トンネルの向こう側

暗いトンネルを彷徨い続けた結婚生活に終止符を打って8年。自由人兄ちゃんと天真爛漫あーちゃんとの暮らしを綴る日記

私は何も知りませんでした。

2011-03-09 19:32:14 | ポエム
中学2年から3年にあがると同時に特学に移動が決まった中学2年の最後の日、中学2年の担任は、電話口で泣いていました。

『お母さん、何とかできなかったんでしょうか。もう少し頑張れなかったでしょうか。
方法はなかったでしょうか』と。
普通級のみんなと卒業させてあげたい。
みんなとの関係が悪化したまま終わりにさせたくない。
先生をとても慕っていたお兄ちゃんを先生もとても気に掛け守ってくれました。
自分の手で卒業証書を渡したいそんな想いがあったのだろうと思う。

私も、あの時は小学校の時から慣れ親しんだ友達と一緒に修学旅行も行かせてあげたい。
技術が好きなお兄ちゃんに、色々な授業を体験させてあげたい。
そんな風に思っていました。
だから、気持ちは9割決まっていても1割は不安と後悔がありました。

卒業を祝う会がお兄ちゃんの特学クラスで行われました。
在校生と卒業生とお母さん方、先生方でお祝いしました。

最後に卒業生から在校生への手紙を一人一人読み上げました。

お兄ちゃんは


『僕は、1、2年の普通クラスにいた時の想い出は何もありません。
友達もできず、何も楽しい事はありませんでした。
3年になってこのクラスに来て、たくさん友達が出来ました。
色々な体験も出来ました。
先生が色々教えてくれました。
ぼくは、このクラスにきた事を忘れません。
高等養護学校へ行っても、誰にもいじめれず、たくさん友達を作って
作業をがんばりたいと思います。』

私は何も知りませんでした。

お祝い会の後で、同じクラスのお母さんが
『お兄ちゃん、こっちにきて本当に良かったよね。』と話しかけてきました。
一学年上のお姉ちゃんが普通級で、お兄ちゃんが廊下にずっと立って教室に
入れずにいた日が何日もあったというのです。

私は何も知りませんでした。
自分の気持ちを言葉に表すことができないお兄ちゃんは、『辛い』とは
言ったことがありませんでした。

私に時々友達と笑ったよと言う話も全部作り話だったと、特学にうつって大分経ってから知りました。

特学に入って少しした頃『今のクラスにいて、1番良かったことは
自由に笑えるようになったこと。』と言いました。

私は知らなかったのです。
笑うと『笑うな!うざい。きもい』と罵られて笑うことも儘ならなかった事を。


お兄ちゃんは『学校は休まないもの』と心に決めていて、休みたいとも言ったことが
ありませんでした。

中学1年、2年と担任の先生は本当にお兄ちゃんを守ってくれました。
常に声をかけ、少しでもお兄ちゃんが学校を楽しめるように気にかけてくれていました。

私はそれに甘えていたのです。
それで十分だと思っていたのです。

『僕には1年、2年の想い出がありません。』その言葉にお兄ちゃんの
苦しかった全てが詰まっていると思いました。

子供は守られているだけでは、想い出は積み重ねられないのだと知りました。
お兄ちゃんの、中学の想い出が、できて本当に良かったと思いました。

高等養護学校へ行っても、たくさん笑って、いっぱい想い出を作って欲しいと
思いました。




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