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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

サッカリン 昭和15年④警察と庶民の間で

2006年10月25日 | 趣味としての漬物
昭和15年12月28日朝日新聞
正月料理の伊達巻の調味料として禁制のサッカリンを用いたのが発覚し、保存していたサッカリン1万gはその筋は押収され廃棄処分に付されたという。甘味欠乏の今日、さりとて惜しいものである。1gのサッカリンは砂糖の800gに匹敵する甘味量を有するから1万gのサッカリンは1万8千斤の砂糖、これを現今の配給量一人一日あたり0.6斤の割りにすると3万人分に相当する。
 私は化学技術者で10年ほど前研究用として入手した10gのサッカリンの残余を探し、これを家庭調理用として使っている。新体制下甘味不足の嘆声あるところに紅茶に、煮物に、お汁粉に充分に味覚を満足させ、しかもその所要量は一ヶ月に2gも出ない。元来砂糖は含水炭素の一種として栄養を有しているがサッカリンにはそれがない。しかし砂糖を用いるのが栄養を取るのが主たる目的でなく、味覚を満足させるための調味料として用いられていると言って差し支えない。
 しからば栄養価無く、無害にして調味効果は絶大なサッカリンを商品として食料品に使用禁止されたのはなぜか?
 それは平時の砂糖の生産量が豊富な時代に砂糖の販路を保護し,税源を保持せんがためであったことは周知の事実である。今や甘味不足に悩む時政府は速やかにサッカリン使用を解禁して砂糖を節約と甘味満足の一石二鳥の妙策を取られたい。これほど代用の価値の大きいサッカリンが古い法規の犠牲となって廃棄処分になされること悲しむ。

時局が切迫し、日常の必要欠くべからざる砂糖の不足はサッカリンを使用するように暗に誘導しているようである。法を守らせようとする警視庁衛生課と庶民の間に報道は板ばさみとなる。
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サッカリン 昭和15年③菓子は贅沢品

2006年10月24日 | 趣味としての漬物
昭和15年7月27日東京朝日新聞
高級菓子に贅沢品禁止令
商工省は砂糖の戦時規格の確立で贅沢に砂糖を使った菓子の禁止。

風月堂本店の談
公定価格は店の暖簾とか所在地が一切考慮がなされておらず、費用のかかる銀座と場末の店も同じ、老舗の品も無責任な店も同じというわけですのでこの点を何とかしてもらいたいと思います。
昭和15年7月28日東京朝日新聞
サッカリン擁護論台頭
 高級菓子追放令とこの頃の砂糖不足からサッカリン使用是非が学者の話題を賑わしている。提案者はこの間亡くなった東大医学部の呉教授で絶筆となった「サッカリンは有害か否か」の論文をかいつまんでご披露すると
 サッカリンの使用禁止は昭和3年同7年の内務省令に規定されているのだが、これは大日本精糖株式会社の故重役鈴木藤三郎氏あたりが奔走して「糖業保護」政策というのが第一。第二は同じ甘味料でただ甘いだけで砂糖と異なって栄養分の含水炭素を含まないからそれは「羊頭苦肉」となるという扇情的原理から作られたという。ところで呉博士は30年の臨床経験で未だ一回もサッカリン中毒患者を見たこともないし、また20年余博士自身使用したが何も異常はないという。
 法規は時代と共に変わっていく。死せる法規は廃棄すべしという意見だが厚生省あたりでも「砂糖不足時代だ。味覚の戦時体制版」として無害なサッカリンを許可し、その代わりに税金を掛けて砂糖増産を図れば一石二鳥の名案だ」という意見がポツポツと台頭しているようである。

サッカリンの使用禁止は昭和3年同7年の内務省令は誤りで実際は明治34年の人工甘味質取締規則のこと。
砂糖はごく最近まで贈答品やスーパーの開店の特売品として使われ高価と言うイメージが残っていた。明治以前の菓子は今とは違っていて砂糖使用は少なく自然の甘味だけであった。

