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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

江戸の東部地区 農業

2006年03月28日 | 趣味としての漬物
 利根川は江戸時代始めは東京湾に流れていた。太平洋に直接、流れ込むようになっても、江戸の東部の地域はたびたび水害に襲われた。葛飾区は江戸末期、田畑の耕地面積は全区域の63%を占め、水田と畑の耕作比は7対3となっていました。
 江戸の人口が増加するに伴い生鮮野菜が不足し、幕府はそのため天領の一つに葛飾を選びました。そのこともあって大消費都市江戸への野菜供給地としての役割が強まっていきました。江戸の東部は水路が発達しており、タ刻までに船に積み込み、夜間に運び、早朝市場に持ち込むことができました。坂の多い陸路を馬,大八車にたよる西部より運搬に有利だったようです。現在の東京で青果市場の物流システムと同じ前日取れた野菜を翌日青果市場で販売されました。。
 また、水運を利用して江戸からの下肥が持ち込まれ(下肥運搬船を葛西船と呼ぶ)、大量施肥による野菜の通年栽培が始まり、土地生産性の飛躍的な向上は、この時期に始まりました。また,江東の地域では初物作りが盛んになり、現在でも通用する野菜の促成栽培が始まりました。
 金町・新宿のねぎ、堀切のかぶ、上小松(東新小岩)の小松菜をはじめとした各種つけ菜、細田・曲金(高砂)のなす、猿ケ又(西水元)のもろこしなど、荒川区では三河島菜、江東区は亀戸大根等、産地形成の努力がありました。野菜などの作物は生産者が直接消費地(市場や料亭など)に持ち込んでいました。
農家の消費者への直接販売は、消費者の下掃除を通じて肥料の確保図る。東京の農業の特色です。 

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明治前半の大根栽培

2006年03月27日 | 趣味としての漬物
明治維新によって、江戸末期の130万人程の人口が50万人程の東京となり、すっかり寂れた。更に横浜の開港に伴い、物資が江戸を素通りし、横浜に荷物が集中し江戸の物価が高騰した。また,維新前後の江戸市中の治安は悪く、更に人口の減少を招いた。
 練馬の大根と沢庵漬を出荷していた農民には大打撃であった。先ず、半数の消費者を失い武家屋敷や町民からの下肥供給源の半減と青果市場や沢庵問屋への出荷減となった。また、練馬より、東京に近い輸送に便利なところが大根の産地となり、練馬の大根栽培は一時的に衰退する。そして,明治政府の奨励で茶、桑,藍の栽培など他の作物に転換している。
 しかし、明治5年調査の「東京府資料」によると、沢庵漬の生産額は現在の練馬地区だけで東京の80%を占めていて、地場産業として括弧たる地位を占めていた。また、干大根は中野区と練馬区で東京の70%を占めていた。生大根は新河岸川の舟運を利用していた、板橋区と北区が多かった。今では大根の産地として考えられないのだが、明治の初期には千駄ヶ谷、渋谷、雑司が谷、王子、十条などの地が産地だった。池袋は大根種子の生産地であった。
 明治の東京は維新の混乱も西南の役(明治10年)が終わった頃、人口も江戸時代を超えたが練馬の大根栽培は北区や池袋、雑司が谷などの東京により近い所に需要を取られていた。明治20年頃になると人口の増加で東京に近い産地が住宅や工場用地となり、再び練馬が大根の産地として復活する。
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泉州(大阪府南部)の漬物用すいか

