年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

5歳児のカスリ-ン台風の記憶

2023年05月21日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
5月20日沖縄嘉手納沖で特攻死した叔父の墓参りを春日部市にある墓地に参拝した。雨模様で墓に着いたとき、線香が燃え残っていた。誰かが来たようで、花を添える準備をしていたら、何か人の気配があって、こちらを見ていた。そこで名乗ると相手は3歳児の時、叔父の出征記念写真に写っている人だった。双方とも記憶は薄れていて30年ぶり50年ぶりの遭遇だった。聞くと毎年命日に墓に来ている様だ。23歳で特攻死して家族を作っていないので寂しかろうと思ってきているという。打ち合わせで行ったの無いので、叔父の引き合わせと想い、急遽予定を変更し、近所の家で思い出話となった。
 そこで親族の中で特攻死した件でどのように聞いているか聞くとあまりこの話題には触れることは無い様だった。戦後の混乱期に男手を失い苦労したようで、5歳くらいの時のカスリ-ン台風の被害の記憶がまだ残っていた。
 墓参りの朝に東武春日部駅の近の春日部市郷土資料館で市史の庄和地域の近現代史を購入する。この本を根拠として、叔父の遺書・遺品等が処分されたと推測を行ったとこと、否定はされなかった。戦後の地域の経済状況はそんなことを考えるのでなく遺品等は処分し、写真だけ残したようだ。
 きむらけんさんの著書を送ることを約束し別れた。天国の存在は信じていないがまだ成仏していないので我々生きた人にいたずらしている様だ。

 墓に刻まれている戒名は
 徳晃院忠烈義道居士
この戒名を付けてくれた住職からの戒名の由来は伝えられていない。しかし徳晃院は特攻・トッコウと読める。忠烈はきわめて忠義の心の強いこと。 
 そして義道は三国志演義の「我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年同月同日に生まれることを得ずとも、同年同月同日に死せん事を願わん。皇天后土よ、実にこの心を鑑みよ。義に背き恩を忘るれば、天人共に戮すべし。」 を思い起こす。叔父が多長で他の4名の同志と沖縄に向かった。
 台湾桃園市は八塊基地に近い所にある。日本の旅行者が台湾の国際空港に行くのは桃園市である。
 観喜院の先代の住職は戒名を付けるときどこまで知っていたのだろうか。

 墓を作る時は特攻死したことを知っていたが嘉手納沖ということは理解していないと感じる。沖縄と台湾の間の海底にいるのだろう。 
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