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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

野菜の初物

2006年02月28日 | 趣味としての漬物
江戸時代、明暦の大火後、江戸の街づくりの再建が始まると、江戸の人口は急激に膨らみ始めた。当時、米は年貢米として集まり市中に出回ったが、生鮮野菜は不足していた。幕府による野菜の振興策もあり、三河や関西からネギ、ニンジン、キュウリ、ナスなどの様々な野菜の種を持って多くの人がやって来た。江戸でいち早く本格的な野菜づくりが始められたのは、千葉の行徳の塩田開発とその輸送路としての小名木川が開削され、深川や砂村(現在の江東区砂町)などの江東の地であった。
 砂村を一躍野菜の名産地にしたのは、寛文年間(1661~73)に生ゴミを利用した発酵熱による促成栽培技術を開発である。見栄っ張りの江戸っ子は競って初物を食べました。砂村の農家の人は、高値が期待できる野菜や果物などの初物を一日でも早く生産しようと、生ゴミを地面に埋め、発酵させて温度を上げ、その地面を油紙で覆って熱を逃がさないようにしました。初物は江戸っ子に大いに受け、「初物を食うと75日長生きする」と江戸市民は我先にと買い求めたそうです。幕府が江戸庶民に出した諸々の禁止令は、初物を食べる というぜいたくが広がり過ぎると, 農家は米など基本食糧の生産よりも, 高く売れる 初物づくりに力を入れるようになり, 江戸幕府はたびたび, 出荷日を統制する法令, 促成栽培禁止の町触れを 何回も出して, 取り締まりました。
初物の代表『初鰹』は、勝負に「勝つ魚」と縁起の良い魚として最も珍重されました。正月に初物のナスを食べるのはこれも物事が「成す」に通じ、最高の贅沢でした。なぜなら、初夏の作物のナスを冬に作るには、油紙障子で温床を作り、生ごみ等の発酵材で温度を取り、随分と手間暇かけなければナスは出来ませんでした。そのため、正月のナスは、庶民にとって高値の花。だからこそ、初夢にナスが登場するのは、縁起が良かったとも言える。
 平成の現在ではその初物の味が、ハウス栽培や・養殖・冷凍保存、輸入などのおかげで、一年中、季節を問わず口にすることができます。野菜や果物で初物という言葉が消えつつあります。

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練馬大根物語5 種子の広がり

2006年02月27日 | 趣味としての漬物
日本人の旅には土産は必要である。この由来は江戸時代の寺社詣でを大義名分として庶民(多くは農民)の旅文化が多いに発達した。その旅行の多くは講を作っての団体旅行であった。その費用は積み立てた講費を限られた代参者が旅する事で成り立っていた。講費で代参した場合、講の人に寺社に参拝した証拠が必要となる。講費と餞別が旅土産を義務づける。従って、土産に包装の箱や紙に寺社名や地名等が書いてあり、旅に行けなかった人に分配できる必要性がある。
江戸時代の中、後期から発達した旅の土産は参詣人の多い寺社の門前から発達した.当時の旅は徒歩の旅であったので持ち運ばれるもので主であった、当時の土産は軽い手工芸品か薬であった。
滝野川の種屋
江戸時代、道中を通る旅人に江戸の土産として、野菜の種子を販売し、「種子は滝野川」と呼ばれるほど有名であった。中仙道に面していた滝野川の種子屋が有名であった。練馬大根は江戸の名産(土産)として全国に広まっていった。
 食用の練馬大根の栽培は練馬で行い、その種子用大根の栽培は滝野川村で作るように産地が分かれたのである。交配しやすく、変化しやすい大根の種子が偶然にも分業となって練馬大根の種子は立派に維持された。  
 こうして練馬大根の名が天下に知られると共にその種子の需要も増加してき
たので、特に滝野川にあった三軒の種屋は地名(滝野川三軒家)となったくらいである。また諸侯の参勤交代の帰りに、国に帰るものが必ずこれをもとめて村民に分かち作らせたということで、滝野川種子の名声は益々高くなった。
北区飛鳥山博物館では滝野川の種子屋の解説があります。大根の品種の“みの早生”を生んだ、百姓みの吉は滝野川付近の人と学芸員の人は言ってました。ちなみに、板橋区の方では板橋の人と書いてあります。
余談 新撰組・近藤勇は政府軍に捕らえられ滝野川三軒家の石山亀吉邸で人生最後の夜を過ごし、板橋刑場で処刑された。(慶応4年4月25日)頭部は京都に送られ、胴体はこの地の埋められました。
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練馬大根物語4 練馬大根の誕生 

