Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

主は割礼という屈辱と苦しみのうちにイエズスという御名を受けたのだから、私たちも屈辱と苦しみを耐え忍ぶこと【霊的割礼】によってキリスト者という名にふさわしいものとなるべき

2024年02月08日 | お説教・霊的講話

「そのとき、幼児が割礼をうける八日目になったので、胎内にやどる前に天使によって呼ばれたように、その子の名をイエズスと名づけた。」(ルカ2:24)

イエズスという名前に対する愛と信心の恵みをこい求めましょう。

キリスト者と言う名前にふさわしくなるために、霊的な割礼の価値を知りこれを実践する力を求めましょう。

【1:主は屈辱と苦しみのうちに、イエズスという御名を受けた。】
キリストは、イエズスつまり救い主という名前を、屈辱と苦しみのうちに受けました。
私たちの主は、私たちを救うために、御自分が屈辱と苦しみを受けることによって私たちを救うために、この世に来られました。主がイエズスという聖なる名前を受けたのも、屈辱と苦しみにおいてでした。
割礼は、イエズスにとって屈辱的でした。何故なら、罪人の子供たちと同じ扱いを受けたからです。
割礼は、苦しみに満ちたものでした。主はもっとも繊細で敏感で完成されたお体をお持ちだったので、普通の人よりも良く痛みを感じました。主は、最初の御血を捧げることで、その後の十字架のいけにえの全ての苦痛をすでに予見し、受け入れ、捧げておられたからです。
幼き赤子となった天主が、生まれるや否やすぐに私たちのいけにえとなろうとされたその深い愛に、私たちは思いをはせましょう。私たちをこれほど愛する救い主は、苦しむことを厭わず、喜んで御血をながし、屈辱と苦しみを捧げられました。
イエズスは「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、天主はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめるためである。」Donavit illi nomen quod est super omne nomen, ut in nomine Jesu omne genu flectatur cœlestium, terrestrium et infernorum.(フィリッピ2:9-10)
この今から代々に至るまで、主の皆は祝せられさせ給え!日野昇るところから日の沈むところまで、主の御名は賛美されるべきなり。Sit nomen Domini benedictum, ex hoc nunc et usque in seculum. A solis ortu usque ad occasum, laudabile nomen Domini. (詩篇112:2)

【2:私たちは屈辱と苦しみを耐え忍ぶことによって、キリスト者という名にふさわしいものとなるべき】
割礼を通して、天主の御子がイエズス(救い主)という名前をお受けになったように、私たちが、口先だけではなく本当に、キリスト者、あるいは、イエズスの弟子、イエズスを信じる者という名前にふさわしくなるためには、霊的な「割礼」、心の「割礼」を受けなればなりません。
肉の割礼は、何の意味も価値もありません。しかし霊的な割礼には意味があります。霊的な割礼とは、私たちの自然な悪への傾きを切り取ってしまうことにあります。これを一生に一回だけではなく、何度も何度も、毎日、一生涯行います。私たちの罪の根源は、私たちが生きている間は消えないからです。取り去ったと思っても、抜き取ったと思っても、次から生えてくるからです。私たちの中の古い人を脱ぎ、新しい人を着なければなりません。私たちが、イエズスへの愛のために、霊的な「割礼」を行えば行うほど、ますますイエズスとの一致が深くなります。

【遷善の決心】
主の割礼の神秘は、あまい神秘であり、同時につらい神秘でもあります。
あまいのは、割礼と共に、イエズスという甘美な名前を付けられたからです。
つらいのは、イエズスという聖なる名前には、屈辱と苦しみと言う高い代価が支払われたからです。
私たちがイエズスという名前を聞くとき、感謝と愛と、礼拝と賛美の念が起こります。
イエズス・キリストという主の名前をいだく主の真似をし、主を慕って、イエズス・キリストの通られた道を歩もうという決心をたてましょう。キリスト者とは、なんと栄光ある名前でしょうか!イエズスと同じ栄光を受けるべき名前なのですから。
「私のあとに従おうと思うなら、自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それをうけるのである。よし、全世界をもうけても、自分の命を失ったら、それが何の役にたつだろう。また、人は、命の代りになにを与えることができよう。人の子は、父の光栄のうちに、その天使たちとともに来て、その日、めいめいの行ないによって、むくいを与えるだろう。」(マテオ16:24)

私たちはキリスト者という名前にますますふさわしくなるように、今年、どのような霊的な割礼を行うべきでしょうか?

