Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

主は割礼という屈辱と苦しみのうちにイエズスという御名を受けたのだから、私たちも屈辱と苦しみを耐え忍ぶこと【霊的割礼】によってキリスト者という名にふさわしいものとなるべき

2024年02月08日 | お説教・霊的講話

「そのとき、幼児が割礼をうける八日目になったので、胎内にやどる前に天使によって呼ばれたように、その子の名をイエズスと名づけた。」(ルカ2:24)

イエズスという名前に対する愛と信心の恵みをこい求めましょう。

キリスト者と言う名前にふさわしくなるために、霊的な割礼の価値を知りこれを実践する力を求めましょう。

【1:主は屈辱と苦しみのうちに、イエズスという御名を受けた。】
キリストは、イエズスつまり救い主という名前を、屈辱と苦しみのうちに受けました。
私たちの主は、私たちを救うために、御自分が屈辱と苦しみを受けることによって私たちを救うために、この世に来られました。主がイエズスという聖なる名前を受けたのも、屈辱と苦しみにおいてでした。
割礼は、イエズスにとって屈辱的でした。何故なら、罪人の子供たちと同じ扱いを受けたからです。
割礼は、苦しみに満ちたものでした。主はもっとも繊細で敏感で完成されたお体をお持ちだったので、普通の人よりも良く痛みを感じました。主は、最初の御血を捧げることで、その後の十字架のいけにえの全ての苦痛をすでに予見し、受け入れ、捧げておられたからです。
幼き赤子となった天主が、生まれるや否やすぐに私たちのいけにえとなろうとされたその深い愛に、私たちは思いをはせましょう。私たちをこれほど愛する救い主は、苦しむことを厭わず、喜んで御血をながし、屈辱と苦しみを捧げられました。
イエズスは「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、天主はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめるためである。」Donavit illi nomen quod est super omne nomen, ut in nomine Jesu omne genu flectatur cœlestium, terrestrium et infernorum.(フィリッピ2:9-10)
この今から代々に至るまで、主の皆は祝せられさせ給え!日野昇るところから日の沈むところまで、主の御名は賛美されるべきなり。Sit nomen Domini benedictum, ex hoc nunc et usque in seculum. A solis ortu usque ad occasum, laudabile nomen Domini. (詩篇112:2)

【2:私たちは屈辱と苦しみを耐え忍ぶことによって、キリスト者という名にふさわしいものとなるべき】
割礼を通して、天主の御子がイエズス(救い主)という名前をお受けになったように、私たちが、口先だけではなく本当に、キリスト者、あるいは、イエズスの弟子、イエズスを信じる者という名前にふさわしくなるためには、霊的な「割礼」、心の「割礼」を受けなればなりません。
肉の割礼は、何の意味も価値もありません。しかし霊的な割礼には意味があります。霊的な割礼とは、私たちの自然な悪への傾きを切り取ってしまうことにあります。これを一生に一回だけではなく、何度も何度も、毎日、一生涯行います。私たちの罪の根源は、私たちが生きている間は消えないからです。取り去ったと思っても、抜き取ったと思っても、次から生えてくるからです。私たちの中の古い人を脱ぎ、新しい人を着なければなりません。私たちが、イエズスへの愛のために、霊的な「割礼」を行えば行うほど、ますますイエズスとの一致が深くなります。

【遷善の決心】
主の割礼の神秘は、あまい神秘であり、同時につらい神秘でもあります。
あまいのは、割礼と共に、イエズスという甘美な名前を付けられたからです。
つらいのは、イエズスという聖なる名前には、屈辱と苦しみと言う高い代価が支払われたからです。
私たちがイエズスという名前を聞くとき、感謝と愛と、礼拝と賛美の念が起こります。
イエズス・キリストという主の名前をいだく主の真似をし、主を慕って、イエズス・キリストの通られた道を歩もうという決心をたてましょう。キリスト者とは、なんと栄光ある名前でしょうか!イエズスと同じ栄光を受けるべき名前なのですから。
「私のあとに従おうと思うなら、自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それをうけるのである。よし、全世界をもうけても、自分の命を失ったら、それが何の役にたつだろう。また、人は、命の代りになにを与えることができよう。人の子は、父の光栄のうちに、その天使たちとともに来て、その日、めいめいの行ないによって、むくいを与えるだろう。」(マテオ16:24)

私たちはキリスト者という名前にますますふさわしくなるように、今年、どのような霊的な割礼を行うべきでしょうか?

一つ提案します。ケータイとかスマートフォンと言われている機械です。ひと昔、ふた昔でしたらテレビでしたが、最近はそのポケット版です。
朝起きてすぐ、祈りをする最中、仕事を始めようとする時、仕事や勉強の最中、家族だんらんの食事の時、就寝しようとする時、私たちの生活を邪魔する小さなスクリーンです。
歩きながら、運転しながら、夜寝ながら、片時も手放すことができないという程、まだ中毒にはなっていないかもしれません。しかし、私たちの心は雑念と好奇心と情念とで、ケータイをいじってどれほど多くの時間を過ごしていることでしょうか?
分からない言葉の意味を検索するとあっという間に教えてくれます。世界中のニュースを瞬時に知ることができます。ありとあらゆることについての情報をいとも簡単に手に入れることができます。しかし、スマートフォンのために、私たちは深くものを考えたり、心を静めて祈ったり、一つのことに集中することがますます難しくなってしまって、私たちはスマートではなくなってしまっています。
人は好奇心から、表面的で一時的なニュースで知性と記憶をいっぱいにしています。しかしそれは人類の将来に何も深刻な影響も与えないような無益な情報で、日ごとに入ってきては忘れ去られています。しかし、私たちを満足させることはできません。情報の大洪水に飲み込まれつつ、しかし知性にはむしろ大きな虚無ができます。
ケータイをチェックしたい、ブログの記事を読みたい、YouTubeを視聴したい、この言葉を検索したい、という時、それを霊的割礼としてお捧げするのはどうでしょうか?

聖母よ、われらのために祈り給え!



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