稲村亭日乗

京都の渓流を中心にルアーでトラウトを釣り歩いています

稲村亭 流木で作られた家の話

2016年03月13日 | 日々
 (このブログのタイトル「稲村亭日乗」の由来にかかわるお話です。長文になりますが、関心のある方はお読みください。)

 稲村亭
 インターネットで「稲村亭」を検索すると、「鎌倉稲村亭」「肉の稲村亭」「炭火焼豚」などが出てくる。
 が、ここで言う稲村亭は、紀州 串本町串本879番地にある家のことで、ぼくの生家でもある。

 1875(明治7)年に建てられた平屋建て153㎡。
 広い意味ではこの建物全体を指すが、厳密には奥の十畳と八畳の二間を指して稲村亭と呼ぶ。

        

 その名の由来
 江戸時代から明治にかけての串本の商人で、ぼくの曽祖父にあたる神田清右衛門第十二世 直堯(なおたか)翁。
 この翁が有田村(現 串本町有田)の稲村崎に流れ着いた流木で造ったことに由来する。

 東京朝日新聞社の杉村広太郎氏が明治42年5月、次のように記している。
「見ると、なる程八畳、十畳の二室は柱、梁(うつばり)の類よりふすま、障子はいうも更なり、この室で使う衝立(ついたて)、屏風、煙草盆に至るまで、ことごとくこの木一本で作られている。
 世にもめずらしいものだ。」(『大正名著文庫へちまのかは』所収)

        

 流木
 曽祖父 直堯翁が残した「手記」には次のように記されている。
「廻りは一丈五、六尺、長さもそのくらいの大木・・・」
 つまり長さは約5メートル。
 廻りが約5メートルというから直径は約150cmということになる。
 前に引用した杉村広太郎氏によれば
「(この木を)転がした端に人が立つと、ちょうど頭と木がすれすれになったという」とある。
 つまり直径は大人の背丈ほどあったわけだ。

 さて、その当時、困ったことには、串本にはこんな大木を挽くべき大鋸もなければ木挽きもいない。
 そこで大阪に人をやり、別仕立ての鋸をこしらえ、木挽きを集めたそうな。

 そうしてこの大木をひき割ってみると、長年海水につかり、表面は汚くなっていた材木。
 それが内部は「ベッコウのような色に光っていた」(杉村)という。

 そこで、串本の浜に「長さ二間(約360cm)に余る大風呂を焚いて、ひき割った材木を一々これで煮て塩出しを行った」とある。
 この塩出しが済むと「木は堅いし、色は美しいし、いっそ記念のために、この木ばかりで家を建てたらばどうだろうかという議論が起こって遂にこれに決し」(杉村)たそうだ。

 直堯翁の入手経緯
 では、直堯翁はどのようにしてこの流木を入手したのか。

        
          ( 直堯翁 1815年~1892年 )

 翁は手記に次のように記している。

 (直堯翁と拾得人のやりとり)
 明治と年改まった頃から、私は自分の隠居所を建てるつもりで木材を取り寄せ、同四年五十七歳の春着工した。・・・
 ちょうどその頃、有田から「大きな流木を拾うているから見に来るように」と相次いで知らせを受けたが、もはや用材も大体ととのうているから聞き捨てにしていたところ、更に度々知らせが来る。
 やむなく大工と木挽を同道して、有田に行ってみるとなる程 稲村の磯に大木が打ち上げられている。
 拾得人は土地の漁師で
「串本の旦那がお気に入ったならお使いなさいませ」という。
「次第によってはもらうけれども値段を決めないことには」と答えたところ
「私が拾うた木ですから決してお金は要りません。どうぞお使いなさいませ」と重ねていう。
 いかにも不審に思うたので
「私が買うたあとで他の人が 俺ならもっと高く買うのであった などとよく言うものであり、そうなればそなたも残念に思うであろうし、私もこの木を使って決して快いことではない。幾らでもよいから、とにかく値段を言いなさい」と繰り返して言うけれども、やはり拾得人は
「実は袋や周参見からも買いに来ましたが、串本の旦那が新築なさると聞き、是非旦那に差し上げたい・・・。
 私は、拾うたものですから決して幾らいただこうなどとは思うていません。どうぞお使いなさいませ。」
 意外に拾得人のきまじめな誠実に打たれた私は一層感銘深く
「それでは金五両を差し上げよう。又、流木拾得物はその半額を役所へ納めるのが定法だから、その分も私が別に納めておいてあげよう」
 と答えたことであった。