一つ提案します。ケータイとかスマートフォンと言われている機械です。ひと昔、ふた昔でしたらテレビでしたが、最近はそのポケット版です。
朝起きてすぐ、祈りをする最中、仕事を始めようとする時、仕事や勉強の最中、家族だんらんの食事の時、就寝しようとする時、私たちの生活を邪魔する小さなスクリーンです。
歩きながら、運転しながら、夜寝ながら、片時も手放すことができないという程、まだ中毒にはなっていないかもしれません。しかし、私たちの心は雑念と好奇心と情念とで、ケータイをいじってどれほど多くの時間を過ごしていることでしょうか?
分からない言葉の意味を検索するとあっという間に教えてくれます。世界中のニュースを瞬時に知ることができます。ありとあらゆることについての情報をいとも簡単に手に入れることができます。しかし、スマートフォンのために、私たちは深くものを考えたり、心を静めて祈ったり、一つのことに集中することがますます難しくなってしまって、私たちはスマートではなくなってしまっています。
人は好奇心から、表面的で一時的なニュースで知性と記憶をいっぱいにしています。しかしそれは人類の将来に何も深刻な影響も与えないような無益な情報で、日ごとに入ってきては忘れ去られています。しかし、私たちを満足させることはできません。情報の大洪水に飲み込まれつつ、しかし知性にはむしろ大きな虚無ができます。
ケータイをチェックしたい、ブログの記事を読みたい、YouTubeを視聴したい、この言葉を検索したい、という時、それを霊的割礼としてお捧げするのはどうでしょうか?

聖母よ、われらのために祈り給え!


すべての人々にあらわれた天主の恩寵、イエズス・キリストの恩寵とは何か?イエズス・キリストの教えとは何か?本当の愚か者とは?

2024年02月08日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2024年1月1日、主の御降誕後のミサの説教をご紹介いたします。その日の書簡は使徒聖パウロのティトへの書簡(2:11-15)からです。
「いと愛する者よ、すべての人々に、私たちの救い主、天主の恩寵があらわれた。それは、不敬虔と世俗の欲望をすてて、この世において、思慮と正義と敬虔とをもって生きるために、幸福な希望と、偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれを待ちつつあれと私たちに教える。イエズスは、私たちのためにご自分をお与えになった。それは私たちを全ての邪悪からあがない、善業に熱心に従い、受け入れられる民としてご自身のためにきよめるためであった。このことを、私たちの主イエズス・キリストにおいて、話し、勧めよ。」


愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、私たちの主は割礼を受け、イエズスという聖なる名前をつけられました。イエズスとは、ヤーウェは救うという意味です。

イエズス・キリストのおかげで、多くの聖人たち義人たちは、この世の命の後に、至福の王国で不死の命を生きることができるようになりました。シメオンは言います。「この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。」イエズス・キリストのおかげて、立ち上がる義人・聖人たちがでました。

しかし、この世の儚いあっという間に終わってしまう哀れな快楽に目を奪われて、刹那的に自分のやりたいことを追求して罪を犯す人々は、残念にも、不幸なことにも、永遠の滅びを受けることになってしまいます。

何故なら、「すべての人々に、私たちの救い主、天主の恩寵があらわれた」にもかかわらず、それを無視したからです。聖人たちの生活を見て、彼らの清貧や謙遜を見て、自分にそんなことはできない、それは愚か者のすることだと考えたからです。

