去る8月24日夜、白金高輪駅で起きた硫酸事件。
(被害者) 「おい、花森」
(花森弘卓氏)「花森さんだろ」
事件は、琉球大学時代のこの二人のやり取りなどに端を発したという情報だ。
そんなことで硫酸を?!という異常さ、執拗さに驚く一方、
ぼくら日本人の心深くにある一種の序列意識の強さに改めて気づかされる思いだ。
共通するぼくの体験
ぼくの学生時代、たくさんの仲間がいた。
先輩、同輩、後輩。
お互い初対面の頃だけは丁寧だったが、
打ち解けてくるともうみんな「ため口」が普通だった。
ただ、そんななかでも暗黙の決まりがあり、先輩に対しては呼び捨てせず、
「さん」「くん」あるいは愛称が一般的な呼び方だった。
しかし、2年下の横川君(仮名)だけは別だった。
彼は誰に対してもひどい「ため口」で、ぼくに対しても「神田ッ」と呼び捨て。
そのたびに不快に感じたことを今も覚えている。
(もっともぼくは花森氏のように「神田さんやろ」とたしなめはしなかったが。)
花森氏のいわば「恨み」とぼくの「不快感」、
その根は同一のもので、序列を無視することへの抵抗感だと言ってよかろう。
現実の人間関係のなかで
考えるに、現実の世の中は、単純に年齢の上下だけでなく、
年上の後輩、年下の先輩、さらに職場が関わると年下の上司や年上の部下などという
ねじれた関係が複雑にからんでくる。
思えばぼくらはそういう複雑な人間関係の中で
自分の位置関係を確かめながら日々、表現や言葉などを選んでいるのかもしれない。
学生時代の無礼な言動も社会人となれば当然にただされていく。
花森氏が後輩の言動を許せなかったことは彼の個性だったのかもしれない。
が、あえてぼくは学生時代の過ぎたことは忘れて、
自分の道をまっすぐ進んでは?と言いたい。。
犯罪にあたる行為まで犯しては・・・と彼をあわれむ次第だ。
ところで、ぼくの古き後輩、横川君はその後どうなったろう。
今も偶然に出会ったら「神田ッ!」と呼ぶだろうか。
ぼくは聞こえないふりをしてしまいそうだ。
(被害者) 「おい、花森」
(花森弘卓氏)「花森さんだろ」
事件は、琉球大学時代のこの二人のやり取りなどに端を発したという情報だ。
そんなことで硫酸を?!という異常さ、執拗さに驚く一方、
ぼくら日本人の心深くにある一種の序列意識の強さに改めて気づかされる思いだ。
共通するぼくの体験
ぼくの学生時代、たくさんの仲間がいた。
先輩、同輩、後輩。
お互い初対面の頃だけは丁寧だったが、
打ち解けてくるともうみんな「ため口」が普通だった。
ただ、そんななかでも暗黙の決まりがあり、先輩に対しては呼び捨てせず、
「さん」「くん」あるいは愛称が一般的な呼び方だった。
しかし、2年下の横川君(仮名)だけは別だった。
彼は誰に対してもひどい「ため口」で、ぼくに対しても「神田ッ」と呼び捨て。
そのたびに不快に感じたことを今も覚えている。
(もっともぼくは花森氏のように「神田さんやろ」とたしなめはしなかったが。)
花森氏のいわば「恨み」とぼくの「不快感」、
その根は同一のもので、序列を無視することへの抵抗感だと言ってよかろう。
現実の人間関係のなかで
考えるに、現実の世の中は、単純に年齢の上下だけでなく、
年上の後輩、年下の先輩、さらに職場が関わると年下の上司や年上の部下などという
ねじれた関係が複雑にからんでくる。
思えばぼくらはそういう複雑な人間関係の中で
自分の位置関係を確かめながら日々、表現や言葉などを選んでいるのかもしれない。
学生時代の無礼な言動も社会人となれば当然にただされていく。
花森氏が後輩の言動を許せなかったことは彼の個性だったのかもしれない。
が、あえてぼくは学生時代の過ぎたことは忘れて、
自分の道をまっすぐ進んでは?と言いたい。。
犯罪にあたる行為まで犯しては・・・と彼をあわれむ次第だ。
ところで、ぼくの古き後輩、横川君はその後どうなったろう。
今も偶然に出会ったら「神田ッ!」と呼ぶだろうか。
ぼくは聞こえないふりをしてしまいそうだ。