        
        (  潮岬から稲村崎を望む )

 (拾得人 房右ヱ門の真意)
 直堯翁はこうして大木を入手したものの、一面識もない直堯翁に対する拾得人の真意をはかりかねた。翌日、直堯翁を訪ねてきた有田の深美勇蔵氏(有田村の有力者と推定される 引用者)。

 氏は直堯翁に次のように説明した。
「あの材木はただでも呉れるはずでした。
 拾得人は漁師の房右ヱ門といい、その心入れというのは、前年、極米切れ(大飢饉)のとき、あなたによほど恩があるからだ、ということを本人から聞きました。本人の話によると
 あれから親類等が集まって『あの木を神田へ譲らずに、ほかへ売ったなら二十両でも売れるものを・・・お前はアホウじゃ』と言うので房右ヱ門はすかさず
『おれよりお前らの方がアホウじゃ。
 お前らもいつぞやの年の盆から祭り前(旧暦八月から十月)までこのあたり一帯、田辺から長島まで米一粒もない飢饉になったことがあるのをまさか忘れてはいまい。
 当時おれは子どもは多いし、有田では麦の三合も貸してくれる人とてなし。毎日何を食わそうかと心配したあげく、ようやく浜ゴボウを掘ってきてどうにか飢えをしのぎかねていた。
 ところへ勇蔵様(深美氏)から米をもらいに来いとのおふれが届いた。
 何はともあれ、早速カカァに手桶を持たせてやったところ、結構な米 二升八合をいただいた。

 うれしさのあまり直ぐに勇蔵様へ参り
 あの米は一体どうしたのですかと尋ねたら
 あれはな、天から降ってきた米じゃから銭を払わんでも、礼を言わんでもよい。もらっておけばよいのじゃとのこと。
 おれは心の中で、これはきっと神田から呉れたに違いないが、大勢の人からお礼など言われるのも面倒、と名を伏せておられるのだろう。それなら魚でも釣ったとき持ってゆこうかと思うたが、礼に来られるのが嫌いという噂を聞き、結局今まで心に想うばかり、一度も恩返しをしたことはなかった。
 幸い、今度あの木を拾うたので、ほかからも買いには来たが、一切断って、この度こそはと神田へ差し上げたのじゃが、お前らはあのときの米のことも、また安政の地震、津波のときにもろうた御恩まで、もはや忘れてしもうたのか。そうすればおれよりお前らの方がずっとアホウではないか』
と言い切った、ということです。

        
          ( 稲村崎の海岸 )

(直堯翁の記憶)
 深美氏から説明を受けた直堯翁は思い出した。
『あの当時は当今とは違って船も少なく、また船足もおそかったため、特に天災の多いへき地であるこの地方(串本一帯)では主食の米が底をついて飢饉の状態になることは決してまれではなかった。
 ことにその年は滅多にないひどい飢饉であった。たまたま私が有田の勇蔵方へ立ち寄ったとき、偶然にも大阪から荷を積んだうちの米船が今着いた、と店の者が知らせて来た。
 それで早速その一部を勇蔵方へ荷揚げさせ、有田周辺の貧しい人たちに家族数などに応じて然るべく無償で配ってあげてほしい、但し決して私の名を出してはいけない、と頼んで帰ったときのことを指しているわけであろう。
 また、その前の安政飢饉云々というのは、やはり同様なことで、そのときは米、味噌、醤油のほかに銭三百文位ずつ家族数の多少に応じ、当地方一帯の貧者へ贈ったことを指しているものと思われる』

        
        ( 屋根裏にある棟札 明治7年とある )        

 こうして直堯翁は房右ヱ門の真意を了解した。

 稲村亭に刻まれた人の心
 先に引用した東京朝日新聞社の杉村広太郎氏は前掲文でこうも述べておられる。
「神田家が飢饉を救った心掛けもゆかしいが、これを覚えていてその日暮らしの貧しい漁師が欲を離れてこれに報いんとした心掛けはなお以ってゆかしい。」と。
 そう思えば、一見ただの古い屋敷。
 が、それが飢饉や津波という自然災害を背景に、人と人とが取り結んだ心の交流を百四十余年にわたって今なおそれを伝えているとすれば、その心意気の灯、今なお消えてはいないというべきだろう。

