったと思われる。まだ日中戦争が激化する前だったので、父は徴兵検査で落ちた。落ちた理由は偏平足だった。陸軍は長い行軍に耐えられないと判断したようだ。
昭和の戦況悪化で運転免許があったため、昭和20年2月1日に横須賀海軍に入隊した。物資を車で運搬する仕事だったようだがすぐに軍隊虐めがあって、特攻に行った弟が陸軍航空士官の資格で面会があったのち、横須賀での上官の理不尽ないじめが無くなったという。今はこの話の詳細を覚えていた母も触れたくはないようでこちらからも質問することは無くなった。
 日中戦争が拡大しなければ・・・・・・叔父は埼玉県の教員であったと思われる。卒業後の新聞辞令が今は空しい。たった一か月の小学校教員だった。
  
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BS11 台湾ドラマ アニキに恋して 

2020年09月04日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
何気なく台湾ドラマが録画の操作ミスで、記録されていた。BS11 アニキに恋して で9月1日に放映していたところではドラマの親族が年一回会合する場面で日本家屋のような所で撮影していたようだ。チラット写る所から周囲は高層の建物があるようで、庭園には竹が植わり、フスマや畳があってそれでも戦前の建物とは思えないくらい新しい感じがした。ひょっとしたらこの撮影場所は台北の戦前の日本料理店紀州庵ではないのだろうかと思った。今コロナで現地に行って確認できないが再建し台湾の文学館となっている。ここが紀州庵とすれば叔父の昭和20年4月から5月の中旬に特攻前の最後の晩餐をしたところだろう。記念撮影は特操一期生史写真集にあって、高橋大佐を中心として前列は5月20日に沖縄嘉手納沖に特攻した5名と誘導機の1名、後列には7月に特攻した人と飛行機整備の人たちと思われる。
 誰かこのBS11での台湾ドラマ「アニキに恋して」第14話  仙女に恋して(下)の撮影場所が紀州庵と確認できないのだろうか。
このドラマで日本料亭の畳の部屋の中を男優や女優が靴を履いたまま歩いていた。台湾では靴を脱がないのだろうか。
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特攻で死んだ叔父へ

2020年08月15日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
今日、戦争が終わって75年になる。昨年から娘の後を引き継いで叔父と父のことを調べていたがコロナで中断し、75年の節目に終わらなかった。
 昭和20年2月のある日に父と叔父が横須賀海軍基地で面会し、何を話したかは今は誰も知らない。この前下北沢であった、作家のK.Kさんの話では2月にはすでに陸軍の特攻計画が204戦隊に通告していたという。5月20日の特攻仲間の遺書があれば、確認できる。これも知覧の遺書保管の引き出しを開ければわかるという。知覧にも行けないもどかしさで時間が経過する。
 先妻を昭和20年1月21日に亡くした父とこれから死を予定した特攻する叔父とどんな話をしたのだろうか。負け戦を話せない所で何を叔父が父に委託したのだろうか。戦後私が生まれ、叔父を産んだ祖母の元に連れて行ったのは叔父の生まれ変わりとして連れて行ったのだろうか。記憶では東武野田線武州川辺駅の記憶が残る。ここは昭和25年に廃駅となり、移動し今の東武野田線南桜井駅となっている。
 特攻の遺書は親族の話では無いという。しかし、K.Kさんの話では遺書は皆が全員とも言って良いくらい書くもので戦後に事情があって処分した例もあるという。すべては理不尽な戦争だった。死んだ叔父も生き残った父も過去を伝える資料が消えて、勝手な解釈の記憶が残る。正しいか間違っているかはまだわからない75年の節目である。特攻が無ければ戦争が早く終わり、広島・長崎も無かったと言うのもある。特攻が無駄死にとか犬死にとか言われると子孫は切ない。叔父に代わってあれしか選択の無かった23才の青春だったと言いたい。叔父は特攻したので記録は各地に残るが、叔父の特攻隊の誘導機は未帰還で記録に残らず、消える。ただの戦死扱い。
 米軍の記録では日本の知覧と台湾八塊から出撃した特攻機の十数機で5月20日は米軍の5隻の船が破壊され、米軍戦死者行方不明者多数(百名以上)出している。米軍従軍記者アニ-パイルが戦死した伊江島海岸で物資.兵士輸送船USS.LST808の5月20日の特攻されて燃えている写真が今に残る。
 アニ-パイルパイルは今でも沖縄に地名として残る。アニ-パイル国際劇場から国際通りの名前が残る。
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YOUTYBE動画で特攻遺書(作られたと思う)