2006年03月24日 | 趣味としての漬物

なら漬の中に入っている小さな丸いものが西瓜のなら漬です。小玉の西瓜は源吾兵衛西瓜(すいか)という特別な品種です。

源吾兵衛西瓜は泉州(大阪府南部)源吾兵衛さんという篤農家がおられ漬物用の西瓜の品種改良に努力を重ね作り出したで,現在この偉業と努力をたたえ今も源吾兵衛西瓜.と広く呼ばれている。産地としては紀ノ川の河口あたりから泉州地方で栽培されている。京都の老舗の漬物屋の社長さんの話では近年、鳥取県の砂丘が適地でもあり、かなり栽培されている。源吾兵衛西瓜は早朝の気温が上がらないうちに収穫しないといい品物が出来ないし,すぐに大きくなり、漬物としての商品価値がなくなるので西瓜の大きさを測りながら高齢の生産者が朝取りしている。源吾兵衛西瓜は塩漬けのときに一部に穴をあけ、塩が西瓜の中に浸透するようにして漬け込む。漬物にするときは塩抜きして、主に西瓜なら漬として生産される。京都の西瓜の茶丸漬は源吾兵衛西瓜があるとき消費者の嗜好の変化で西瓜の原料が余り、困り果てていたのでなら漬以外の商品として開発したもので、鳥取県の高齢者農民のために今後も国産原料のみで製造しようとしている。なお普通の西瓜を摘果しても源吾兵衛西瓜のように漬物の原料として到底品質に及ばない。
泉州(大阪府南部)は伝統野菜の宝庫です。源吾兵衛西瓜(すいか)のほか漬物用野菜があります。近年、その野菜の復活が図られています。


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江戸・八百善の香の物(漬物)

2006年03月22日 | 趣味としての漬物
八百善は文化文政の頃(19世紀初め頃)に江戸で繁盛した料理屋です。料理屋を開業する以前の八百善は、明暦の大火(1657)後に、で八百屋を始め、八百屋の善四郎の名から八百善とよばれました。
江戸時代・文化文政の景気の良い時代の頃、贅沢な食事に倦きた客が八百善の座敷に上がって極上の茶漬けを注文したところ、少々お待ちください言う。客はどんな茶漬け来るかと期待して待ったが、一向に料理が出てこない。そうして、半日も待たされてやっとお茶漬けと香の物(漬物)を食べることが出来た。その香の物というのは、春には珍しい瓜と茄子の粕漬を切り混ぜにしたもので、八百善らしい美味しい味であった。さて帰る段になって勘定を聞くと1両2分(現在の価格で約10万円)だという。驚いた客が問いただすと、八百善の主人が出てきて説明した。 季節外れの珍しい(温室栽培)の瓜と茄子を使い、茶は宇治の玉露、米は越後の1粒選り、中でも最も金のかかったのはお茶に使った水だと言う。宇治の上茶に合わせるには江戸の真ん中の水ではよくないので、わざわざ早飛脚を仕立てて玉川上水の取水口まで水を汲みに行かせたと言うのである。そのため時間もかかったし、運賃も高くついたわけで、それを聞いた客は"さすが八百善"と感心して帰っていったといいます。当時、玉川上水は途中で分水され、末端では必ずしも良い水質ではありませんでした。
 江戸時代・八百善は江戸の料理屋番付では別格扱いでした。


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皇太子氏殿下の講演

2006年03月20日 | 趣味としての漬物
メキシコで開催された世界水フォーラムにて,3月18日皇太子殿下が「江戸と水運」をテーマとして講演した。江戸の環境が保たれたのは郊外より食料を舟運により運ぶ一方、江戸市中より下肥を肥料として、郊外に舟で運搬し循環型社会を作り、江戸の水質の汚濁を防いでいた。このような趣旨の基調演説を初めて講演したと新聞は報道している。
大根河岸から豊洲までをテーマとして、伝統野菜を追いかけると、同じ研究になってしまうのは驚きである。江戸時代は今と違って、舟運が安価に重い品物を運んでいた。重量野菜である大根は大量の肥料が必要となる。下肥の問題も練馬大根の歴史を調べると避けて通れない問題となる。
 昨年、韓国と中国との下肥による寄生虫キムチの問題はまだあとをひいて、国内の漬物需要はまだ元に戻っていない。一般の日本人は下肥の不潔なものとして思っているだろう。しかし、ほんの25から30年前は、日本でも畑に撒いていて、下肥を使用していない野菜は清浄野菜として販売されていた。つまり化学肥料のみ使用して栽培していることが良いと思われた時代だった。
 下肥については、どのように記述すれば良いか只今研究中。戦後,西武鉄道,東武鉄道、舟運による下肥を輸送していた。また、海洋投棄も東京都は最近までしていた。東京都葛飾区の「葛飾区郷土と天文の博物館」で、特別展『肥やしのチカラ』(平成17年年3月20日~5月8日)での展示で東京都による糞尿の海洋投棄は平成9年3月末で正式に終了したという。
 寄生虫を防ぐため,合成洗剤を使用して野菜を洗っていた。大量の合成洗剤の使用で、河川や琵琶湖等の水質が汚染された。江戸時代のほうが循環型社会として進んでいたと思われる。

