杭州アジア大会の真最中だ。
報道によると、日本オリンピック委員会(JOC)は、この大会でメダルの目標数を掲げていない。
競技力向上と心の健康を両立させるための試みだという。
実際、メダルをとるべく「公式に」期待された競技者にとって、
その重圧はいかばかりかと想像せざるをえない。
こうした悩ましさは日本だけでなく、
外国にもあるそうで、この世界の隠れた深刻な問題性を示唆している。
スポーツではないが、ぼくはひとつの昔話を思い出す。
弁論大会で優勝した友のこと。
優勝者は代表としてさらに上級の大会に挑むことになる。
その大会での優勝を目指し、その友への関係者たちの「指導」が始まった。
語りのテンポ、間合い、視線・・・はては原稿内容の加筆訂正にまでそれは及んだ。
大会本番前、その友は力なく
「この弁論内容は、ぼくが主張したかったこととは違っている」と身近な友につぶやいたそうだ。
このできごとは、関係者が自分たちの属する組織や団体の栄誉のために必死になり、
そのあげく当人の主体性をゆがめてしまった典型例ともいえる。
はてさて、スポーツの世界にもそれは通じるのでは?
その意味では今回のメダル目標数を掲げない試みには大賛成だ。
競技は競技者個人のもの、これが原点であり、国家や組織を背負わせるべきではなかろう。
ついでながら、
IOCも表彰式典での国旗や国歌もとりやめることを検討してもいいのでは?と思うのだが・・・
報道によると、日本オリンピック委員会(JOC)は、この大会でメダルの目標数を掲げていない。
競技力向上と心の健康を両立させるための試みだという。
実際、メダルをとるべく「公式に」期待された競技者にとって、
その重圧はいかばかりかと想像せざるをえない。
こうした悩ましさは日本だけでなく、
外国にもあるそうで、この世界の隠れた深刻な問題性を示唆している。
スポーツではないが、ぼくはひとつの昔話を思い出す。
弁論大会で優勝した友のこと。
優勝者は代表としてさらに上級の大会に挑むことになる。
その大会での優勝を目指し、その友への関係者たちの「指導」が始まった。
語りのテンポ、間合い、視線・・・はては原稿内容の加筆訂正にまでそれは及んだ。
大会本番前、その友は力なく
「この弁論内容は、ぼくが主張したかったこととは違っている」と身近な友につぶやいたそうだ。
このできごとは、関係者が自分たちの属する組織や団体の栄誉のために必死になり、
そのあげく当人の主体性をゆがめてしまった典型例ともいえる。
はてさて、スポーツの世界にもそれは通じるのでは?
その意味では今回のメダル目標数を掲げない試みには大賛成だ。
競技は競技者個人のもの、これが原点であり、国家や組織を背負わせるべきではなかろう。
ついでながら、
IOCも表彰式典での国旗や国歌もとりやめることを検討してもいいのでは?と思うのだが・・・