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サッカリン 昭和15年②

2006年10月23日 | 趣味としての漬物
昭和15年6月7日 朝日新聞
サッカリン使用に厳重な処分
最近砂糖の入手難からサッカリンとズルチンを使用する料理店があるとの報を受け警視庁保健課で監視の目を光らせていたが偶然浅草区料理店XXXの調理場でサッカリンの使い古し発見押収した。サッカリン・ズルチンは人工甘味質取締規則により使用禁止となっており、しかも同店は東京料理飲食店組合長として指導的立場にあるので当局は厳重な処分をするという意向である。今後は市民の保健衛生上この種の違反は厳重に取締まるという。

昭和16年1月15日朝日新聞
警視庁衛生課の取締まり
浅草の料理店のサッカリン使用の処分
営業停止20日間

砂糖の不足とサッカリンの取締りの強化 やせ我慢の考え・欲しがりません勝つまでは。
 この後間もなく、沢庵漬にサッカリンの使用が許可されている。
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サッカリン 昭和15年①

2006年10月22日 | 趣味としての漬物
昭和15年3月8日朝日新聞
投書
砂糖の甘味が減ってか効き目がない・
回答
砂糖の甘味が不足する時はサッカリンをごく少量使うのです。人体には害はありません。普通サッカリンは水に溶けやすいものですから薬屋から局方溶性サッカリン(25gで30銭位)買ってきて水500匁に対して1匁,即ち直径12~13センチのなべに耳掻き一杯位のサッカリンを混ぜて、味加減をみて足りない分砂糖で補っていきます。多量に入れると後味の悪い甘味がいつまでも口に残って気持ち悪い物です。
サッカリンは石炭のタールから合成して作るもので消毒剤クロラミンと兄弟分ですか殺菌もあるから防腐の目的がかなうのです。現在サッカリンは沢庵漬・ベッタラ漬に使われ、糖尿病で砂糖を禁じている病人の食事にも使われているのはご承知の通りです。ただ,製菓用に多量に使用することは日本では禁じていますが家庭でごくわずか使用するならば差し支えありません。
東京市衛生試験所 OO氏談

昭和15年は長い日中戦争で砂糖も不足していたのでしょうかサッカリンで甘味を取るように、サッカリンの購入方法が記事になってます。明治34年に販売する食品にサッカリンを添加することは禁止になりました。しかし、明治の終わり頃からべったら市の報道で姦商がサッカリンを使用して甘味を付け販売していました。どの様な方法でサッカリンを手に入れたかというと、結局医薬用に販売されたものを個人使用(つまり販売目的の食品に使用しない)という口実で手に入れたのだろう。べったら市の浅漬大根は個人製造のもあったのである。いや、戦争前は農家や八百屋の個人製造の方が多かったかも知れません。
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サッカリン 昭和11年

2006年10月18日 | 趣味としての漬物
昭和11年12月4日朝日新聞夕刊
投書
砂糖が高くなっていますので砂糖の変わりにサッカリンを家庭で使ってもよろしいのですか?
回答
サッカリンは一般家庭で自家用に使用する分には自由で構わないことになっていますがしかし飲食物取締令では販売に供する飲食物中にサッカリンを使用する禁止しています。砂糖業の保護という意味がありますがサッカリンを使用した飲食物は一般にとにかく腐りやすいといった点がなどからこれを有害な物としているわけですから、甘さといった点ではサッカリンは砂糖の約300倍も甘い物ですから砂糖の約300分の1の使用量ですみますので結構間に合います。
 サッカリンを多量に使用した飲食物の味はいやに甘ったるくしかも苦味が出てきて砂糖の甘さと比較にならないほどの不味い物です。
 しかも砂糖は糖分を始めとして栄養があるのですからサッカリンは栄養価がゼロですから体に入ったサッカリンは殆ど体を素通りして排泄されます。更に砂糖は一種の防腐作用があり長持ちしますが甘さの点だけで砂糖の代用となります。その他の点では砂糖の代用品とはなりません。
 警視庁衛生検査所 xx技師談
昭和11年12月23日朝日新聞によると警視庁衛生検査所は総勢22名である。
回答の間違え
『サッカリンを使用した飲食物は一般にとにかく腐りやすい』というのは間違いで、サッカリンを使用した飲食物はとにかく安い(=悪い)材料を使用しているので腐りやすい。別の記事でサッカリンは防腐効果ありと出ている。平成の今ではサッカリンの保存料としての意味はない。砂糖を使用していないので漬物において発酵しにくく腐りにくいだけである。
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昭和4年・5年・6年の景況