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缶詰規格 漬物 (戦前)

2006年03月17日 | 趣味としての漬物
戦前・漬物は海外に輸出するときは、主に樽詰めか缶詰で輸出していた。行き先としては、日本人が移民していた国や朝鮮・中国・台湾・南洋諸島が多かった。行き先として布哇という地名が良く出てくる。

輸出漬物缶詰は京橋にあった川村与兵衛の漬物缶詰が知られている。ほまれブランド(川村与兵衛)の沢庵はアメリカに向けて輸出されていた。
戦前の漬物缶詰の規格
缶詰要覧より 横浜開港資料館所蔵
葉唐芥子味付け
しょう油の良否,質の多少を主として見る。大きく実のないこと,あっても小さめがよい。味は軽い辛目を持ったもの、なるべく葉が多いほうがよい。
福神漬
まず,香気の良否を見る。沢庵臭の残ったものは良くない。光沢はなるべく自然色でよいものが良い。味醂や飴を使用したものは光沢が出る。しょう油の良否、混合材料の種類、刻み方、歯切れの良否を見る。
味醂漬、奈良漬
原料、味醂,酒粕の質、色合い、歯切れ等も見る。始めから粕漬にしたものは半透明で、塩漬後脱塩しアルコールに漬けたものは鼻を刺激する。
芥子漬
加熱期間が長ければ、歯ごたえがなくなり、歯ごたえを良くすれば膨張しやすいので、長期の保存は困難である。この漬物の特徴は,噛み締めるときスッと鼻に締め付ける辛い匂いがよいので品質の良否を決定する用件である。ナスはちいさい物で丸いものが良い。

昭和の終わり頃、グアムに日本人観光客が多数旅行していたとき、定期的にベッタラ漬が航空便で行っていた。グアムに行ってまでなぜベッタラ漬食べるの?と質問したら辛く味付け,スライスして現地の人が食べているよ答えが返ってきた。川村与兵衛さんの缶詰漬物の中にベッタラ(浅漬大根)漬があった。パラオ諸島は戦前、日本が信託統治していたので漬物が行っていた。今でも人口が少なく、日本人の観光客もあまり行かないのに沢庵漬の注文が来る。
現在、日本で漬物の缶詰は福神漬位で、市販の店では手に入れにくい。ただ、自衛隊では戦闘食の中に沢庵漬と福神漬の缶詰があります。特にタクワンの人気があるようです。

布哇とはハワイのことである。
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おにぎりの具

2006年03月15日 | 趣味としての漬物
日本の食文化は米(=石高制・税金)食文化とも言えます.ただ実際、日本全国民が何時でも好きなだけ米が食べられるようになったのは30年前(1970年頃)からです。
米を食べる地域でも粒食文化と粉食文化に分かれており、米の種類にもねばりのあるジャポニカ米と、ぱらぱらのインディカ米とがあります。粒食、しかもジャポニカ米を食べているのは日本ぐらい。おにぎりは平安時代の頓食(とんじき)が起源といわれています。この頓食は戦国時代の兵士や畑仕事の携帯食として用いられたようです。
日本兵食史 上巻 陸軍糧秣本廠 33頁 
米について見るに、播磨風土記に粳岡または糠前の地名伝説として見ゆる粳、糠は今日云う糠と異なって、籾殻も混在した糠であると考えられる。わが上代人もまた木製の舂(ツキ)に木製の杵を以って籾米をついて籾を取り去ったもので、その結果は現時の如き玄米と同一であったとは考えられぬ。すなわち搗く事は籾殻を脱落せしめると共に、幾分の糠も取れるという程度であったろう。奈良朝から平安朝にかけて、史に見ゆるところの黒米・白米などはこの搗き方の程度に関係しているもので、白米といえども今日のごとく精白された白米と相違して、単によく搗かれて、白き米となった位のところであろう。而して、黒米は、籾殻も混在して底のもので、これが常用されていたものであろう。