2006年02月26日 | 趣味としての漬物
 江戸中期まで
練馬大根の誕生は明暦の大火後、江戸の都市の再建に伴い人口が急増し、江戸郊外である練馬の地に蔬菜の需要が生じ、大根がたくさん栽培されて、やがて新種の練馬大根が誕生した。
練馬大根の誕生の伝説は大ざっぱに分けると綱吉説と百姓又六説がある。時代と地域によって変化しているが、どちらの説を採るにせよ、上・下練馬村の富士街道(大山街道)沿いにあることに注目してよい。
練馬大根が盛んに栽培されたのは元禄のころからであり、その頃から練馬の地域は大山講が盛んになった。大山講の土産としての波多野大根の種が練馬の地の大根と交配して、新種の大根となったといわれる。
詳しくは、練馬区の“練馬大根”のホームページで。
 新版 練馬大根 練馬区教育委員会著によると
元禄10年に出版された(本朝食鑑)の刊行以前の10年から25年さかのぼって、練馬大根の栽培が江戸近郊を中心として、会津地方まで及んでいた。

需用と供給は経済の大原則ですが練馬大根の普及が進んだのは、江戸幕府の指定野菜になり、生でも良し、干しても良し、沢庵漬にしても良いと大根の性質がありました。現在のように冷蔵庫等の保存技術のない江戸時代、野菜の物価の安定に大根は良い野菜でした。更に練馬の地は大根の栽培に適した土地でありました。ただ、欠点として江戸から少し離れていたため、時代によって、栽培の盛んな時と、衰えた時があります。生大根(亀戸大根)のライバルの登場、舟運の便の悪い練馬の肥料の価格上昇等があります。
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練馬大根物語3 秦野だいこん

2006年02月25日 | 趣味としての漬物
秦野 子ども風土記 より  
秦野だいこん
はだのダイコンは、江戸では「ハダナ」や「ライフク」と呼ばれ、秦野の名物と知られていました。細根のもののようで、長さは2尺(約60センチ)ばかり、周りは一寸半程(4・.5センチ)の大きさで道端にて自然に栽培するようになったのではないかと言われています.
承応三年(1654年)「落幡村覚」(おちばたむらおぼえがきー名主の覚書)には、
明暦元年(1655年)正月12日、人馬だいこん付参候
寛文元年(1665年)x月十一日 はたの大こん付参候と記され、江戸時代元禄のころには、領主の献上品として用いられたことが裏付けられています。江戸時代の農村は、雑穀を主食として、野菜類の混じったものを食べていました。当時は塩が高かったので秦野だいこんを切干にして貯えておき、不作のときに用意にしたのではないかと考えられます。
資料 秦野市史より
中世から江戸時代始めまで秦野(神奈川県)は柴胡(サイコ/薬草)や秦野だいこんを栽培していたが宝永4年(1707年)富士山の大噴火による降灰は耕地を覆い、秦野地区を不毛の地と化した。しかし、農民は秦野の土と火山灰の混じった土地がタバコ栽培に適しているの発見し、現在に至っている。
                 
本朝食鑑より
相州波多の産はもともと自然に生じるものを佳しとする。根は細くして実である。またこの自然に生じるものを植えることもある。しかしこれを培養しても、根は肥えるが,佳いものではない。それで、細根のほうが宜しく、肥大したものは宜しくないのである。細根を取って塩漬にする。この波多野大根は、京師(京都)で中抜き大根という。
秦野市大根
小田急線東海大学前駅の名前は昭和62年までは大根(オオネ)というな名前の駅でした. 「東海大学前」は、 東海大学湘南キャンパス関係の利用が80%を占める、という理由で従来狭いことで有名だった旧「大根」駅の橋上駅舎化に伴い駅名が変更された。現在は、旧「大根駅記念の碑」が駅南口にひっそりと建っている。大根の地名は残っており、絶滅した秦野だいこんを今に伝えています。


