少し前、テレビで珍しく「親父の一番長い日」が流れた。
作詞・作曲した さだ まさしによると
『この作品は12分余りの長い曲、テレビではなかなか歌わせてもらえない。』
とのこと。
久しぶりに聴くとやっぱりいい。
この曲は、誕生から結婚までの娘と父親とのかかわりを兄(「ぼく」)の目から描いたものだ。
ここでは、親父はさしあたり笑いの対象として登場する。
街頭テレビの空手チョップに夢中になる親父。
娘の誕生にあたり、占いの本と辞書と悪戦苦闘したすえ、ありふれた名前を考え出す親父。
運動会では娘にものすごい応援をする親父・・・等々。
言うならば落語の長屋に出てきそうな親父像だ。
が、幸せな親子の暮らしを経て、娘の結婚が日程にのぼってくる段で事情は変わる。
そそっかしく、笑いの対象でさえあった親父は一気に涙を誘う存在へと変わっていく。
この可笑しさから寂しさ、悲しさへの移ろいの描写。
さだまさしの見事な筆であり、構成だと改めて感心する。
語彙の豊かさ、易しい言葉での的確な情況表現。
どれをとってもさだは詩人だ。
が、さらにひとつ、さだが秀でているのは聴衆を笑わせ、
そうして涙を誘うエンターテイナーとしての力であるだろう。
娘を可愛がる父親の姿。
それ自体はありふれたものではある。
さだはその家族しか知りえぬような話を織り交ぜつつ、
生き生きした暮らしぶりを紡ぎ上げている。
その具体的な生活感が多くの人々の共感を呼ぶのではなかろうか。
さて、そのさだも、もう60代半ば。
さすがに特に高音の伸びやゆとりは失われてきたかに聞こえるのが惜しい。
なお、付け加えれば、ぼくには専門的な音楽評価の資格はないが、
編曲者 山本直純がこの曲中につけた間奏はとてもすばらしい。
この家族の幸せな一時期をしみじみと奏でているかのようにぼくには聞こえる。
それも含めてこの曲、永く世に残る名曲だという気がする。
作詞・作曲した さだ まさしによると
『この作品は12分余りの長い曲、テレビではなかなか歌わせてもらえない。』
とのこと。
久しぶりに聴くとやっぱりいい。
この曲は、誕生から結婚までの娘と父親とのかかわりを兄(「ぼく」)の目から描いたものだ。
ここでは、親父はさしあたり笑いの対象として登場する。
街頭テレビの空手チョップに夢中になる親父。
娘の誕生にあたり、占いの本と辞書と悪戦苦闘したすえ、ありふれた名前を考え出す親父。
運動会では娘にものすごい応援をする親父・・・等々。
言うならば落語の長屋に出てきそうな親父像だ。
が、幸せな親子の暮らしを経て、娘の結婚が日程にのぼってくる段で事情は変わる。
そそっかしく、笑いの対象でさえあった親父は一気に涙を誘う存在へと変わっていく。
この可笑しさから寂しさ、悲しさへの移ろいの描写。
さだまさしの見事な筆であり、構成だと改めて感心する。
語彙の豊かさ、易しい言葉での的確な情況表現。
どれをとってもさだは詩人だ。
が、さらにひとつ、さだが秀でているのは聴衆を笑わせ、
そうして涙を誘うエンターテイナーとしての力であるだろう。
娘を可愛がる父親の姿。
それ自体はありふれたものではある。
さだはその家族しか知りえぬような話を織り交ぜつつ、
生き生きした暮らしぶりを紡ぎ上げている。
その具体的な生活感が多くの人々の共感を呼ぶのではなかろうか。
さて、そのさだも、もう60代半ば。
さすがに特に高音の伸びやゆとりは失われてきたかに聞こえるのが惜しい。
なお、付け加えれば、ぼくには専門的な音楽評価の資格はないが、
編曲者 山本直純がこの曲中につけた間奏はとてもすばらしい。
この家族の幸せな一時期をしみじみと奏でているかのようにぼくには聞こえる。
それも含めてこの曲、永く世に残る名曲だという気がする。