すべての人々にあらわれた天主の恩寵、イエズス・キリストの恩寵とは何でしょうか?イエズス・キリストの教えとは何でしょうか?本当の愚か者とは、どのような人でしょうか?
今日は、聖パウロの書簡を読みながら一緒に黙想しましょう。

【1:イエズス・キリストの聖寵】
聖寵とは、天主から私たちに憐れみによって与えられる聖なる寵愛です。なぜ憐れみによって与えられるかというと無償に与えられるからです。

キリストの来臨以前には、どれほど聖なる義人であれ、天国に行くことはできませんでした。しかし天主の御子が人間となり、天主の聖寵である私たちの救い主が私たちに現れました。これが聖パウロのいう偉大な「敬虔の奥義」です。「キリストは肉体にあらわれ、霊において義とされ、天使たちに見られ、異邦人に伝えられ、この世に信じられ、光栄にあげられた」(ティモテ3:16)。
寵愛は、それを与える人が偉大であれば偉大であるほど、人はそれを受けることを欲します。ですから天主が私たちに与える寵愛こそ、もっとも願わしいもの、望まれるべきものです。イエズス・キリストこそ天主の聖寵、人々が最高度に欲すべきものです。イエズス・キリストは私たちの救いのために与えられました。イザヤの預言によれば「地の果ては全て私たちの天主の救いを見るだろう」(イザヤ52:10)の通りです。「天主は、すべての人が救われて、真理を深く知ることをのぞまれる。・・・ かれは、すべての人をあがなうために、ご自身を与えられた。」(ティモテオ前2:4)

キリストのご誕生によって、この聖寵が二つの仕方で現れました。キリストは、聖寵真理とに満ちて(ヨハネ1:14)いたからです。
まず、聖寵・恵みとして、天主からの最大の贈り物として私たちに与えらました。
次に、キリストは真理として、人類に教えるために現れました。キリストの来られるの世は無知と誤謬と異端に苦しんでいました。しかし闇を歩く人々は偉大な光を見ました。(イザヤ9:2)キリストは真理を教えつつ、良い業を行うこと、また、正しい意向を持つことを教えてくれました。

【2:イエズス・キリストの教え】
良いわざについて、聖パウロは「不敬虔と世俗の欲望をすて」ることを教えています。
何故なら、良いわざを行うためにまず罪を捨てなければならないからです。罪とは、あるいは、天主に直接反することです。つまり、敬虔さに反していることです。ですから聖パウロは不敬虔をすてるようにと言います。
罪とは、あるいは、この世のものごとを乱用することです。そのような罪は世俗の欲望と言われています。全ての罪は、私たちの隣人に反対して、あるい、世俗のあるべき秩序に反対して犯されます。ですから続いて世俗の欲望もすてるようにと言います。
罪のわざをすてたのち、私たちがなすべき善に関することを言います。「思慮と正義と敬虔とをもって生きる」と。
思慮:これは私たち自身・自分自身に関すること。あるべき限度を守って、思慮が命じる限度にしたがって物事を使ったり情念をコントロールして生活することです。自己克己と賢明、正義と勇気による生活です。
正義:これは隣人との関係についてです。
敬虔:これは天主との関係についてです。

「幸福な希望」を待つように書いて、目的について教えてます。死の直後の霊魂の栄光、またキリストの再臨の時の肉体の栄光です。
「墓にいる人々がみな、そのみ声の呼びかけをきいて、墓を出る時が来る。善をおこなった人は命のために、悪をおこなった人は永遠の罰のために、よみがえる。」(ヨハネ5:28)
人間の目的は「幸福な希望」です。この世で徳のある生活をすることではたりません。たとえ「思慮と正義と敬虔とをもって生き」たとしても、何か別のものを待ち望んでいます。真の幸福を希望するから、または、私たちが真に幸福となることを待ち望んでいるからです。

「偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれ」を待てと聖パウロは言います。【友を愛するものは、この友を待ち望みますが、自分のためだけでなく、彼の現れを愛する全ての人々のために望みます。】
「偉大な天主」何故なら、イエズス・キリストは「キリストは万物の上にあって、世々に賛美せられる天主である」(ローマ9:5)からです。「私たちはそのみ子イエズス・キリストによって、真実のお方のうちにいるのである。それは真実の天主であって、永遠の命である。」(1ヨハネ5:20)
「救い主」何故なら、イエズス・キリストは救い主だからです。「それはよいことであり、救い主なる天主のみまえによろこばれることである。天主は、すべての人が救われて、真理を深く知ることをのぞまれる。」(1ティモテオ2:3)天使はヨゼフにこう言います。「かれは、み民をその罪から救うお方だからである」(マテオ1:21)
「光栄のあらわれ」何故なら、イエズス・キリストは最初は謙遜のうちに来られました。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。」(フィリッピ2:8)「私は、心の柔和な、謙遜な者である」(マテオ11:29)しかし、キリストの再臨においては天主の本性が誰にも認識されるからです。「そのとき人々は、人の子が勢力と大いなる栄光とをおびて、雲にのってくだるのを見るだろう。」(ルカ21:27)

キリストは救い主ですが、どのようにして救い主となったのでしょうか?それは「イエズスは、私たちのためにご自分をお与えになった」からです。「私たちを愛し、私たちのために、香ばしいかおりの生贄として天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め。」(エフェゾ5:2)御自分をお与えになって、つまり、御受難によってです。
御受難の実り、その効果は、私たちが邪悪から解放されることです。「それは私たちを全ての邪悪からあがない」、私たちは罪の奴隷状態から解放されました。
「受け入れられる民としてご自身のためにきよめる」とは、民を聖化して、御自分の民、ご自分のために聖別された民とするということです。天主の民は、善業に熱心に従わなければなりません。「善をおこなえ。そうすれば、かれから賞せられる。」(ローマ13:3)「善をおこないつづけて倦んではならない。」(ガラチア6:9)

【3:罪人のおろかさ】
栄光をもって再臨される「偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリスト」の友人となる力をもちながら、主の敵となることを欲するほど、おろかなことがあるでしょうか?

「不敬虔と世俗の欲望」にまみれて、罪の中を生きること、天主の敵として生きることは、この世では不幸となり、あの世では永遠にみじめになることです。
聖アウグスチヌスによると、ローマ皇帝の宮廷に仕えていた二人の臣下が隠遁生活をするために修道生活に入ったそうです。その内の一人は聖アントニオの伝記を読み、この世の虚しさをますます理解して、もう一人にこう語ったそうです。「皇帝の友人になることは、私たちが希望することができる最高のことだ。しかし、皇帝の友となるためにはどれほど多くの危険や戦いがあることだろうか!たとえ皇帝の友となっても、それがどれほど長く続くというのだろうか?たとえ多くの危険を乗り越えて皇帝の友となっても、私たちが永遠の滅びの危険に身をさらすなら、何の利益があるだろうか?しかし、もしもそう望むなら、私はあっという間に、天主の友となることができる。聖寵という天主からの無限の宝を受け取ることができる。
キリスト教を信じない人々は、被造物である人間が天主の友となることができるとは不可能だと思うでしょう。何故なら、友情とは、友を等しくさせるからです。しかしイエズス・キリストは言われました。「私の命じることをまもれば、あなたたちは私の友人である。」(ヨハネ15:4)

私たちが創造された目的を忘れて、刹那的にこの世のことだけしか考えないのは、おろかなことです。思慮のないことです。この世の全てを儲けても、究極の目的を失ったら、それが一体なんのためになるでしょうか?私たちの本当の最終目的だけが、私たちを本当に幸せにすることができます。「心要なことは少ない。いやむしろただ一つである。」(ルカ10:42)それは、永遠の命です。「幸福な希望と、偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれ」です。

それを見失ってしまっては、目的地を知らないで船を運行させる船長のようです。遭難するか、座礁するか、難船するか、です。船長がたとえ船の操縦の仕方を最高度に知っていたとしても、どのような豪華船であっても、どれほど大きなスピードで移動することができても、どの港にどうやって行くのかを死ならなければ、それが何の役に立つでしょうか?