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つくし 花粉症に効くとは

2006年02月24日 | 趣味としての漬物
つくしの漬物
2006年2月6日朝日新聞、2月23日の読売新聞の記事で“つくし”が花粉症に利く人がいるとのこと。抗アレルギーの成分が”つくし“にあるとのこと。ふと、思い出し、山形県の三奥屋(みつおくや)(山形県東置賜郡高畠町)さんに電話した。”つくし“の漬物は日本全国で多分この会社しかないだろう。やはり、急に問い合わせが増えているとのこと。試食したのは数年前のことなので、味等の記憶は無いが山形の人は飢饉の記憶があるのか”つくし“までも漬物にして保存し食べるのかと思った。
約二〇〇年前、米沢藩主上杉鷹山公は、凶作に備える施策として「かてもの」という食の手引書を編纂し藩内に配付しました。 その「かてもの」には山野に生える草木果実の中から約八〇種が選ばれ、食法や栽培方法など懇切に記されておりました。「かてもの」の本来の意味は「主食に混ぜて炊くもの」ということです。テレビドラマ“おしん”の時の大根めしはその一例です。
 この本の中には、食べられる山野草やその食べ方をはじめ、味噌の作り方、日常から蒔き植えておくと良いもの、干して保存しておくと良いもの、飢饉の時に役立ついろいろな情報が書かれています。この結果,天明の大飢饉・天明3年(1783)の時にも、米沢藩では一名の餓死者が出なかったと言われてます。
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練馬大根物語2 富士街道

2006年02月23日 | 趣味としての漬物
大山講と秦野大根
江戸中期頃から、練馬の農民、町民の間に大山講が盛んになった。相模の国、大山 阿夫利神社は農業・商工業・殖産・養蚕などの守護神で、とくに練馬の農民にとっては、畑作に必要な雨を呼ぶ雨乞いの神様でした。
 大山講には、大山信仰を広めたのは御師(おし)とよばれる先導師という人がいて、大山をお参りする人々の道案内をしたり、先導師の家が宿屋でもあったので、これらの人々の接待もしました。先導師の宿坊では精進料理が出ます。もちろん、大山名物の豆腐が出ます。この先導師という人々は、もともと大山で修行をしていた修験者(しゅげんじゃ)だった人たちです。
江戸時代の庶民は、働くことも働くが、大いに余暇もたのしんでいたわけで、大山は江戸庶民の格好の観光地でもありました。信仰の対象である阿夫利神社の先導師は、江戸八百八丁のすみずみまで立ち入って大山講を組織していました。先導師の積極的な講の組織活動は、現在、観光産業によってさかんに展開されている各種イベントやツアーの組織と共通する面が多くみられます。
現在の練馬の富士街道は別名大山街道と呼ばれ、石神井・田無・府中を通り大山に到る参詣道でした。
大根名産地である練馬の講中が富士や大山参りの途中に秦野を往来した。栽培に熱心な農家なら、当時でも有名だった波多野大根を手にして、練馬に植えたとしても不思議でない。享保以後の練馬大根の品種としての成立には秦野大根との関係がある。同様に、小石川の幕府の菜園からも交媒されて新しい大根の品種となったのもある。練馬の農家の品種改良によって練馬大根が誕生した。
大山道
大山道は矢倉沢往還とも言い、江戸城の赤坂御門より青山、三軒茶屋,二子、溝口,荏田、厚木、伊勢原を通り箱根の矢倉沢・足柄峠を越え,甲府や沼津方面に分かれていきました。江戸時代に古いそれまでの道をつないで作られ丹沢の大山に参詣する道として、賑わいました。東海道のわき道として、また、秦野のタバコや相模川のアユ,多摩のマキや炭を江戸に運ぶ道としての役割もありました。

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練馬大根物語1 区名の由来

2006年02月22日 | 趣味としての漬物
「ねりま」という地名の由来には、練馬区の見解によると色々あるが、練馬区という行政上の名称になったのは“練馬大根”のためです。今、全国の市町村を大幅に減らすという、平成の大合併が注目を集めている。合併の破談の原因として新しい市の名称が多い。
 昭和23年、東京都の23区目として、練馬区が誕生した。板橋区は戦中・戦後、人口が急増し,人口が15万人を超えたら分区する予定であったし、また板橋区の面積が巨大であったため分離された。大根の練馬か、練馬の大根かと言われるほどに名をはせた練馬の大根は、全国的に有名で元禄の江戸時代から栽培さていました。練馬区の名称は全国的に知られている練馬大根の産地だから、練馬となったと言われている。ただし、このことは練馬区の公式の見解でなく、練馬の沢庵漬業者の見解である。昭和の初めの頃、ある練馬の村の米の生産販売額が2万円くらいのとき大根の販売額は25万円くらいだった。練馬大根・練馬沢庵(明治・大正期は浅草のりと並ぶ東京名産)おかげで混乱なく、決まった。
 いま、練馬大根ブラザースというミュージカル漫画がテレビ東京(月曜・深夜)で流されている。やっぱり、大根は練馬。でも、フトンの上に書いてある大根の絵は練馬大根の形でない。サビシイ!!
  江戸・東京ゆかりの野菜と花 という本の84頁にやはり区名を決めるとき、練馬大根が決め手でした。なお、練馬区民祭の名前は”すずしろ祭り”だそうです。時代が変わって、大根がかっこいい物になったのでしょうか?