        
          ( 大正期頃と思われる写真 )

 杉だった流木
 ところで、長年わからなかったのは、この流木は何の木なのかということだった。
 ぼくの祖父 清兵衛は大正期、この謎を解くべく、東京帝大林学博士 三浦先生をはじめ、四名の博士の方々に問うている。
 けれども、「杉に近し」と「杉に非ず」との所見が示されたまま解明には至らなかった。
 祖父清兵衛は
「ああ、五十年前不可解なりし稲村木は、進歩せる今日の科学的研究を以ってしてなおかつ一個の謎として残されたり。
 恐らくは是れ遂に永遠の謎たるべき乎」と長嘆している。
 また、昭和四十年、京都大学林学博士佐藤弥太郎氏が稲村亭を訪れたおり、ぼくの父が樹種について質問したときのこと。
「・・・(長い年月を経て)恐らく学問的、特に化学的手法を以って解明することは不可能事というべきだろう」という答えをもらっている。

        
         ( 流木で造られたついたて )

 ところが、数年前、和歌山県教育委員会から稲村亭の写真撮影に来られたとき、樹種がわかるかもしれないということでサンプルを提供した。
 そうして2011年3月1日、同委員会から橿原考古学研究所の分析結果が送られてきた。

 結果はスギ科のスギ。
 この流木に特徴的な褐色は、杉のさまざまな色合いのひとつであろうということ、ただ、本州から四国、九州、屋久島に分布する杉のうちのどこの杉かは特定困難ということだった。
 いずれにしても、この家が建てられてから136年ぶりにわかったわけだ。

        

 稲村亭の串本町への移管
 さて、この稲村亭、数年前に母が逝去し、ついに空き家となってしまった。
 ぼくの父はこの家をぼくに継承することを望んでいたが、「最終的にはお前のエエと思うようにしたらエエ」と言い残して他界した。

 稲村亭には今もときおり町内外から中を見せてほしいという人が訪ねてくる。
 ぼくはそういう要望に応えるべく、この稲村亭を町に移管し、広く公開できないかと考えた。
 幸い、串本町文化財審議委員会委員長 潮崎勝之氏と元県の教育委員会職員 西山修司氏がいずれも個人として賛同してくださり、助言を頂いた。
 また西山氏には図面づくりと文書の整備にも御尽力頂いた。

        
         ( 敷地北側 台形の石垣 これは取り壊される予定 )

 2015年7月、潮崎氏の仲介で町長に面会し寄付の意向を伝達。
 審査を経て、同年12月、町総務課から申請を受理するとの回答を得た次第だ。
 
 文中の資料
 本文で引用した直堯翁の手記を初めとする資料は、すべて神田清兵衛が編纂した「一樹の蔭」(大正十年八月 非売品)による。

        
  
 なお、引用した文章はすべて現代語訳であることをお断りしておく。
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10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (テンカラ太郎)
2016-03-16 01:44:50
神田さん
お久しぶりです。
記事、拝見致しました。
前々から、建物の由来についてお伺いしたいと思っておりまして、とても興味深く読ませていただきました。
心洗われる美談でした。
帰国したら、一度是非お伺いしたいと思います。
石垣が取り壊されるというのはいささか残念な気がします。
テンカラ太郎
返信する
御礼 (神田)
2016-03-20 21:06:08
 太郎さん、コメントありがとうございます。

 長文で恐縮ですが、読んでいただきとてもうれしく思っています。
 町の方で整備し、公開することになろうかと思います。
 いつか機会があればご覧になってください。
返信する
Unknown (ムー)
2017-12-30 12:19:05
初めまして。
わたしゃ国さという本の中で稲村亭の、恩返しの家というお伽話が紹介されており(へちまの皮でも書かれているとある)、検索していたところこの記事を見つけました。
本の作者も謎の流木の鑑定について見解を問われ、東大の亘理俊次博士に用材を送り研究してもらった結果、セコイアであろうと知らされたそうです。
亘理博士の想像では、たとえば木材輸送船から落ちたものなどかもしれないと。
そして流木の前後が丸坊主のように丸くなっていた点、塩の浸透状態から見ても15年程太平洋を彷徨ったものではとの研究結果を伺ったとされていました。
アメリカ西海岸の山にはセコイア高木が群生しており、造船用材として看板などの一枚張に使われていたそうです。
お伽話でもカリフォルニアの森から木を頂戴したとあって素敵だなと思い、実際は杉であったにせよこんな鑑定結果もあったとコメントさせていただきました。
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返信 (神田)
2017-12-31 09:58:53
 ムーさん、ありがとうございます。
 
