先ずはじめに、妙見山古墳は天野川と妙見川に挟まれた、交野市の南方・星田妙見宮の東方尾根・標高162mの妙見山に所在していた古墳。
今から40年余り前の昭和43年頃この付近は、大々的な宅地造成工事が推し進められていた。
妙見山の東部は削り取られ、当時は標高162mもあった山形が大きく崩され、現在は143.7mの姿に変形したと云う。
写真は上から、妙見山古墳が宅地開発の犠牲となった、妙見山東部地区遠景、妙見東住宅地に囲まれた妙見山古墳現場、住宅地に佇む本古墳及び妙見山を背景にした本古墳の様子。
妙見東地区宅地造成の現場で、四条畷高校生が古墳の存在を見つけたのが、古墳時代前期に築かれた妙見山古墳であったと云う。
宅地造成の土砂採取のため、古墳の北側半分は削り取られため、山頂部分を利用して築かれた古墳の墳形が円墳だったか、それとも前方後円墳だったか判断できなかったという。当時の開発優先の姿が見て取れる。
土砂採取で古墳の墳形そのものがすでに破壊されていただけでなく、埋葬設備もすでに盗掘され完全に破壊されていたと云う。
それでも、工事で掘り下げられた場所を平らにならしてみて、幅4mの墓坑があったことが分かったらしい。
墓坑の底には、約30cm幅で掘り下げた排水溝が築かれ、栗石が一面に敷き詰められていたという。墓坑の縦軸方向に幅約2mの平坦面が穿たれ、そこに木棺と副葬品が埋葬されていたらしい。
妙見山古墳とされる現場は、現在では写真の通り、妙見東中央公園として利用されており、古墳のように一応復元されてはいるが、それらしき説明看板もなく、住民も知らない・知らされていない状況。
写真は、本古墳から出土したヒスイ製勾玉とガラス小玉。
粘土槨から出土した遺物は少なく、ヒスイの勾玉1個・ガラス製小玉6個・管玉15個・鉄鏃3点・刀子3点・ヤリガンナ5点程度だった。
さらに古墳の周囲から円筒埴輪の破片が4点ほど見つかったと云う。
こうした発掘調査の結果、消滅寸前だった古墳は、粘土槨を備えた古墳時代前期の古墳だったことが判明した。
妙見東住宅地は展望抜群の所に位置していることから、妙見山古墳の被葬者として肩野物部氏の関係者が想定される。
今から40年余り前の昭和43年頃この付近は、大々的な宅地造成工事が推し進められていた。
妙見山の東部は削り取られ、当時は標高162mもあった山形が大きく崩され、現在は143.7mの姿に変形したと云う。
写真は上から、妙見山古墳が宅地開発の犠牲となった、妙見山東部地区遠景、妙見東住宅地に囲まれた妙見山古墳現場、住宅地に佇む本古墳及び妙見山を背景にした本古墳の様子。
妙見東地区宅地造成の現場で、四条畷高校生が古墳の存在を見つけたのが、古墳時代前期に築かれた妙見山古墳であったと云う。
宅地造成の土砂採取のため、古墳の北側半分は削り取られため、山頂部分を利用して築かれた古墳の墳形が円墳だったか、それとも前方後円墳だったか判断できなかったという。当時の開発優先の姿が見て取れる。
土砂採取で古墳の墳形そのものがすでに破壊されていただけでなく、埋葬設備もすでに盗掘され完全に破壊されていたと云う。
それでも、工事で掘り下げられた場所を平らにならしてみて、幅4mの墓坑があったことが分かったらしい。
墓坑の底には、約30cm幅で掘り下げた排水溝が築かれ、栗石が一面に敷き詰められていたという。墓坑の縦軸方向に幅約2mの平坦面が穿たれ、そこに木棺と副葬品が埋葬されていたらしい。
妙見山古墳とされる現場は、現在では写真の通り、妙見東中央公園として利用されており、古墳のように一応復元されてはいるが、それらしき説明看板もなく、住民も知らない・知らされていない状況。
写真は、本古墳から出土したヒスイ製勾玉とガラス小玉。
粘土槨から出土した遺物は少なく、ヒスイの勾玉1個・ガラス製小玉6個・管玉15個・鉄鏃3点・刀子3点・ヤリガンナ5点程度だった。
さらに古墳の周囲から円筒埴輪の破片が4点ほど見つかったと云う。
こうした発掘調査の結果、消滅寸前だった古墳は、粘土槨を備えた古墳時代前期の古墳だったことが判明した。
妙見東住宅地は展望抜群の所に位置していることから、妙見山古墳の被葬者として肩野物部氏の関係者が想定される。