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守貞謾稿より塩

2006年02月17日 | 趣味としての漬物
喜田川守貞著 守貞謾稿より

今世、諸国の海浜これを製すといえども,播州赤穂を上品とす。また江戸に漕す物は阿州多し.斉田塩と言ひ、阿の斉田専らこれを作るなり。(徳島の斉田塩)
『世事談』に云う,焼塩は天文年中,洛上鴨畠枝村藤太郎と云う物,泉州湊村に住居し、紀州雑賀塩を土壷に入れ焼き返し、諸国に出す。壷塩屋藤太郎と云う.承応三年甲午、女院御所より、おほけなくも天下一の号を、時の奉行石河氏に命じて賜る。また延宝七年,鷹司殿下より、折紙状を賜ふ。呼ぶ名は伊織と号す。猿丸太夫の末裔なりと伝ふ、云々。
江戸近浜には、行徳にこれを製す。

守貞謾稿は江戸時代末期の文献ですが塩の記述は他の食品、調味料等と比較すると少ない。当時はもう余っていたし、ブランドが確立されていたかもしれない。
焼塩
「せんごう」で得られた塩は「荒塩」と呼ばれ、ニガリを含んでいるので吸湿性が高く、時間がたつと液体化してしまいます。そこで更に土器に詰めて熱を加える。
苦汁分が変成して固まりになる。サラサラした状態を長く保つことができる。更に高温で焼塩を作ったものは、塩が粉砕され微粒の焼塩になる。再加熱した塩を「焼塩」と呼びました。漬物用の塩はニガリの多さに関係がなく漬けられる。

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味の箱舟計画と漬物

2006年01月14日 | 趣味としての漬物
日本の伝統食材9品目が、スローフード協会国際本部(イタリア)が進める「味の箱舟」計画に登録された。同計画は、大量生産される食品に押され、消滅しかけている伝統食品を支援するのが目的です。登録されたのは、安家地大根(岩手県岩泉町)のほか、山形県米沢市が主産地の雪菜、花作大根(山形県長井市)、雲仙こぶ高菜(長崎)のほか5品目。
 安家地大根(紅大根)は、岩泉町安家地区周辺で主に栽培されている。7月中旬から播種し、収穫期は9―11月。長さ20―40センチで、鮮やかな紅色が特徴で辛みが強く、ビタミンC含有量が青首大根の1・5―2倍ある。硬く繊維質に富んでいるため、貯蔵性に優れている。
 花作大根は、古くから山形県長井市花作地区で栽培されてきた漬物用の大根です。パリパリとした歯ざわりの良さは漬物として最適で、一時は県内一円で作られたときもありましたが生産性が低く、今では絶滅の危機に瀕しています。
雲仙こぶ高菜(長崎県)葉の内側に突起(こぶ)ができる、とてもめずらしい長崎の伝統野菜です。やわらかさと歯切れのよさは天下一品で、特に漬物の風味は最高です。また、コブの部分だけを使った浅漬けや炒め物はこの上なく美味と言われます。12月から翌年2月にかけて収穫します。
「味の箱舟」計画 消滅しかけている伝統的な農産物や食品の生産を支援することで地域の活性化につなげる運動です。今回選ばれた9品目のうち、野菜は4品目ですが、安家地大根(紅大根)を除いて漬物にしたとき、味が引き立ちます。


