事件の構図
7月26日、オウム死刑囚13人、全員の刑が執行された。
特異な事件ではあった。
ぼくには事件全体を通して二つの契機が見えるような気がする。
ひとつは早川紀代秀の「私の誤りはグルは間違うことがないと信じていたことです」
の言葉に代表される教祖への絶対的信頼。
もうひとつは井上嘉浩の「救済の名において・・・多くの方々の命を奪ってしまった」
の述懐にみる「救済」という動機だ。
人の普通の感覚では絶対になしえない一線が教祖への無批判(思考停止)の信頼と
救済という「善」のために容易に乗り越えられてしまうという構図。
繰り返される狂気
確かに今の世でこれは特異に見えるひとつの狂気だ。
が、過去をさかのぼれば ぼくは連合赤軍事件にも共通したものを感じる。
さらに、国家的な規模では中国で吹き荒れた文化大革命、
さらに日本の太平洋戦争、そしてナチズムにもだ。
その限りでは性格や規模を別とすれば、この種の歴史は繰り返すように思えてならない。
絶対的信頼に隣り合わせる迷い
ただ、今回死刑となった一人 横山真人(54)のこと。
彼も地下鉄サリンの散布実行者の一人だった。
当日、彼は計画どおり電車に乗ったものの、警察官の乗った車両をねらうと教えられていたのに、
乗客は普通のサラリーマンばかり。
なぜ?という疑問がわき、結果的にサリンの一袋だけにしか穴をあけられなかったということだ。
もちろん、乗客は負傷したものの、その車両からは死者は出なかったそうだ。
これは一例ながら、教団の最高幹部といえども迷いや疑問は起こりうるということなのだろう。
幹部たちにもあったはずの迷い
おそらく他の死刑囚にも、それはあったはずだ。
狂気の世界に分け入った者を後戻りさせるということほど難しいことはない。
けれども、そこに可能性があるとすれば、おそらくこの迷いや疑問しかないだろう。
刑の執行が終わり、テロで犠牲になられた方々の無念とはまた別に、
ぼくは死刑囚たちが最後にたどりついたであろう無念を思う次第だ。
7月26日、オウム死刑囚13人、全員の刑が執行された。
特異な事件ではあった。
ぼくには事件全体を通して二つの契機が見えるような気がする。
ひとつは早川紀代秀の「私の誤りはグルは間違うことがないと信じていたことです」
の言葉に代表される教祖への絶対的信頼。
もうひとつは井上嘉浩の「救済の名において・・・多くの方々の命を奪ってしまった」
の述懐にみる「救済」という動機だ。
人の普通の感覚では絶対になしえない一線が教祖への無批判(思考停止)の信頼と
救済という「善」のために容易に乗り越えられてしまうという構図。
繰り返される狂気
確かに今の世でこれは特異に見えるひとつの狂気だ。
が、過去をさかのぼれば ぼくは連合赤軍事件にも共通したものを感じる。
さらに、国家的な規模では中国で吹き荒れた文化大革命、
さらに日本の太平洋戦争、そしてナチズムにもだ。
その限りでは性格や規模を別とすれば、この種の歴史は繰り返すように思えてならない。
絶対的信頼に隣り合わせる迷い
ただ、今回死刑となった一人 横山真人(54)のこと。
彼も地下鉄サリンの散布実行者の一人だった。
当日、彼は計画どおり電車に乗ったものの、警察官の乗った車両をねらうと教えられていたのに、
乗客は普通のサラリーマンばかり。
なぜ?という疑問がわき、結果的にサリンの一袋だけにしか穴をあけられなかったということだ。
もちろん、乗客は負傷したものの、その車両からは死者は出なかったそうだ。
これは一例ながら、教団の最高幹部といえども迷いや疑問は起こりうるということなのだろう。
幹部たちにもあったはずの迷い
おそらく他の死刑囚にも、それはあったはずだ。
狂気の世界に分け入った者を後戻りさせるということほど難しいことはない。
けれども、そこに可能性があるとすれば、おそらくこの迷いや疑問しかないだろう。
刑の執行が終わり、テロで犠牲になられた方々の無念とはまた別に、
ぼくは死刑囚たちが最後にたどりついたであろう無念を思う次第だ。