2020年06月01日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父が台湾から特攻出撃したのは昭和20年5月20日夕方であった。この日は知覧から陸軍の特攻もあって、ほぼ同時間に沖縄嘉手納沖に向かった。戦死の時間は夕方の日没前後だろう。
 この特攻が日本の新聞に掲載されたのは5月末か6月初めで、このことから米軍の被害を受けた艦船の著書には知覧からの攻撃しか書かれていない。台湾と知覧からの出撃は両方とも一式戦闘機隼だったので米軍では台湾から来たのと知覧から来たのは区別できていなかったようだ。この5月20日頃は沖縄の梅雨末期で知覧は晴れて、台湾から沖縄は雲の多い天気かもしれない。当時の天気予報で沖縄は戦闘中で天気情報は最高機密なので米軍資料を調べないと判断できない。
 YOUTYBE動画で特攻遺書(大石清伍長から孤児となっていた妹への手紙は感動的だが、一部の聴取者が疑念をもって調べたようだ。・知覧と万世特攻基地からの名簿には大石伍長の名前がない。特に5月20日となっているの気になる。誰の創作なのだろうか。動画となって拡散され、そのまま後世に残るのは同日特攻した遺族を悩ます。
 今韓国で慰安婦の問題で渦中の人物が以前特攻した朝鮮人に感動し、死後に結婚したという報道があった。台湾からの特攻は少なく、またとんでもないところから調べる必要が生じた。知覧特攻平和会館 の特攻隊員1036名には何人かの朝鮮人隊員がいる。同期の仲間だから慰霊祭に招待され参加している。
 
大石清伍長「妹への手紙」は数々あった特攻隊からの聞き書きから創作したとまだ存命中の著者から発表してもらいたい。多くの特攻遺族は戦後の特攻に対する評価の格差が激しく、口をつぐんだままの人が多い。生き残った特攻隊員は戦後も語ることは出来たが遺族は無駄死にと言われた傷が今でも残る。特に飛行機乗りは数学もでき。英語もでき体力もあって生き残れば戦後の苦しい生活を少し緩和したという思いが残っている。