 いわゆる稲村木がなんの木?というのは古くから探索されてきたようです。

 しばらくあきらめていたものがぼくの代になってから、あっさり杉と判定されたこと。やや拍子抜けではありました。

 分析技術の進歩には目をみはる思い、まさに隔世の感ですね。

 もっとも、謎のままの方が夢があったのかも・・・という思いは禁じえませんが。

 このたびはコメントをいただき感謝いたします。

 稲村亭もいよいよ、宿泊施設として再利用されるようです。

 では。
返信する
くじらのお礼 (おはなしおばさん)
2018-10-05 15:44:46
和歌山の民話について調べていてブログにたどり着きました。
「鯨を助けた子どもがアメリカに渡る」というお話はとても面白く、子どもたちにも聞かせたいと思いますが、いかにも昔話のような動物報恩のモチーフがどのような経路で付け加えられたのか大変興味があります。
神田家では、昔話として語られていたのでしょうか?どのような伝承を経て、鯨の恩返しのモチーフが付け加えられたのか、ご存じでしたらお教えください。
返信する
話の経路 (神田)
2018-10-06 11:08:10
 おはなしおばさん。
 お寄りいただき、ありがとうございます。

 お尋ねの件ですが、私にもよくわかりません。

 クジラといえば太地がよく知られていますが、昔は串本でも大島などでよくさばかれていたそうです。
 そんな関係で、明治・大正期の串本の住人にはクジラが身近だったのかもしれません。

 亡き父はこれについて何も言いませんでした。
 父の姉が私に、このお話しは祖父清兵衛の創作だったと語っていた記憶があります。

 そういうわけで、いきさつははっきりしません。

 お役に立てず申し訳ありません。
 コメントをお寄せいただいたことに感謝申し上げます。

 また何かあればお気軽にお尋ねください。
返信する
ありがとうございます (おはなしおばさん)
2018-10-06 21:53:44
家に伝わる先祖の話を物語にして語り聞かせるなんて、とてもステキですね。昔話の誕生を見るようです。是非語り継いでいって欲しいと思います。
エルトゥールル号の事件の話、レィディワシントン号の来港、串本には素晴らしい伝承の遺産が沢山あるんですね😆✨
返信する
物語 (神田)
2018-10-07 16:36:01
 おはなしおばさん、ていねいなコメントに感謝いたします。

 また何かあれば御気軽にどうぞ。

 なお、稲村亭は宿泊施設として2019年の1~2月頃にオープンするそうです。

 機会があればお立ち寄りください。
返信する
はじめまして (長風呂呑平)
2019-06-10 09:11:53
先日に串本町高富で製材業を経営される稲生商店さんとの会話の中で
こちらの「稲村亭」が話題に上がり、職業柄たいへん興味を持ちました。

その後検索して詳しく知ると、今どきでは到底あり得ない美談に感銘しました。
そこで思わず弊店サイトで、この記事にリンクを張らせていただきました。
http://blog.mottowood.com/

事後承諾で誠に申し訳ありませんが、記事中不都合や不適当な箇所がありましたら
お手数でもご指摘くださいますようお願い致します。
返信する
リンク了解の件 (神田)
2019-06-11 18:07:10
 長風呂さん、ご訪問いただき、ありがとうございます。
 リンクの件、快諾いたします。

 こうしてご覧いただくのはとてもうれしいことです。

 材木については、専門機関で鑑定を受け、日本産のスギであるとされました。
 ただ、どこの産であるかはわかりませんでした。
 確かに、やや赤茶色というのが少し違うとは言われますが。

 なお、昨日6月10日、古民家ホテルの開業セレモニーが開かれ、7月1日オープンとのことでした。

 どうぞまた見学で足を運んでくださればと思います。
 スタッフたちも歓迎してくれるはずですので。
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