2006年10月13日 | 趣味としての漬物
昭和4年・5年・6年満州事変が起こるまでの漬物の景況
昭和4年の漬物の景況は世間の不況が追従し、夏期の天候不順でも成績は良くなかった。秋のベッタラ用大根の不作は高値であったが世間の不況に押され大損害をこうむった。つまり高い大根でベッタラを作っても高くて買う人がおらず投売りしたと言うこと。さらにタクワン用大根を干す時に暖冬で不良干し大根が大量に出、大損害をこうむった年であった。
 年が変わって昭和5年になっても不況は続き、漬物業界は常に販売不振となり困難を極めた。その理由として日本各地の行政当局は農家を保護するため蔬菜の栽培を促進した。従来、東京市場には関東近郷の蔬菜しか入荷がなかったが鉄道・自動車の発達によってより遠距離から東京に入荷するようになって来ていった。特に保存食である漬物(タクワン)は遠距離輸送がきき、関東で大根が不作で高値であっても、日本各地から高値で取引している東京市場に向けて,出荷してきて東京の産地である練馬の沢庵業者・沢庵農家を悩ました。平均価格が6割くらいの値段になってしまった。野菜の価格の低迷は一方では原料漬物の原価が安くなったということになるので翌昭和6年を期待して漬け込みを増加した。
 
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昭和の初めの景況

2006年10月10日 | 趣味としての漬物
昭和の初めの頃の漬物の景況
 大正15年12月25日で終わり昭和元年12月25日から始まりました。昭和元年は一週間ほどしかなく直ぐに昭和2年になりました。このころになると食料品商という業態が出現した。色々な食品を店頭に並べ販売する商店を「食料品商」と改称する人が現れた。
 昭和2年の漬物業界は家庭において日常欠くべからざる食料品であるが故他の商品と違って不況の影響は少なかったが製造者卸売業者は金融関係で影響を受けた。漬物の原料の蔬菜は平年作で価格も低廉であったため漬物類の生産が盛んであった。梅干は夏の収穫時期は不作であったが、日本各地で梅樹の増殖が盛んになり、それによる増産によって価格が数年前の半値となってしまった。
 昭和3年になると俄かに漬物にサッカリン使用が社会問題となった。
 近年,沢庵に甘味料としてサッカリンを使用するものがある。ことに青物市場にはこれが甚だしく、この影響で正業者が非常な打撃を受けている。漬物組合はサッカリンを使用しないと決議し注意書を配布した。
 漬物組合長は警視庁衛生課課長と面会し、サッカリン取締の方針を質した。
衛生課長の答えは
「サッカリンが有害であるか否かは未だ確実に研究されていないが法規上充分に取締ることになっている。しかし、経費予算の関係上、目下係員が不足のため徹底的に取締ることが出来ないが発見しだい厳重に取締る」と言明した。
昭和3年の商況は前年の大根の不足と夏期の野菜の不作で漬物の売れ行きは良く、世間の不景気の中で順調な年であった。
 サッカリン問題の対処するため全国的な組織の作成の必要性が生じ、後に全国の業界が結集し、昭和8年大阪中央卸売市場で史上初の全国漬物大会が開催された。
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大正14年 景況

