八幡市橋本にて
京都府八幡市橋本を訪ねる。
京阪橋本駅付近。その昔、遊郭があったところ。
旧国道1号線からも京阪電車からも垣間見える。
ぼくにとって実際に足を運ぶのは初めてだ。
(国道旧1号線からの風景)
駅を出て
駅前に「橋本渡舟場三丁」の石碑。
この旧遊郭一帯が渡し舟の発着にかかわっていたことを示している。
すぐ近くに大きな木造建物。
一見、廃屋のように見えるが、共同住宅のようだ。
ここは歌舞練場だと聞いたことがある。すると祇園(東山)や上七軒(上京)のように芸者がいたのか?
古びた看板がかかっているが判読できない。
建物敷地の入り口には石柱が2本。
門扉の支柱のようだ。さぞかし昔は頑丈な扉がついていたのだろう。
失礼して敷地に入ると、すぐに祠(ほこら)。
長年放置されているとみえ、ほこりだらけ。
お稲荷さんが今も残っている。
志田さんとの出会い
近所で仕事をしている年輩の人に話を聞いてみた。
地元で生まれ育ったという志田さん(仮名)。
その話ではこうだ。
昔のにぎわい
このあたりは、明治から戦後しばらくまで、枚方の新地、伏見中書島の歓楽街などとは比べものにならぬほどの大歓楽街だったそうだ。遊女も何百人を数えたらしい。
対岸の山崎方面をつなぐ渡し舟の着き場であること、岩清水八幡宮参りや高野山への街道筋であることなどで人・物の往来の盛んな土地柄であったことによるそうだ。
「けんば」の話
ぼくが関心をもった大きな木造建物。
あれは歌舞練場ではなく、「けんば」と呼ばれ、地域一帯の事務所、遊女の検診、娯楽場など多目的施設であったそうだ。
言うなれば、昔のこの街の象徴だったのだろう。
遊女たち
遊女たちは各地の歓楽街を渡り歩く者や買われてきて定着した者などさまざまだったそうな。
ぼくは、ここで死んだ遊女たちはどこに埋葬されたのか尋ねてみた。
地元には寺があり、墓が二箇所ある。
が、寺は格式高く、墓もまた遊女たちの埋葬される場所ではなかったという。
どこかで合葬されたのだろうが、今となってはその場所もわからないそうだ。
(駅前にある西遊寺)
志田さんが子どもの頃、近所の料亭では遊郭を経営する旦那方の飲み騒ぐ声がよく聞こえたという。
なんとなくやりきれない思いだ。
街並み
高野街道と呼ばれたその通りを歩く。
昔の面影を残すたたずまい。
戦後、売春が禁止されて以降、歓楽街は急速な衰退をみたという。
志田さんに、この面影を保存する動きはないのですかと問う。
「それはありません。エエことならともかく、マイナスイメージがどうも・・・。
でも、こんな昔のことを知っとるのは私で最後ですよ。ウチの子どもらに話しても『それ何?』ですからねえ・・・。」と。
桜の下で
町外れの水防倉庫。やや広い草地。
桜が二本。つぼみもふくらみ始めている。
その昔、遊女たちも、陽のあたるこんな場所で桜をめでることがあったのだろうか。
京都府八幡市橋本を訪ねる。
京阪橋本駅付近。その昔、遊郭があったところ。
旧国道1号線からも京阪電車からも垣間見える。
ぼくにとって実際に足を運ぶのは初めてだ。
(国道旧1号線からの風景)
駅を出て
駅前に「橋本渡舟場三丁」の石碑。
この旧遊郭一帯が渡し舟の発着にかかわっていたことを示している。
すぐ近くに大きな木造建物。
一見、廃屋のように見えるが、共同住宅のようだ。
ここは歌舞練場だと聞いたことがある。すると祇園(東山)や上七軒(上京)のように芸者がいたのか?
古びた看板がかかっているが判読できない。
建物敷地の入り口には石柱が2本。
門扉の支柱のようだ。さぞかし昔は頑丈な扉がついていたのだろう。
失礼して敷地に入ると、すぐに祠(ほこら)。
長年放置されているとみえ、ほこりだらけ。
お稲荷さんが今も残っている。
志田さんとの出会い
近所で仕事をしている年輩の人に話を聞いてみた。
地元で生まれ育ったという志田さん(仮名)。
その話ではこうだ。
昔のにぎわい
このあたりは、明治から戦後しばらくまで、枚方の新地、伏見中書島の歓楽街などとは比べものにならぬほどの大歓楽街だったそうだ。遊女も何百人を数えたらしい。
対岸の山崎方面をつなぐ渡し舟の着き場であること、岩清水八幡宮参りや高野山への街道筋であることなどで人・物の往来の盛んな土地柄であったことによるそうだ。
「けんば」の話
ぼくが関心をもった大きな木造建物。
あれは歌舞練場ではなく、「けんば」と呼ばれ、地域一帯の事務所、遊女の検診、娯楽場など多目的施設であったそうだ。
言うなれば、昔のこの街の象徴だったのだろう。
遊女たち
遊女たちは各地の歓楽街を渡り歩く者や買われてきて定着した者などさまざまだったそうな。
ぼくは、ここで死んだ遊女たちはどこに埋葬されたのか尋ねてみた。
地元には寺があり、墓が二箇所ある。
が、寺は格式高く、墓もまた遊女たちの埋葬される場所ではなかったという。
どこかで合葬されたのだろうが、今となってはその場所もわからないそうだ。
(駅前にある西遊寺)
志田さんが子どもの頃、近所の料亭では遊郭を経営する旦那方の飲み騒ぐ声がよく聞こえたという。
なんとなくやりきれない思いだ。
街並み
高野街道と呼ばれたその通りを歩く。
昔の面影を残すたたずまい。
戦後、売春が禁止されて以降、歓楽街は急速な衰退をみたという。
志田さんに、この面影を保存する動きはないのですかと問う。
「それはありません。エエことならともかく、マイナスイメージがどうも・・・。
でも、こんな昔のことを知っとるのは私で最後ですよ。ウチの子どもらに話しても『それ何?』ですからねえ・・・。」と。
桜の下で
町外れの水防倉庫。やや広い草地。
桜が二本。つぼみもふくらみ始めている。
その昔、遊女たちも、陽のあたるこんな場所で桜をめでることがあったのだろうか。