この世の知恵者も、富と名誉を持つ人々も、愉快な生活とあらゆる娯楽を楽しんでいたとしても、霊魂を救うためにどうすればよいかを死ならなければ、何のためにこの世に生まれてきたのかを知らないならば、死後には地獄が待つだけだからです。この世の物事は、全てうずたかくかき集めても、人の心を満足させることはできません。何故なら、私たちは天主を愛するために作られているからです。天主以外のものでは、本当の平和も幸せも見出すことができないからです。

【4:遷善の決心】
新しい2024年の始めに、遷善の決心をたてましょう。
イエズス・キリストの恩寵を受けて、イエズス・キリストの教えをうけいれましょう。
私たちの人生の究極の目的は、イエズス・キリストによって与えられる永遠の命です。

聖母に御取次を祈りましょう。私たちが聖母にならい、「この世において、思慮と正義と敬虔とをもって生きるために、幸福な希望と、偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれを待ちつつ」生活することができますように。

「そのとき、幼児が割礼をうける八日目になったので、胎内にやどる前に天使によって呼ばれたように、その子の名をイエズスと名づけた。」


2024年 ファイファー神父様のミッションの予定【2月9日のミサの時間が午後7時半になりました】

2024年02月08日 | 聖伝のミサの予定

2024年 ファイファー神父様のミッションの予定が変更になりました。

ファイファー神父様の飛行機の状況により、明日の大阪のミッションの予定に変更があります。
ご理解をお願いします。

2月9日:大阪【ファイファー神父、大阪でのミサ】
18:45 (6:45 PM) ロザリオ
19:30 (7:30 PM) ミサ(ファイファー神父) 

2月10日:大阪 
09:00 読誦ミサ(小野田神父)
09:45 ロザリオ
10:30 読誦ミサ(ファイファー神父)
11:30 講話 [その1]
13:30 講話 [その2]
14:30 ロザリオ
15:00 講話 [その3]
16:00 聖体降福式

Feb 9: Fr Tim in Osaka:
18:45 (6:45 PM) Rosary
19:30 (7:30 PM) Mass (Fr Tim) 

Feb 10: Fr Tim in Osaka: 
09:00 Mass (Fr Onoda)
09:45 Rosary
10:30 Mass (Fr Tim)
11:30 (7:30 PM) Spiritual talk [1]

13:30 Spiritual talk [2]
14:30 Rosary
15:00 Spiritual talk [3]
16:00 Benediction 


【参考文献】「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」PDFファイル

2024年02月08日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」PDFファイル 
👆PDFファイルは上をクリックしてダウンロードしてください。

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

目次

まえがき(レイモンド・レオ・バーク枢機卿)

序章

「通常」総会ではない
ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)
失敗した道
公会議主義から永続的シノダリティへ
「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」

第一章 司教シノドス
1.司教シノドスとは何ですか。
2.シノドスの結論は拘束力を持ちますか。
3.教皇や司教シノドスはカトリック教会の教理や構造を変えることができますか。
4.教皇フランシスコは司教シノドスでいかなる変更を導入したのですか。
5.教皇フランシスコは司教シノドスにおけるこの急激な変化をどのように正当化しているのですか。