2006年10月05日 | 趣味としての漬物
大正14年の漬物の状況
大正14年の漬物組合員は減少した。その理由として、蔬菜の安値で乱売競争に陥った状況をどのようにするかの問題で組合は分裂した。
 13年より持ち越した漬物によって年前半期は不景気とともに需給の調節に誤り乱売となり価格の低落となり売上高の減少となった。
 下期は夏の野菜の不出来で少し持ち直したが総じて大正14年は一年を通じて不況だった。梅の実は全国的に大豊作で梅干が多量生産となり価格が暴落した。
 この年の報告書によると翌大正15年度も価格の低迷は免れず、経済の状況の回復を待つのみとなっている。
 この頃になってやっと天候や野菜の作柄の影響と世間の景気が連動して来るようになった。都市において徐々にではあるが専業のつけ物製造者が誕生し乱売となった。さらに鉄道網の整備は販路の拡大と共に他府県の漬物が東京に乱入し価格統制がきかず、不正品がはびこるようになる。また、不景気のため価格の安い物を求める購入者の要求に対応するためでもあった。東京は日本の中心で新聞によって意図的に不正品の摘発報道がなされ、特にサッカリン混入の摘発はしばしば行なわれた。大正の終わり頃から昭和の初めには砂糖の自給が出来たのである。(当時は台湾が日本領土)政府は砂糖による税収が確保と国内自給で砂糖輸入による外貨節約になった。
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べったら市 大根の品種改良⑤まとめ

2006年09月25日 | 趣味としての漬物
練馬大根の品種
代表 練馬尻尖り大根(練馬の百姓・亦六が作ったという)
沢庵用として最適である。その特徴として葉は緑色、本葉十枚ほどまでは地表に伏し、生育が進むにつれて次第にたち、盃状形になる。成熟すると再び伏し状となる。根の長さは75センチくらい、首は地上に上がり、細く次第に太くなる中ほどは太さを増し大根の尻、つまり先っぽは尖がっている。八月中旬ごろに種をまくと百日ほどで収穫できる。
秋早生大根
練馬産の早生栽培の品種。播種してから75日位で収穫でき、葉は濃緑色、先葉はやや大きく、おかめ状となり根は全般に粗く、肉質は硬い。種苗研究者の説によると板橋区志村の板橋権右衛門が明治の末頃早生みの九日大根と練馬和田種の自然雑から選んで作り上げたものである。
黒葉理想大根
昭和8年の大旱魃の後,対暑性があって作り出された。
練馬秋止まり大根(小石川村で作られたという)
早生づまり・晩づまりの二種類があり、根は円筒形で首から下まで殆ど同じ太さで,煮食用(おでん・風呂吹き大根)に優れ、食味がよく、糠漬に適していた。
みの早生大根
北豊島郡岩淵町袋村付近で古くから栽培され、練馬でもかなり栽培されていた。この大根は生大根として出荷するもので早・中・晩の三系統があり、圃場期間も短く春まき大根として優れていた。
 天保年間に板橋区の志村の百姓巳之助が同一畑で(九日大根と亀戸大根)を作っていったところ、自然交雑によって作られた早生の品種が出来た。巳之さんの畑から出来た早生の品種なので「みの早生大根」と呼ばれた。美濃の字を当てるのは間違いである。

参考
「玉川長太の練馬に大根がなくなった日」 玉川長太著
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べったら市 大根の品種改良④大蔵大根

