近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪の歴史散歩 明治から昭和時代

2007年01月31日 | 文化
大阪の歴史散歩の最後は、明治時代以降、今日までの経緯を辿ります。
明治から昭和初期にかけては、政府が造幣局・砲兵工廠を置き、金属工業・繊維産業を中心に、商社・卸売・新聞など様々な商工業が発展し、大阪は東洋一の商工地として多くの企業が勃興した。



写真は、明治時代の大阪市中央区の洋館。

商工業以外でも、文化・芸術・教育などの分野で日本の中心となり、人口も、面積は東京の半分程度ながら、大阪市は日本最大の都市として発展した。
「ほんまでっか!」

しかし昭和10年代より政府が戦時統制をしき、文化・芸術・教育・産業などあらゆる分野の中枢機能を東京に集めたことで、以後大阪は地盤沈下したと云える。

もう少し詳しく遡って見ると、明治に入り、東京が首都に指名され、政治権力・文化的主導権が東京に集中し始めて以来、東京・大阪の競合関係にライバル意識が芽生えたと云う。

しかし当時大阪は、地形的劣勢のほか、インフラ基盤・ハイテクパワーなどが弱く首都機能を十分備えていなかった。
明治初期に沸き始めた文化的ライバル関係は、大阪が経済面における優位性を取り戻すと共に、政治・文化両面においても挑戦に立ち上がった。

1923年(大正12年)の関東大震災で東京が灰燼に帰すや、両者の関係は逆転し、東京一極集中に疑問が投げかけられるキッカケとなった。



写真は、大正時代の大阪市中之島公会堂の光景。

しかし1930年代の後半になると、東京が再び政治的優位性を更新、又文化の主導的地位を取り戻すことになり、更に第二次世界大戦後になると、東京中心主義は留まるところを知らない。

商業的原動力を持つ大阪は、商工業都市のメジャーとして、又大衆文化・緊密な近隣関係・大量消費・効率主義哲学に裏付けられた、経済性・快適性・効率性のモデルであり、経済的首都としての潜在力を秘めている。

しかし世界に通ずる都市として、又日本の政治・文化の中心としては、東京に譲らざるを得ないのが正直な気持ではある。
「しゃあない!」