第二章 シノダリティに関するシノドス
6.今回のシノドスのテーマとプログラムは何ですか。
7.このシノドスの目的は、具体的な結論を得ることなのでしょうか、それとも過程を始めることなのでしょうか。
8.教皇フランシスコはなぜ集会を2回開催することを決めたのでしょうか。
9.相当数の信者がシノドスや教皇の決定に反対し、拒否したらどうなりますか。

第三章 シノドスの過程

A 「シノダリティ」

10.「シノダリティ」とは何ですか。
11.シノダリティは何を求めていますか。
12.シノダリティは教会生活にどのような影響を与えますか。

B 「耳を傾けること」
13.なぜ「信者の声に耳を傾ける」ことが第一の役割なのですか。
14.牧者が信者の声に「耳を傾ける」という伝統的な感覚は存在するのでしょうか。
15.「耳を傾ける」という現代的な概念に欠点はありますか。
16.民の声は天主の声ですか。
17.彼らは耳を傾けることが必要だとするためにいかなる神学的正当化を行いますか
18.では、いかなるときに信者の信仰が不可謬であるのかを、どのようにして知ることができますか。
19.シノドス推進派は誰に耳を傾けていますか。
20.このように広範囲に耳を傾けることにはどのような危険性がありますか。
21.人は誤ったつまずきを与える提案を聖霊のものだとすることができますか。

C 教理の発展における信者の役割
22.信者は教会の教理を精緻化する役割を果たしますか。
23.それは信者が教会の不可謬性に積極的な役割を果たすという意味でしょうか。
24.シノドス推進者たちは、信仰の遺産の有機的発展において、教導権の積極的役割と信徒の受動的役割を区別していますか。

D 「疎外された少数派」の役割
25.シノドス推進派は、「疎外された少数派」の声に特に耳を傾けると主張していますか。
26.教区の協議で集められた「預言的証言」に含まれる「困難で否定的な経験」とは何ですか。
27.大陸レベルの協議はこれを反映していますか。
28.大陸ステージのための作業文書は女性の叙階について何と言っていますか。
29.これらのテーマは新しいものでしょうか。

E 「包摂」
30.シノドスの推進者にとって「包摂」(inclusion)とは何でしょうか。
31.「包摂」提案の背後には何があるのでしょうか。
32.今度のシノドスを理解する鍵は「根本的な包摂」なのでしょうか。
33.この「根本的包摂」は教会の構造や教理を変えるのでしょうか。
34.「包摂」は解放神学の「貧しい人々の教会」を実践しているのでしょうか。

F 大陸ステージのための作業文書
35.教区の協議で集められた証言の結果はどんなものだったのですか。
36.それはイデオロギー的に偏った文書でしょうか。

G 信者は意見を述べたのでしょうか
37.理論的には、シノドスの過程は「天主の民」全体から意見を聞くべきとされています。それは行われたのですか。
38.この数字が意味するものは何でしょうか。

H シノドスの核心は「セクト」か
39.なぜカトリック信者は無関心なのですか。
40.グリッロは、入門者のサークルの「外部」のものとしてのカトリックの大衆に言及するとき、一つの隠された集団のことを暗示していませんか。

第四章 教会改革

41.どのようなレベルで教会の構造を変えるべきなのでしょうか。
42.これらの変更は典礼にも影響を与えますか。
43.シノドス推進派によれば、教会の主な問題は何でしょうか。
44.聖職者主義をどのように治療するのでしょうか。
45.教会の現在の構造に対してどのような適応がなされるべきでしょうか。
46.この団体主義は緊張や意見の相違を生じさせませんか。
47.この過程は現代の民主主義とどう違うのでしょうか。
48.「共同体的な識別」とは何ですか。
49.教会の統治とはどのようなものになりますか。
50.信者の意見と教皇の意見が食い違う場合、どちらが優先されるのでしょうか。
51.シノドス推進派は、教会生活における共同体的共同責任を正当化するために、どのような神学的根拠を提示しているのですか。
52.「カリスマ」と信者の「役務」をどこまで認めるつもりなのでしょうか。