2006年09月20日 | 趣味としての漬物
大蔵大根(東京・世田谷)
東京.世田谷で戦前広く作られていた大蔵産の大根は、「秋つまり大根」別名「大蔵大根」などと呼ばれていました。
 大蔵大根はやわらかく、煮ものに適しているといわれます。最近、世田谷区の地場野菜として復活して栽培がなされています。先端部分が丸みをおびた、尻ずまり型の代表種。肉質はきめ細かく、みずみずしさと甘味に富む。
世田谷区は平成13年7月に商標登録(No.4487715、487716) しました。
 明治5年の東京府誌料によると、世田谷の全体の干し大根の産額は400円(ちなみに北豊島郡下練馬村一村だけで干し大根625円)だった。
 世田谷郷土資料館「ボロ市の歴史」によると明治末期から大正にかけてボロ市の商材にムシロの店が目立つようになった。これは練馬や世田谷などで大根を栽培する村々で沢庵の加工がさかんとなり、大根をそのまま出荷するより付加価値の高いので干し大根にするため,ムシロが必要となったと書かれている。(この記述は少しおかしい、練馬では大根を干すのはハザかけ)ムシロの用途は何だっただろうか。大蔵大根が有名になったのは大正以後ではないだろうか。昭和10年に「大蔵大根」と命名されたという。東京の市民の増加による蔬菜需要の増大は世田谷の農民に大根栽培を勧めた。と同時に、郊外に向かって発達した電車によって通勤に便利となり移住してきた市民によって畑は消え、栽培が難しく、収益の低い大蔵大根は一時的に消えた。大蔵大根は出荷先として渋谷,大井、三鷹、品川方面に出されたという。比較的価格の安い重量野菜の生大根を運ぶのに適している水運の便が板橋・三浦より悪く遠方に出荷できなかったから比較的知られていない。
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べったら市 大根の品種改良③練馬大根

2006年09月19日 | 趣味としての漬物
大正期の東京・練馬大根の品種改良は明治16年に現在の練馬区春日町に生まれた鹿島安太郎の功績を忘れることは出来ない。彼は大根栽培の品種改良や農耕技術を改良し、各地に普及講演をしたり、実地指導するなど活躍し、後にこの功績称えて昭和41年練馬・愛染院参道に顕彰碑が建立された。
大江戸線 練馬春日町駅下車徒歩3分
愛染院に面している富士大山道(富士街道)は、江戸時代中期頃から農民・町民の間にひろまった大山詣(神奈川県の大山阿不利神社)や富士山詣でに行くときの道で、北町1-25の旧川越街道と環状8号の分岐点に道しるべの富士大山道の庚申塔があります。当時大山詣は信仰の対象でしたが旅行という面もありました。練馬大根は大山講の持ち帰った土産としての波多野大根の種子と練馬の地大根との交雑でできたといわれます。
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物類称呼から大根の方言

2006年04月28日 | 趣味としての漬物
物類称呼 日本最初の方言辞書
大根
はだの大根 相州(神奈川県)波多野(秦野)の名産也
江戸にてハダナと言う
京にて長根大根と云う
大阪天満にて 細根大根と云う、又宮ノ前大根と云う
 河州(大阪南部)守口にはこれを粕漬とす。
西国にて小大根と云う。 はだの大根は小大根より少し大也。
又、畿内にて
なか抜き(間引き)大根というのを江戸にて をろ(おろ)抜き大根と言う。

物類称呼では記述されていないが地方によっては虚拔大根, うろぬき大根と呼んでいるところもある。
練馬大根の品種としての歴史は"練馬大根”練馬教育委員会発行によると、17世紀終わりごろに今の練馬大根ができたらしい。波多野大根などの歴史から見るとそれ以前の大根は細長い大根を干して、保存食としていたらしい。
 又、江戸時代に発展した蕎麦の薬味としての辛味大根も普及した。
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つけ物 漬物 漬け物