125頁
平安朝時代
主食品たる米の精米は、既に上流階級の間に行われていた。これは臼で搗いて白くしたものであって、勿論現代の如き白さの程度が異なっている。同じ臼で搗いても、その程度の少ないものが黒米とすれば、多く搗いて白くなったものが白米といわれたものであろう。これらの米は甑(コシキ)にいれて蒸して食用に供するのが普通でこれを強飯(コワイイ)と呼んだ。而して鍋や釜やで煮たものを粥と呼ぶのであるが、現代人が炊事する場合にも硬軟あるが如く、この時代には、この二者の程度が著しく離れて行われたものの如く思われる。即ちよく炊かれたものを姫飯と呼ばれているが、この姫飯は大体平安朝末期より行われたものの如く、強飯に対照するものである。粥は上流貴人が朝食などに摂取する場合が多く、今日と同様に病人の食物でもあった。カタシキ飯なるものは、文字通りに堅く炊ぎたる飯で、即ち半熟の飯である。
 糒(ホシイイ)は貯蔵用に又兵食として前代から多く利用されたのであるが、今期に至っては比較的需要が少なくなった傾向が見える。それは粥やカタシキ飯やその他雑穀の飯などが鍋釜によって作られるという改革が食物界を風靡したからである。従って、糒は旅行用又は貯蔵用としてのみ、その生命が保たれることになった。これは平安朝末期から顕著になったと様に思われる。糒は冬には湯をかけて食するため湯漬といい、夏日は水に入れて食べるが故に、水飯又は水漬と呼ばれる。強飯の場合も同様に呼ばれた。
 屯飯(握り飯の様なもの)がこの時代より行われた。要するに簡便に食事をさせる為に作られた包み飯である。
 しかし、これらの食事は京師中心のものであって、一歩地方に出たならば、どの程度ものか明らかでないとしても、相当に低下されて見るべきである。と言っても、徳川期の如く麦を主食としたということは無い。麦はその収穫も少なく従って値も高かったからで、農民も亦米を主食としていたものと思われる。

漬物は米食と共にある。従って、米の歴史に影響されます。兵食の中でおにぎりの具の基本は漬物で、特にすっぱい梅干です。
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一夜漬  ”曽根崎心中“ですよ

2006年03月14日 | 趣味としての漬物
 世間を騒がせた事件をすぐに劇に組み替え舞台にかけた作品いう。際物(きわもの)狂言、一夜漬狂言。世話物(せわもの)とも云う。
歌舞伎狂言,人形浄瑠璃の内容による分類の一つ。時代物に対する称で,江戸時代の町人社会を中心として扱った,当時の現代劇である。上方の世話物は,一夜漬狂言などといわれ,世間を騒がせた事件を直ちに舞台化した。
一夜漬狂言の代表作
  近松門左衛門の「曽根崎心中」は庶民を主人公にした心中物・不義物・処刑物などを「世話浄瑠璃」と呼ぶようになった画期的な作品である。
 元禄16年(1703)、大阪の曽根崎・露(つゆ)天神の森で、堂島新地の遊女・お初と醤油屋の手代・徳兵衛の心中事件が起こる。
 経営不振で悩んでいた大阪の人形浄瑠璃の竹本座が近松門左衛門に「曽根崎での心中を浄瑠璃にしてくれ」と頼んだ。脚本を頼まれた近松はわずかな日数で台本を書き上げ、心中から1ヶ月後に竹本座で初めての心中物「曽根崎心中」を上演した。
 曽根崎で心中があった時、近松は、竹本座の知らせで心中現場に向かうため、舟に乗った。近松は舟の中で事件のあらましを聞くや、早々と原稿を出して書き出したという。(一夜漬の由来)
 経営不振に陥り借財に困っていた竹本座は、この1作で一挙に借財を返して立ち直ったほどであった。