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令和2年5月20日は何という日か

2020年05月21日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
99歳の母の皮膚病が酷く、空いている皮膚科に3人かかりで連れてゆく。本日の自粛行動で外出は犬の散歩とこれだけの予定であとは特攻した叔父の資料調査の再準備で何もない日になる予定だった。夕方二つのニュ-スが入った。
 1月の台湾総統選で再選した民主進歩党(民進党)の蔡英文総統は5月20日、総統府での就任式で宣誓し、政権2期目がスタートした。
 あと夏の高校野球が開催中止となった。
5月20日は叔父の特攻命日で台湾から出撃した日だった。 2019年7月4日(木)アメリカの独立記念日・日本テレビの夕方の放送を見ていたら、台北の日本料理店・紀州庵が特攻した隊員の宿舎で出撃した6人の隊員の集合写真が放映された。父の写真帳に残っていた写真と同じだった。今はこの写真帳の中身を知る人はいないので写真の張ってある理由が長い間不明だった。 今はこの写真に写っている人物の名前と当時の階級まで知ることが出来る。出版されているのだ。この写真の父が所蔵している由来は不明だが想像では戦後に栗原家を訪問した航士55期の人で写真の中央に写っている人が栗原家に持ってきたものと推測される。叔父の軍歴から昭和20年4月から5月の間で陸軍飛行二百四戦隊の同期の人たちと思う。
 知覧から特攻した台湾人が一人いる。この人は戦後日本人として特攻したのに軍人恩給が支払ってもらえないとユーチュ-ブで台湾・特攻と検索していたら出てきた。いずれ台湾へ行って、叔父の特攻した基地の石を叔父の何も入っていない墓に入れたい。知覧の陸軍特攻隊員1036名の中には朝鮮人の数名の特攻隊員もいる。台湾の人も含まれているのだろうか。
彼らは戦後に日本政府によって日本人扱いは外され、又朝鮮からは裏切り者として糾弾された。知覧では今同期の仲間として扱っているようだ。
 さらに夕方のニュ-スで高校野球が夏の甲子園開催が中止となった。これで9月入学が無いと高校3年生は落胆するだろう。
 親族にくそ真面目な高校野球の制度を作った人がいる。甲子園で敗者となった球児が土を持って帰る映像を見た人は多い。この逸話を作った人が親族にいる。今京都の本能寺にこの人の墓がある。今年のNHKの大河ドラマは明智光秀である。
 高校野球でまだ日本に復帰していない時代に沖縄の敗者となった球児が持ち帰った甲子園の土は検疫という理由で捨て去ることを占領していた米軍に強要された。1958年夏の第40回記念大会ということでまだ米軍統治下の沖縄首里高校が甲子園に出場し、一回戦で敗退した。検疫問題で沖縄上陸前に甲子園の土は目前で捨てることを強要された。
甲子園出場記念の碑が日本の石で作られ首里高校にあるようだ。これも沖縄に行って見てみたい。
 5月20日は普通の日だが家族にとって大切な思い出のある一日となった。
組織の上層部の判断で子供の夢が消える。叔父の特攻へ志願したわけではないと資料が出てくる。小学校の先生になる夢がかない一月ほど先生(越谷市立大袋中学校と思う) をしたようだ。しかし時局の切迫で視力が良かったため、欠員が出て埼玉師範学校のメンツのために、陸軍特別航空士官1期生として一月ほど遅れて入隊したようだ。軍歴では他の一期生が10月入隊だと思うが叔父の軍歴では11月1日となっている。この件で靖国神社で調査する必要がある。一期生のアイウエオ順の特攻した人には叔父の名前があるが全員の名簿には見当たらない。漏れかもしれない。遺書のないため色々な想像が出来る。叔父の人生は歴史に翻弄され、誰も知らないで記憶と記録が消えることだった。
 先の戦争で戦友の無残な死を目撃した下級兵士は悲惨さを家族に語ることもなく人生を終えた人が多い。そして高齢になって初めて心の整理がついて、記録も記憶も消えた人を呼び戻そうとした人が目立つ。

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南鹿児島市知覧町から慰霊祭案内状

2020年02月18日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
今年も南鹿児島市主催の特攻慰霊祭の案内状が来た。もう10年は来ている。遺族の新参でまだ雰囲気にはなれない。家族の中でも特攻の評価はマチマチで年々評価が変わる。今年は終戦75年で死去した戦士を見ていた遺族は年々減り、写真や言葉で知る人の時代となった。戦後の特攻遺族に対しての周囲の冷たい目は今蔓延している新型肺炎館患者を胡散臭い目で見ていると同じ感じがする。
 もう75年と思うかまだ75年と思うか。最近はもう75年と思うようになった。2次的記憶のある人も年取った。戦後の特攻評価の中で犬死論を聞いていた世代だ。家族の中で秘かに伝えられた記憶が今表面化する。
 知覧に遺影が残っているのは叔父の家族の提供ではない。多分戦友が持っていたのが遺影として展示している。戦後家族は特攻死を受け入れてはいなかった。本人より生きて帰るという言葉を信じていた。集落の人が九州に旅行に行って知覧の遺影写真を見て遺族に報告が行って、初めて特攻死が現実となった。
 知覧と靖国神社の遺影の前では自宅では出ない涙があふれる。なぜ生きて帰るという約束を守れなかったかという生母の声も聞こえる。特攻した本人と交わした言葉を1次的記憶のある人は今でも夢に出てくるという。米軍の記録画像を見ると叔父の飛行機かと思う時もある。
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