2006年04月15日 | 趣味としての漬物
今でこそ「漬物」という表記は一般的に使われているが、戦後、昭和21年〔1946年〕に内閣から告示された「日常使用する漢字」(使用頻度の低いとされた漢字が排除され、公式文書やメディアなどで用いるべき漢字の範囲が示された)の範囲を定めた1850字の当用漢字表にはなんと漬の漢字が入っていなかった。そのため、法律や新聞などで用いるときは、別の言葉に替えるか、「かな書き」にすると定められていたため、漬物の農産物規格法(JAS法)では“農産物つけ物”と表記されています。当然,学校等で漬の文字が習われず,たびたび清物と誤記されていた。漬物の業界の発展と共に、「お袋の味」が小売店で多く買われるようになって「漬物」という文字が広く一般的に使用されるようになったので、昭和56年〔1981年〕に内閣から告示された1945字の常用漢字表に漬の漢字が、ついに堂々仲間入り。法令、公用文書、新聞、雑誌、放送等、一般の社会生活において現代の国語を書き表すための漢字使用の目安として認められるようになった。
今でも“漬け物”と書かれる事が多いが、戦後,長い間“つけ物”と表記されていたことの名残である。
 なぜ,“漬”の字が戦後,日常使用するという漢字に漏れてしまったのかは,当時はまだ漬物は都市においてのみ製造販売されていて、国民の大部分を占めていた農民は自家で漬けていて,新聞,公文書等に使用されている頻度が少なかったためとおもわれる。
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お茶漬と漬物

2006年04月14日 | 趣味としての漬物
ご飯の上に漬物を乗せて熱い茶をかけてご飯を食べる。
茶漬の具に魚が多い。茶によって生臭さが消える。湯漬の伝統。湯漬とは、干飯に湯をかけて食べる簡単な食事です。強飯は米を甑(こしき)で蒸したものでこれを乾したもので干飯といいます。

番茶と日本人 中村羊一郎著より
茶の木は植え替えしにくい。特に種から育てた茶樹の根は真っ直ぐ伸びてしっかり大地に食い込み、土地の境界の目印にも生かされる。
茶粥
番茶を煮出した汁で炊いた粥
番茶を茶袋に入れ、十分に煮出す。
茶碗
ご飯を盛るのが茶碗
お茶を飲むのが湯のみ
茶飯
茶汁でもって炊いた塩味の付いたご飯のことを言う。
奈良茶飯(ならちゃめし)の起源
 ①東大寺と興福寺の寺領から納められる上茶を煎じて初煎(初めに入れた茶)と再煎(二番茶)に分け、再選のお茶に塩少量を加えて飯(めし)に炊き、蒸らした後に初煎の濃い方に浸けて食べるのが本来の茶飯であったといわれている。「茶めし」は、もともと奈良の東大寺や興福寺などで修行僧の食事に出された食べ物と言われる。
②江戸では明暦の大火(1657)後、浅草の待乳山聖天門前にこれを売る店ができたのが最初で、料理茶屋(今のレストラン)の祖となった。
『西鶴置土産』による。飯碗に豆腐汁、煮豆などをそえて出した一膳飯のことで、
万年屋茶飯屋跡
  川崎市の新六郷橋の車道の下を潜り、第一京浜国道の右側に出ると、旧街道沿いに万年屋跡の案内板がある。「江戸名所図会」にも紹介されている有名な奈良茶飯の万年屋があったところ。なお、奈良茶飯は、大豆、小豆、粟、栗などと共に茶の煎じ汁で炊き込んだ飯で、これに六郷川で採れたシジミの味噌汁が付いていたという。

明治政府は茶の品種改良によって輸出振興を図った。各地の茶は整理され、静岡茶の品種のみ栽培振興された。飲む茶が優先され、食べる茶は静かに消えて行った。
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練馬大根と肥料 明治以後

2006年04月03日 | 趣味としての漬物

江戸末期から明治初めにかけて、練馬地区の肥料とし自給肥料(刈敷き・牛馬の糞・下肥等)が主であったが、明治の中頃から、魚肥・酒粕などの金肥(購入肥料)が多く使用された,日清戦争の後、満州(中国東北部)から大豆粕が魚肥に取って変わって使用された。大根の栽培のだら肥が使われていましたが農家の女性には嫌われていました。

だら肥とは下肥溜めの腐熟堆肥、草木灰、米糠を加え肥溜めの外でよく練ったもので練馬の冬の気候にあった肥料で霜柱を抑える役目もありました。練馬では昭和35年頃から清浄栽培が始まり、昭和37年には下肥の使用はなくなった。
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