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江戸 野菜の輸送

2006年03月11日 | 趣味としての漬物
江戸の東の地区は舟運によって野菜は運ばれたが、西山と呼ばれた江戸城西方の野菜の輸送手段は牛車と大八車・馬による輸送だった。
江戸の牛(都史紀要32)より
西欧社会と比べて、車両交通の未発達は江戸時代の特色である。
国史大事典4 943頁 吉川弘文館出版
江戸は徳川家康の入国以来、大津牛を招いて荷車に使い、建築資材を中心として輸送にあてたが,大八車の普及につれて、地名としてその面影を残すにすぎなかった。
 江戸市中に大八車が使用され始めたのは明暦の大火以後、江戸の復興工事のときで、寛文2年刊の“江戸名所記”には
このころ地車といふ物を始めて、牛をかけず、車に荷物をのせて人八人してこれを引く。江戸市中我も我もとこしらえて、その車の名を代八と名づけて用ゆ。牛に変わりて八人して引かすれば、江戸市中の馬借馬子は、地車を嫌がり憎みて、代八を引くものを、人畜生と罵るとかや。
また、守貞漫稿によると
(世事談)に曰く、寛文年中、江戸にてこれを造る。人8人の代をするを持って代八と名づく。今は大八と書く。その頃、宮中にて讒言して云う、人をして牛(午)のごとくならしむ、云々。

代八車は飼料代もかからず、車引き,車力の賃金も安く、狭い道路も自由のいけた。急速に増え、伝馬町の助馬制度を脅かす存在になった。後に大八車に極印し口銭を掛けた。
元禄時代に極印賃徴収が中止されると、荷物の区分を提案し伝馬町役人は馬持ちの荷物の確保を図った。
伝馬役所 伝馬助役に影響あるもの
   牛荷車を抑える 馬持ちの人を減らさないため
   牛荷車の方が積載量が多い。
   牛の購入代金と飼料代が半額と安い。
   放置すると馬持ちが減り、伝馬の公儀御用に支障をきたす。
   伝馬制度を維持するため幕府は馬持の保護政策となる。
現代の築地市場には大八車はないけれど小車が水産仲卸の狭い場所で活躍しています。その理由の一つとして、大八車の便利さ同じ理由です。駐車が楽、ガソリンがいらない、一方通行逆行できる、免許がいらない等です。

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お茶と砂糖

2006年03月09日 | 趣味としての漬物
お茶が伝来して、本格的に茶を栽培し普及に力を注いだのは、鎌倉時代.栄西上人が宋から茶苗を持ち帰えったことに始まります。茶と菓子を一組にする喫茶の風習は茶の湯の流行をもたらし、茶を中心の室町時代の趣味は、宋元両国の文化と禅宗の風格と合致して茶道に体現された。茶道の流行は戦国時代に至ってその極に達しました。
江戸時代に入って元禄の頃までに、菓子は目覚ましい発展を見せたといわれます。日本の砂糖製が造ヨーロッパと違うのは、日本人は奴隷労働に頼ることなく、すべて日本人の手でしたことで、讃岐では独自の方法で三盆白(現、和三盆)という白砂糖を作ることに成功した。こうして幕末にかけ砂糖生産は讃岐、阿波、和泉をはじめ全国的に増産を達成したが江戸時代を通じて、所得の低い庶民にとって砂糖は高級消費財であって、戦前までずっと季節の贈答品やお祝い用の品など、貴重品として扱われていたのである。

和菓子の急激な多様化の原因として考えられるのは、まず落雁類や求肥、それに南蛮菓子といった新しいレパートリーが加わった事があげられます。また製粉用ひき臼が渡来し、米粉の製造も可能になり、蒸すという技術も向上していきました。それは道明寺粉や寒ざらし粉(白玉粉)などの新しい米粉が創製されたことによって可能になったものでした。
 こうして饅頭、落雁、羊羹は完成品として世に出され、確固たる菓子の地歩を築きました。茶道の興隆に触発された和菓子は、この後茶道と共に発展しました。その背景には国内砂糖生産の急増があり、技術の進歩とあいまって、和菓子は完成の域に達しました。近世城下町各地において、藩主の「茶の湯」とともに発展した和菓子は、砂糖を素材とした芸術作品で、日本が世界に誇る砂糖文化であり、茶の文化である。
 明治時代に入り、不平等条約による砂糖の低関税によって、開国に伴い砂糖の輸入の増大、価格が低落し、菓子の全盛期をむかえ、一般庶民に広く普及しました。と同時に生産性が低く,価格の高い国内の砂糖産地は破壊されました。
現在、野菜や果物の甘味がどんどん増しています。甘くすると高く売れるからです。甘味に対する願望、これは昔、日本人が米に対する願望と似ています。