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味の箱舟と山形・米沢市の雪菜

2006年01月13日 | 趣味としての漬物
雪菜のしおり 
伝統食品を残すための活動、いわば世界遺産の食材版が「味の箱舟」運動で日本の登録された9品目のうちのひとつに雪菜がありました。
山形県米沢地方には,昔から雪菜という米沢にしかない冬の野菜がありました.冬の雪の多い米沢地方は,交通が途絶え新鮮な野菜は極度に不足していましたので,貴重な冬の野菜でもあり,正月の風雅な味覚として珍重されてきました。
 雪菜という字のごとく,雪の中から掘り出され,真白で歯ざわりの良い菜の味は、雪国ならでは味ともいえます。おひたし,ひやしる(冷汁),浅漬け,粕漬にとどれにも薄味にして,正月の食卓に風味を添えてきました。
 山形県に鉄道が敷かれ交通が発達すると,米沢へ、冬でも県外から青々した新鮮な野菜が入荷するようになると、割の合わない野菜である雪菜の生産は衰え,昭和になって一般市販からほとんど姿を消し,幻の野菜とまで言われるようになりました。
 雪菜の歴史は,上杉家の移動と共に,越後から家臣団と一緒に米沢へ土着したものではないかと言われてます。栽培方法は昔から同じで,八月下旬に種をまき,十一月中旬に寄せ植えしてワラで厳重に囲い積雪を待ちます。雪が積もって後,寄せ植えした菜とワラが腐り。その発酵熱の助けを受けて新しいトウが立ち,雪の中で軟化されながら伸長します。これが雪菜で,寄せ植えした菜の約10%しか生産されませんから非常に貴重な野菜といえます。
 忘れられた雪菜も近年になってその価値が見直され,風雅な雪国米沢の味として

「雪菜」は、全国でも珍しい雪の中で育つ軟白野菜です。
 そのルーツをたどれば、雪国での生鮮野菜の確保のために奨励した上杉鷹山公の時代にまでさかのぼるといわれています。雪菜は従来「かぶのとう」といい、そもそもは米沢市上長井地区特産の「遠山かぶ」の“とう(花茎)”を食していました。現在のものは、越後から伝えられた長岡菜との自然交雑から選抜育成したものと言われ、雪との関わりが深いその栽培法から「雪菜」という名称がつけられたものと考えられています。
 大自然が育み、厳しい冬を旬とする伝統の野菜「雪菜」には、雪と共に生活する先人の知恵と、雪の中で伸びる強靭な生命力が宿っています。
 雪菜は築地の場外市場の漬物屋で三奥屋さんの漬物を扱っているところで取り寄せられます。1月~2月が旬です。
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味の箱舟と地域特産野菜

2006年01月12日 | 趣味としての漬物
味の箱舟 
味の箱舟」計画 消滅しかけている伝統的な農産物や食品の生産を支援することで地域の活性化につなげる運動。日本で9品目が登録されました。

1960年代以降の高度成長期に、農林水産省は都市に向けて大規模な人口流入がある中の大量消費を支える大規模産地の育成が図られた。そして、栽培しやすくて収量が多く、流通上、扱いやすい品種(大きさや味のばらつきがなく均一なもの)が好まれるようになり、多くの指定産地で同じような品種が作られるようになる。その結果、全国化した地方品種を除くと地方品種の多くは栽培する人が減り、やがて忘れられていく。と同時に、それが支えてきた各地の伝統食も忘れられ、全国で食の画一化が急速に進むことになった。
 地域に根付き、そこでの気候風土に適応しながら育てられ、栽培や調理加工(特に漬物に向く野菜が多い)に独自の技能や技法を必要とした野菜の地方品種を見直すことは、地域の風土に根ざした伝統的な食文化を見直すことにもつながってくる。
今となっては、地域特産野菜は見た目も悪く、価格も高く、量的の不安定等不利な条件ばかりで、現在の流通に不適な商品ばかりである。それゆえ、意識して生産者、加工業者、販売者を見守らなければ市場経済に淘汰されるだろう。すでに多くの食品が消滅している。
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大根と浅草・待乳山聖天