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】
A ドイツのためだけではない道

53.「Synodaler Weg」とは何ですか。
54.「Synodaler Weg」は世界的シノドスとは違いますか。
55.ドイツの司教たちはどこでその考えを得たのですか。
56.「Synodaler Weg」で発言するのは誰ですか。
57.「Synodaler Weg」はどれほど重要なのでしょうか。
58.「Synodaler Weg」はなぜ招集されたのでしょうか。
59.「Synodaler Weg」の背後には下心があるのでしょうか。
60.「Weg」は教会の文化的パラダイム・シフトでしょうか。
61.Weg推進派によれば、聖職者の性的虐待を引き起こすものは何でしょうか。
62.Synodaler Wegはどのような解決策を提案しているのでしょうか。
63.これは教会の破壊につながるのでしょうか。

B 教会の民主化
64.「Weg」推進派は教会統治に関して何をするつもりなのでしょうか。
65.評議会結成に合意はあったのでしょうか。
66.バチカンはこのシノドス評議会を承認したのでしょうか。
67.バチカンの介入は何か影響を与えましたか。

C 女性の叙階
68.女性の叙階はシノドスのテーマとどう関係するのでしょうか。
69.教会の教理は女性を司祭に叙階することを認めていますか。
70.女性に対して助祭職だけを承認することは可能でしょうか。

D 同性愛者を「包摂する」
71.同性愛の問題はシノダリティとどのように関係するのでしょうか。
72.教会は同性愛についてどう教えていますか。
73.教会は同性愛者を拒絶しますか。
74.同性愛者を教会に「包摂する」とはどういうことですか。
75.教会の道徳の教理は同性愛者を「包摂する」ように変えなければならないのですか。
76.教会の道徳の教理に代わるものとして、「Weg」推進派は何を提案するのでしょうか。
77.同性愛者を「包摂する」ことを求めているのは、「Weg」推進派だけなのでしょうか。
78.彼らは同性婚を合法化するための抜け穴を探しているのでしょうか。
79.バチカンはこれらの「祝福」を承認したのでしょうか。
80.ドイツ司教団と欧州の各司教協議会の反応はいかがでしょうか。

E - 家族の破壊
81.教会の教理によれば、家族とは何でしょうか。
82.「Synodaler Weg」は家族にどのような変更をしようと意図しているのでしょうか。

第六章 でこぼこ道
A 「Synodaler Weg」に反対する反応
83.枢機卿や司教は「Synodaler Weg」に対して抗議しましたか。
84.シノドスについて欧州の司教たちのコンセンサスは得られているのでしょうか。
85.  米国の教会は、いかがですか。
86.信者による「Synodaler Weg」の拒絶、そしてより広い意味で言えば「シノダリティに関するシノドス」の拒絶と言えるのでしょうか。
87.進歩的少数派だけでなく、全信者が意見を聞かれていたらどうなっていたでしょうか。
88.すべてのドイツ司教が「Synodaler Weg」を支持していますか。
89.教皇フランシスコは「Synodaler Weg」に困惑を表明しましたか。
90.バチカンの各部署は「Weg」に反応しましたか。
91.ドイツ司教団はローマの批判にどう反応しましたか。

B 当惑
92.教皇の反応は当惑を起こしますか。
93.バチカン当局者たちの反応は当惑を招きますか。
94.シノドスの過程の期間中に異端的な提言をしたことで処罰された人はいますか。
95.この寛大さは教皇フランシスコの他の態度と対照的でしょうか。
96.カトリック信者は心配していますか。

C 「ローマ式」妥協に向けて?
97.バチカン当局者と教皇フランシスコの発言に矛盾はありますか。
98.この作戦を説明できるでしょうか。
99.こうして私たちは、一種の妥協へと向かっているのでしょうか。
100.シノドスの過程が最終的な結末に至った場合、どのような教会になるのでしょうか。

結論

あとがき


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】