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砂糖と土産

2006年03月06日 | 趣味としての漬物
江戸時代は砂糖がまだ貴重な時代で贈答品や献上品として用いられ、初期は輸入品であった。16世紀までは、中国、シャム(タイ)、カンボジア等から輸入していて国内では全く生産していなかった。国産品が増えてきたのは17世紀には入って、1727年八代将軍吉宗はサトウキビの栽培を奨励し、各地に砂糖の産地が出来る。和糖の始まり。ぜいたく品であった砂糖は次第に日本各地の名物に砂糖を使用した菓子類を生んだ。庶民が口にするのはハレの味で行事の時か、旅に出たとき食える。寺社の門前にある茶屋の茶受けとしてアンを用いた菓子を口にして広まった。旅の情報紙として挿絵と文章の入った地本や引札(商家や商品を広告する刷り物)が発達し旅先で名物を食べたりする事になった。菓子の類が名物から土産になったのは交通手段が発達してからである。
明治時代に不平等条約の開国によって砂糖の関税が抑えられ価格が暴落し、砂糖を使った甘味が庶民まで行き渡った。砂糖の歴史は糖業の歴史であり、国の経済・財政・徴税政策の歴史である。そのことを理解しないで、食品の一つととらえたととき、理解に苦しむ歴史となる。東京・中央区の“べったら市”の歴史を調べるとその意味が解る。

最近、甘いもの離れで観光地において各地の土産として漬物の土産が増えてきているのは高齢化社会を迎えてみやげ物業者の努力の賜物である。塩分を押さえ、他の観光地にない商品開発した結果である。

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干し大根

2006年03月05日 | 趣味としての漬物
冬になると大根は辛味が消えて甘味が増します。江戸時代、束ねた干し大根が、いくつもいくつも舟から京橋川を通り河岸に下ろされました。江戸庶民の人気の高い大根の入荷が多かったので大根河岸と呼ばれたという。江戸の初めの頃は大根の品種は三河の大根であったが、江戸時代中期から練馬大根に次第に切り替わり、江戸末期には亀戸大根を意味していた明治時代は三浦大根が有名であった。江戸の人口が増加するに伴い生鮮野菜が不足していたので価格の安定していた大根は庶民の野菜でした。
 江戸では、沢庵漬を作る場合は、干しだいこんを購入して加工していました。生産地では、干すことによって保存性が高くなり運搬が容易になる上、出荷時期を遅らしたり、付加価値を高くして(沢庵漬けにする)売れるという利点もあったからです。
 また、乾燥することにとって、だいこん自体が持つうま味成分が凝縮され、米糠、食塩で漬け込むことにより発酵が進み「苦味」や「アク」が抜け、独特のうま味が加わり美味しく食べられるようになります。今でも、暮れになると築地市場に群馬の空っ風によって干された大根が入荷します。今時、東京のどんな人が家庭で漬けているのでしょうか。
 

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肥料 江戸はリサイクル

2006年03月04日 | 趣味としての漬物
野菜の中で大根は重量野菜に分類される。肥大した根はその分、畑の養分を吸収し、肥料を施さねば、すぐに収量が減る。従って、大根栽培は安価な肥料の確保が重大となる。練馬大根の歴史には肥料の確保の歴史が必要となる。