2006年01月08日 | 趣味としての漬物

大根は聖天信仰のシンボルマーク
違い大根と呼ばれる二本の大根が交差している形
大根はインドにおいてガネーシャ(大聖歓喜天)の持ち物で中国、日本、ネパー ル、チベットなどでも同じ。
 大根は形の上で象の牙の形に似ており、ガネーシャ(大聖歓喜天)の折れた牙が大根の変形したか、逆に大根が折れた形に変形したかは不明。とにかく牙と関係があり、性的意味を持っている。
大黒天変相 仏教神話学    弥永久信美著 法蔵館 出版より
527頁から、巾着 534頁から大根
歓喜天(聖天)
 歓喜自在天・大聖歓喜天、略して歓喜天・聖天とも呼ばれますが、もとはインドのガネーシャ神で、四手と独牙(一本は折れている)の象頭で太鼓腹、そして、鼠にまたがるか、鼠を持っている。
 インドでは重要な事業の開始時には必ずガネーシャが祭られ、思慮深さの神でもあり、商売繁盛の神であります。
 本来は人間の姿であったが、母(パールヴァティ)に頼まれ、沐浴を覗き見する者がいないように見張っていたとき、父(シヴァ)に対してさえ妨げようとしたことから、激憤した父に、首をはねられてしまいます。正気に戻り慌てた、父(シヴァ)は、通りすがりの象の首を切ってくっつけたため、象頭の神になったということです。 
 また、右の牙が折れているのにも逸話があります。
 ある時、鼠に乗っていたガネーシャは、鼠が蛇に驚き落とされてしまいました。その様子を見た天の月が嘲笑いました。それに激怒したガネーシャは、片方の牙に呪いをかけて月に投げつけました。月の満ち欠けはそのせいだと言われています。
歓喜天(聖天)と福神信仰は関係がある。

大黒の袋の中身  福徳の源を入れている
         福神信仰の基
関連の行事
大黒様の年夜
   の年明け
   の嫁取り
   の姿迎え
 

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エッチな大根の奉納 3

2006年01月05日 | 趣味としての漬物
浅草の待乳山聖天への奉納用大根の産地は鹿児島県特産の黒豚の排泄物を利用した有機肥料を使用し、火山灰地の畑から送られたものです。ねじられた形になった大根も不思議。二股大根は生長点が傷ついて出来ると思うが、ねじれはどうすれば出来るのだろうか?同じ畑のはず。

2004年10月、東京農業大学「食と農」の博物館に「地大根(地方の在来種)」が一堂に集められ、「大根フェスタ」が開催された。この時、浅草の待乳山聖天の大根を知りました。現地に行ってみると二股大根がシンボルとなっていて、青首大根が奉納されていました。早速タクワン大根の生産者に絵を描いて、同じような形の大根を送ってもらうことに頼みました。畑で捨てられていた大根が浅草に奉納される。ささやかな夢がかないました。

考える大根 [監修]東京農大、良い食材を伝える会
図書館で読みました。大根の今の現状が解ります
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エッチな大根の奉納 2

2006年01月04日 | 趣味としての漬物
農家なら当然のことと思っているが、都会の消費者は例えば大根のような野菜も真っ直ぐでヒゲがなく、青首の甘い大根しかないと思っても不思議でない。大きくて変形した白い伝統品種の大根が畑で成長して選別の後、市場に出荷されないこと知らない。九州の農家から送られた奉納用の大根の中にはどうしてこんな形になるのか不思議である。スーパー等で販売されている青首大根と違って白い伝統種の大根はまるで足つきのトルソー、妙に艶かしい。
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エッチな大根の奉納

2006年01月03日 | 趣味としての漬物
2004年11月下旬の日曜日に九州の荷主さんから予ねてから頼んでおいた二股大根が到着したので浅草の待乳地山聖天に奉納させていただきました。2003年と違って台風の害もなく、大根は順調に生育しました。二股大根は待乳山聖天のシンボルです。大根と巾着。大根は身体を丈夫にしていただき、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護頂ける功徳を表しています、また巾着は財宝で商売繁盛を表しており、境内のいたる所にこの二つが印されています。
大根は清浄、淡泊な味わいと、体の毒素を中和して消化を助ける働きがあることから多くの人に好まれ、また、聖天さまのお働き(おはたらき)を表すものとして尊ばれ、昔から聖天さまの供養に欠かせない供物とされており、その「お下がり(おさがり)」をいただくと、身体と心の健康を得ることができるといわれています。
12月になると気象庁の暖冬予報も外れて、大雪の害によって暮れの野菜の価格も高騰し、大根生産農家や青果業者は喜んでます。聖天さまのご利益かも?年明けには、巾着の中に財宝が入るかもしれません。
お供えの大根を、「ふろふき大根」に調理して参拝客に振る舞う、新春恒例の「大根まつり」が1月7日、浅草7丁目の待乳山聖天(待乳山本龍院)で盛大に行われます。午前11時より午後1時半まで。
       
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