高知のプールでの事故から
7月5日、
高知の小学4年生がプールでおぼれ、病院に搬送されたが亡くなった。
報道によれば、
その生徒が沈んでいるのを見つけ、引き上げたのは同級生たちで、
その時点まで三人いた教諭は誰も気づかなかったという。
対処はすみやかだったのか?、
また蘇生のための応急手当は施されたのか?
いずれにしてもいたましい事故だ。
これを機に、学校側が
水泳指導をやめてしまいはしないかという心配もまた起こる。
思い出す学校水泳の日々
こんなとき、ぼくは郷里串本の「学校水泳」のことを思い出す。
ずいぶん昔、ぼくが小学生だったころ、
毎年7月ともなれば午後の授業は毎日海水浴だった。
泳力に応じた等級制度もあり、
7級(5メートル)から1級(遠泳 1300メートル)まであった。
( 学校からの引率で )
夏休みに入ると、
学校が指定した町内の三か所の水泳場で午後の2時間、海水浴ができた。
PTAが組んだ当番制で、
水泳場ごとに3人くらいの保護者が毎日監視員として詰めた。
ぼくら小学生は保護者なしでの水泳は禁じられていたが、
指定された水泳場なら小学生同士でも泳ぎにこられた。
これが「学校水泳」だった。
海で遊ぶのが好きだったぼくは友達と誘い合わせ、毎日通った。
楽しくて楽しくて、夏休みがずっと続けばいいと思った。
学校水泳の危うさ
しかし、大人になってぼくはプール事故の報道に接するたびに、
この学校水泳にある種の危うさを感じることになった。
PTAの監視員たちはたいていお母さん方だった。
仮りに誰かがおぼれたとしても、助けに行けるとは思えなかった。
いや、それ以前に実際、監視員たちが砂浜に座り、
百人以上の子どもが広い範囲で水遊びに興じているなか、
おぼれているなどの異常に気づけるなどできっこない。
プールのような限られた範囲の監視とはワケが違うのだ。
ぼくはある年の夏休み、
これから泳ごうと砂浜で服を脱ぎながら歩いていたとき、
足の裏にするどい痛みを感じた。
ガラス瓶のかけらを踏んでしまったのだ。
かなり出血した。
監視員がやってきて
「これはあかん、医者や」と言われ、医院に送られ縫合処置を受けた。
監視員の役割というのは、
実態からみればこうした「連絡」だったのかもしれない。
結局ぼくのケガのときと同じように、
もしも水難事故が起きれば監視員たちは児童から連絡を受け、
一方では可能なら救助、もう一方では警察や学校に連絡といった、
あくまでも事後的対応、それが限界だったのではないか。
発見、救命という点では明らかに遅い。
学校水泳は、つきつめれば
この限界を認めた上に成り立っていたという気がしてならないのだ。
昨今、プールでの事故が起こるたびに
厳しく問われる現場の教諭たちの責任、そして学校や教育委員会の責任。
今なら、当時の串本の学校水泳制度などは、
危険すぎるとして、学校側もウンとは言わないだろう。
また責任を問われることを恐れ、
監視員になる保護者も出てこないだろう。
時代とともに
問われる責任の重さがまったくちがってきたと感じるところだ。
されど思い返す学校水泳のありがたさ
けれども、もしもぼくらの小学生時代、
あの学校水泳制度がなかったら、ぼくらは夏休みにほとんど泳ぎには行けなかった。
というのも、ぼくの親は自営業で、
当時の仕事には休みというものがなく、友達の多くも同じような事情だったからだ。
おそらく、あの当時なりに、教育委員会や教職員、
PTAなどでも安全性をめぐっての議論はあったはずだ。
そのうえで知恵をしぼって学校水泳の実施を決断したのは、
子どもたちに健康的で楽しい夏休みを!という願いからだったのではなかったか、
そう思うと、ぼくの心は感謝の気持ちでいっぱいになる。
( 指定水泳場のひとつ 上浦 )
やがてぼくらは卒業。
その何年か後には串本小学校にもプールができた。
それを機にか、学校水泳はいつしかなくなったようだ。
學校水泳の期間中、水難事故があったという話は聞かなかった。
「よかった」としみじみ思う。
大水崎(おおみさき)、夏休みにぼくらが毎日遊んだ
そのなつかしい砂浜もすでに埋め立てられ、今はもうない。
改めて学校水泳のために尽くしてくれた当時の先生方や
PTAの方々の努力に感謝したい。
あの楽しかった夏の日々の記憶は今もぼくの宝物なのだから。