江戸は今から思うと資源の循環がよくなされていた社会であった。
軍事物資であった塩を確保するため,千葉の市川・行徳に塩田を開発し、その輸送のために江戸と市川を結ぶ通路として小名木川が掘られた。江戸市民の出した廃棄物は拾い屋といわれる人々が回収して販売していた。燃やした灰まで回収していた。「かまどの灰まで俺のものだ」と言うセリフはこのことから来ている。灰まで取引されていて,あく抜き用や染物用に使われていた。それでも残った江戸市民の出したごみや水路の浚渫した土砂は今の江東地区に埋め立てられた。集められたごみが発熱して野菜の促成栽培用の熱源となった。また、江戸市民の糞尿は野菜栽培の肥料として,価値ある商品として取引されていて,下肥(糞尿)の価格の上昇は野菜栽培農家にとっては重大な問題であった。わが国において,下水道の普及の遅れは都市住民の排泄物が価値あるものとして取引されていたため,下水道の必要性が最近まで迫られていなかった。
 下水道の整備の遅れは、明治時代のコレラの流行によって整備の必要性が生じた。東京の都心で生ものを扱う不衛生な日本橋魚河岸はコレラの流行のたびに移転が迫られた。平成の今も築地市場の移転の大義名分は“食の安全と安心!!”、現状の築地市場では完全に確保できないということである。
 
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梅干 着色

2006年03月02日 | 趣味としての漬物
梅干と保存料
最近、梅干の通信販売等の宣伝で、梅干に着色は使用しておりません。というのがある。
梅干は江戸時代からシソを使って、赤く染めていて、今は合成着色料の許可がなされていて使用している。
元禄時代の文献・本朝食鑑に梅の実とシソの葉を一緒に塩蔵すると汁は赤くなると記されている。当時から梅を着色するためにシソが使われている。
日露戦争が始まると、軍需用としても梅干の需要が伸び、白いご飯の真ん中に赤く染めた梅干をいれ、日の丸(日章旗)に見立た。「日の丸弁当」の呼び名は、この頃生まれた言葉のようです。急に売れたので、シソで赤く染めるのが間に合わなく、合成着色料を使用したと思われます。赤くなければ日の丸になりません。

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定年帰農

2006年03月01日 | 趣味としての漬物
最近、定年帰農という言葉が目につきます。定年になった人が故郷に帰って農業を始める。
野菜、米を作る。趣味としての漬物つくりを薦めます。自家用の野菜栽培は出来が良い年は過剰に出来すぎ、自家消費以上出来たとき、それを利用して保存食品として漬物造り、変化があって、話題となります。少量の野菜をうまく漬けることは業者の人でも難しい。
最初は糠みそ漬
常温で漬けるぬか漬
現代漬物作り入門 藤澤重明著より
ぬか漬けの素1kgに水900ccから1100cc加え十分に練って床にする。1から2回捨て漬といって野菜クズ使い床を漬床の発酵を助ける慣らし漬します。パン屑、練り水の一部にビールを加えたり、米のとぎ汁を加えます。但し、発酵しやすい夏場は避けたほうがいいでしょう。漬け容器にはフタ付きは厳禁です。ぬか床を漬けるには毎日かき混ぜるのが絶対条件で新しい空気を入れて酵母発酵を起こさせ、押さえつけて乳酸発酵を起こさせます。薄い布なので蓋い、虫やハエがつかないようにします。ぬか漬けの床の保管場所は日光の当たらない風通しのよい雨水のかからないところがよい。
糠床のダメになる例
① すっぱくて食べられない 答え 舌をさすような酸味がするのは異常発酵です。ぬか床の中の食塩濃度が薄くなりすぎたためと思われます。塩を加える。
② 漬物が塩辛くて食べられない。 答え 漬ける時間が長すぎる。短い時間漬ける。
③ 漬時間がいつものとおりなのに味が変? 答え 気温が上がっていませんか? 漬け込み時塩の濃さを舌で確かめましたか。時間が同じならば温度の上昇で適正時間が短くなります。ぬか床が一寸塩辛く感じたら漬ける時間を短くするほうが良い。
④ 異様な臭いがする。 答え シンナー臭、薬品臭、印刷インク臭などは大抵―密封容器使用が原因です。フタをしないで漬ける。
⑤ アルコール臭がする 答え ぬか床を作るとき水を加えすぎたか、パン屑、残りビール、米とぎ汁を加えて床が発酵しすぎの場合によく起こります。ヌカと塩を加えます。
⑥ カビが生えたが。 答え 何回か漬けて床が緩み加減で湿気が多く時(梅雨時)にかき混ぜを怠ったときよく白い酸幕酵母が生えます。よくかき混ぜてください。

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