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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

イエズス・キリストの精神、考え、生き方を受けるか否かによって、復活して永遠の命に導かれるか否かが分かれる。イエズスは識別のさからいのしるしとして立つ

2024年02月07日 | お説教・霊的講話

2024年2月3日(土)お説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日はミサの後の感謝の祈りのすぐあとに、聖ブラジニオのろうそくによる喉の祝別をします。ご希望の方は祝福を受けてください。

昨日はマリア様の御潔めの祝日で、シメオンがマリア様に預言をいったことを黙想いたしました。
「この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。そうして、多くの人のひそかな思いが明らかにされるのです。あなたの心も、剣で貫かれるでしょう」

シメオンのこのことばを聞いて、イエズス様がさからいのしるしとして立たれるということを私たちは知ります。

イエズス・キリストの精神を、イエズス・キリストのお考えを、イエズス・キリストの生き方を、受けるかあるいは拒否するか、によって、復活して永遠の命に導かれるか、あるいは永遠に滅びてしまうか、その識別のさからいのしるしとして立つ、とシメオンは私たちに言います。

わたしたちがいつもイエズス様の生き方に、イエズス様の精神に満たされますように、お祈りいたしましょう。

イエズス様の精神というのはいったい何なのでしょうか。イエズス様の何を受けるか受けないかによって、わたしたちは決定的に違いが出てくるのでしょうか。それは、十字架の友となるか、あるいは十字架の敵となるかです。

イエズス様の十字架は本当のキリストの弟子を識別させます。総てがうまく行っているときには、あるいは聖徳が敬われている時には、人々はたとえそれが自分を愛する自己愛からでも、あるいは機械的であったとしても、周りの人のよい模範に助けられて、多くの人が信仰生活を送ることが容易にできています。しかしもしも反対や迫害や十字架に直面すると、そのときにいままで機械的に形だけでやっていた人、あるいは偽善的にやっていた人、あるいは実は冷淡だった人は、それにひるんでしまいます。そして十字架に直面すると、主をほんとうに愛した人だけが残ります。十字架の下でも、聖金曜日にそうでした。その時に多くの人々の秘かな思いが明らかにされます。

わたしたちの信仰生活は何に基づいているのでしょうか。わたしたちの動機は何でしょうか。人の称賛を受けること、だけを熱心にしているのでしょうか。それとも隠れたことや卑しいことをわたしたちは熱心に行うでしょうか。それともおろそかに行うでしょうか。わたしたちがもしもよいことをしてもそれが評価されないと、やる気をなくしてしまうのでしょうか、それともイエズス様のためにおこなったので、それでもやり続けようと思うのでしょうか。

わたしたちは、わたしたちの聖徳はイエズス様への信仰と愛のうえに基づいているのでしょうか。それとも自分を愛するという砂の上に立っているだけなのでしょうか。わたしたちはすべてを、イエズス様をお喜ばせするために行っているのでしょうか。それとも、自分のやりたいことなのでしょうか。わたしたちが軽蔑を受けたり、失敗した時にわたしたちはそれでも主を讃美し主に感謝するでしょうか。十字架はイエズス様の本当の弟子か否かを識別させてくれます。

またシメオンは言葉を続けてこういいます。
「あなたの心も、剣で貫かれるでしょう」
イエズス様に属する者は苦しみを受けなければなりません。

マリア様はいつもイエズス様に従いました。だから、シメオンはマリア様の心も剣で貫かれると預言しました。天主の友は、十字架の友で、イエズス・キリストのように苦しみを受けて、キリストとともに苦しみを分かち合う友です。イエズス様をお愛しすればお愛しするほど、わたしたちには友として、苦しみの杯になみなみと酒が苦しみの盃に注がれます。でもイエズス様から送られた苦しみは、十字架は、私たちを清めます。功徳を積ませます。主とますます一致させます。そして天国の栄冠を準備し、イエズス様とますます似通ったものとさせてくれます。私たちは、ともすると、十字架の価値、苦しみの本当の価値を忘れがちです。

最後に日本の殉教者たちに祈りましょう。この御御堂は日本の聖なる殉教者たちに捧げられています。ふさわしくない私たちですけれども、マリア様の御取次によって、本当の苦しみの価値を理解することができますように。そして、マリア様の御取次と殉教者たちの模範に従って、苦しみを受けいれる勇気と力が与えられますようにお祈りましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖シメオンと同じように、同じような心構えでロウソクの式にあずかろう

2024年02月07日 | お説教・霊的講話

聖シメオンと同じように、同じような心構えでロウソクの式にあずかろう

2024年2月2日 お潔(きよ)めのミサの前に、儀式の説明

愛する兄弟姉妹の皆様
ロウソクの祝別の儀式の始まる前に少しお話しさせてください。この儀式にどのような心構えで与るかということをお話しいたします。
今日のお潔めのミサの前には、ロウソクの祝別と、祝別されたロウソクの配布、それから受けたロウソクに火をともしてのロウソク行列があります。わたしたちはこれを持って一階に降りてこの駐車場のところをまわってロウソク行列を行います。その行列が終わりましたら、すぐにミサが始まります。
今日もしもロウソクを祝別したいという方がいらっしゃいましたら、この祭壇の近くの机の上に置いてください。今日の特別のお祈りで祝別いたします。

ではいったいどのような心構えでわたしたちはこのロウソクの行列の式に与るとよいのでしょうか。それは、私たちは聖シメオンと同じように、その聖シメオンがイエズス様と出会った、その時と同じような心構えです。その心でロウソクの式に与りましょう。

祝別されるロウソクは、世の光であるイエズス・キリストを象徴しています。私たちがロウソクを受けるというのは、ちょうどシメオンが主に会いたい、救い主が来ることを心待ちにしていた、あるいは一生かけて待ち望んでいたということです。

約束の救い主が、ちょうどマリア様がお潔めの式に神殿に昇られる時に、マリア様は普通の一般の女性のように見えるけれど、イエズスさまは普通の赤ちゃんのように見えるけれども、シメオンは聖霊によって、この方こそが、預言されていたメシアだと理解しました。

シメオンは、群衆の中をかき分けてマリア様に会いに行きました。おそらくマリア様にどうぞこの赤ちゃんを抱かして下さいとお願いしたに違いありません。待ちに待った救い主はこの方です、と。マリア様はおそらく少しは驚いたでしょうけれども、すぐに理解されて、救い主イエズス様をシメオンにお渡しします。シメオンと同じように、マリア様の手からロウソクを受けてください。

世の光がわたしたちについに与えられた。この赤子こそ異邦人を照らす光、またイスラエルの栄光である、とシメオンは歌います。
この子は、真理の光、誤りと罪の暗闇を追い払う光からの光、正義の太陽です。
この幼子こそ、本当の永遠の栄光です。この世が私たちに約束するはかないうつろな栄光ではなく、陰りのない果てしなき栄光です。

シメオンが歌ったように、わたしの目は主の救いを見たから、もうすぐにこの世を去ってもよい、という思いでこのロウソクを受けてください。そのあとではロウソクに本当に火をつける…世の光であるイエズス・キリストをわたしたちは受けます。真理の光を受けます。そしてその愛の熱を受けます。

ただ光を受けただけではなりません。教会はどうしてもこの世の光を教会の外に出して、行列を行って、多くの人にすべて人に、イエズス・キリストの光を受けるように、この光で照らされるように、愛によって暖められるように、と、望んでいます。

でもそのためにはわたしたちがキリストと一緒に外に出て、キリストの光をもたらさなければなりません。ですから、私たちはイエズス様と一緒にいるということを何もおそれないでください。イエズス・キリストこそが唯一の世の光であって、そしてイスラエルの栄光である。このほかには救いはありません。この光を世界にもたらすために、どうぞイエズス様に協力なさってください。

そして、わたしたちはこのお御堂に戻ってきて、ミサに与ります。考えても見てください。世の光、まことの救いをうけるお恵みが与えられたという特別のお恵みを、考えてください。全人類が何千年も待っていたその救い主がわたしたちに与えられました。そしてわたしたちはその光によって、道を照らされ、それからイエズス・キリストの御体さえも受けることができます。御聖体拝領、教えを受け、お恵みを受け、イエズス・キリストのそのすべてを受けることができます。この恵みに感謝いたしましょう。

このイエズス・キリストこそがわたしたちの栄光のもとであって、イスラエルの本当のわたしたちの栄光です。もしも人々の前で私のことを宣言するなら、わたしもお前たちのことを御父の前で宣言する。しかしもしもわたしのことを恥じるなら、わたしもお前たちのことを恥じる。わたしたちは栄光を誇りに思うことにいたしましょう。主が私たちに与える本当の栄光は、この世の栄光を受けるようなやり方では得ることができません。何故なら、イエズスの精神とこの世の精神は正反対だからです。

シメオンはイエズス様をマリア様に預言しました。この子どもは多くの人の救いと滅びのために立てられる逆らいのしるしなのだ、このイエズス・キリストによって、イエズス・キリストを受けとることによって多くの人は救われる。しかし、イエズス・キリストを拒否することで、キリストに反対することによって、人々は滅びてしまう。その逆らいの印となる。わたしたちは、わたしたちの愛する人々がイエズス・キリストを受け取ることができますように、お祈りいたしましょう。

マリア様にも仰います。あなたの心も剣(つるぎ)で貫かれるだろう、イエズス・キリストを愛すれば愛するほど、イエズス・キリストの苦しみにますます参与しなければならない。イエズス・キリストと似通ったものにならなければならない。マリア様は一番苦しむだろう。心は剣でグサグサに痛めつけられるだろう。

わたしたちも、このミサ、祈りをささげてマリア様の心をお慰めいたしましょう。

今日は初金曜日ですから、マリア様の御心を通してイエズス様の聖心に、今日のミサ・御聖体拝領をお捧げいたしましょう。ではいまから聖なる儀式が始まります。


2024年2月7 日は、2月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2024年02月07日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2024年2月7 日は、2月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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